〈3.8〉キッドナップ・スナップコート
雪は怒りと後悔を半分ずつ抱えたままベッドに入ったが、朝起きると後悔の方が勝っていた。
未玖は許されないことを言った。でも、手を上げた私はもっと許されない。
きちんと説明するべきだった。母はそんな人間じゃなくて、その母に育てられた私もそんな人間じゃないってことを。
言葉を尽くしてそれを未玖に教え、それでもまだ母を貶めるようなら、そのときは……まあまた殴るかもしれないけど。
夜更けに帰っていた凍星が朝のリビングで、自分の運転手に学校へ送ってもらうよう雪と未玖に言った。中学生の未玖も、雪と同じ中高一貫の学校に通っているからだ。ただの気まぐれ、これも凍星の押しつける家族ごっこの一部に過ぎない。
歩いて二十分ほどの距離だったが、二人はそれに従った。
黒塗りの高級車は外から見た以上に広々としている。まるでコースの決められた路面電車のように、一切の歪みなくドライブは進行する。
運転席には寡黙なドライバー、助手席には大柄なボディガード。どちらも職務上で知り得た情報には耳を塞ぐタイプのプロだ。
後部座席で並んで座っている未玖に、小さな声で話しかけた。
「未玖ちゃん……昨日はごめん」
返事はなく、聞こえるのは静かなエンジン音だけ。つんとした顔で未玖は外を見ている。
「話したいことがあるの。昼休みに体育館の二階に来て。あそこなら誰もいないし……」
やはり反応はない。
本当に来てくれるだろうか、と雪は不安に思った。でも家には朝生や紫里やたまに凍星がいる。外に出れば責任感の強いハガネが離れてはくれない。
二人っきりで話せるのは学校だけだ。
もし来なかったらそのときは、中等科の教室まで押しかけて未玖を引っ張り出してこよう。
でもそうして二人きりになったとき、未玖に何を話すべきなのか?
学校につき、別々の校舎にはいり、授業を受けているあいだもずっと考えていた。
それは自分の人生を振り返ると同義だった。自分がやってきたことになんの意味があったのか。自分はなぜそれを選択したのか。一体自分は何者なのか。
“コートアーマー”が異常に好きなこと以外はふつうの十七歳の女子高生。
母子家庭で父は死んだと言われ育てられてきたけど、その母が死んだら父親が蘇って現れて、その上自分が雑誌やらネットやらでよく見た“コートアーマー”黎明期の巨星の一人だった。
で、今こんな羽目に陥っている。
泣きそうだった。味方はオス猫が一匹と、最近掃除に来るようになった女の子。あとたぶんボディガード。どんなことがあっても守るって、あの言葉くらいは少なくとも信じてやるか。
でも、そう考えると悪いものではない。少なくとも悪人はいない。まあマッツはときどき私のコートで爪を研ぐし、犀麻は「あ~」なんて言ってバケツをひっくり返すし、ハガネは無愛想で乱暴で自分勝手で部屋の掃除もしないものぐさだ。
でも、とにかく悪人じゃない。
ならまあたぶん、そんな人たちに囲まれた私も悪人じゃないんだろう。私を育てた母も。
なんとなく未玖に話すことが決まった。
昼休みになると、雪は学食で惣菜パンを買って、無人の体育館に向かった。たまに昼食を終えた生徒たちがバスケをしに来ることもあるが、それでも二階には誰も来ないし、目もくれない。
一階のコートの四分の一くらいの床面積しかない二階には卓球台と、使われなくなったマットの山しか置いてない。柵越しに下の体育館を眺めることもできるけど、雪はだいたい大きな窓から外の風景や、一階の渡り廊下を眺めている。だいたい、そう雪はいつもここで一人昼食をとっている。同級生は金持ちの子供が多くて、どうも馴染めなかった。
雪はいつものようにマットに身をゆだね、外のビル群を見ながら牛乳パックをすすった。別に仲良くお昼を一緒にするつもりじゃなかったけど、未玖が来る前から食べ始めるのはなぜか悪い気がした。
長く待たされた。本当はわずかな時間だったのだろうけど、携帯も体育館の時計も見ていなかった。
やっぱり中等科に行って呼び出して来ようか……そんなふうに思い出したとき、一階の渡り廊下をこちらに歩いてくる未玖の姿を見つけた。
ばくん。落ち着いた気分だったのに、再び緊張が蘇ってきた。
あれをしゃべって、これをしゃべって……と段取りをあわてて確認しだすくらいには。
そのときだった。いきなり小柄な“コートアーマー”が未玖の背後から現れて、彼女を後ろから羽交い締めにしていた。
ごっほ、と雪は牛乳を咳き込んだ。
黒い悪鬼のような“コートアーマー”はまったく学校の廊下に不釣合いだった。まるでCGで付け足したような違和感しかなかった。
何かされたみたいで、未玖はぐったりとする。丸めた布団みたいにぐんにゃりとした未玖の身体を抱え、“コート”はどこか窓の視界の外へと走り去っていった。
「えっ、えっ、えっ……誘拐!」
口に出して、ようやく事態を理解した。未玖が連れ去られた。一体誰に? 明らかに生徒でも教員でもなかった。どうしてわざわざ学校にまで忍び込んで? よりにもよってなんで未玖を? 神部凍星の娘だからか……あーなるほど……
「納得してる場合じゃない!」
雪は携帯を取り出した。今日は凍星の運転手に送ってもらうって伝え忘れていたのを、今さらになって気づいた。それでもあいつなら、ぴったりついてきて、今も外の往来で鋭い目つきを校舎に向けているに違いない。
こればかりは、必要なのは猫の手でも家政婦の手でもない。
ボディガードだ。
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