〈3.7〉なぜあいつが/冷たい屋敷(未玖)


 深夜、自分のねぐらに戻ってきたシルバは向精神薬を飲んで一眠りしたが、起きてもまだ怒りは収まらずパイプベッドの縁を殴りつけた。スチールのパイプがトイレットペーパーの芯のように潰れた。


「あのメスガキが! クソも自分で拭けねえくせに、この――」


 それから、およそ人前では口に出せないような、おぞましい呪詛を並べ立てた。


 もう少しだった。もう少しで、葬送小隊フェンレルに入れるはずだった。


 シルバは葬送小隊フェンレルの準構成員だった。準構成員といえば聞こえはいいが、要は潜入工作員スリーパーである。有事に備えてセミの幼虫のように待機を続け、この東京で葬送小隊フェンレルに害を及ぼすような危機が起こったときにだけ、葬送小隊フェンレルから指令が送られる。世界中にばら撒かれた幼虫の一匹。羽化せずに暗い地の下で一生を終える者が大多数を占める、保険としての幼虫である。


 身悶えするほど嫌な人生。自分が葬送小隊フェンレルである、という意識だけがシルバにコソ泥という汚辱を耐えさせていた。自分のこの姿は世を忍ぶ仮の姿に過ぎない。ひとたび事件が起これば、葬送小隊フェンレルとして華々しく活躍する。そんな夢想も限界に近かった。おそらくそんな一瞬は永遠に来ないまま、自分は地面の下で孤独に死ぬのだろうと気づき始めた。


 であれば、なんとしても葬送小隊フェンレルの正式なメンバーになりたい。そして願わくば、あの魔法の如き第七世代型“コートアーマー”を拝受したい。俺はこの地の底から這い出したい。羽を得たい!


 功績を上げればそれも叶うはずだった。それなのに……


 シルバは絶叫し、拳銃を撃ちまくって壁に穴を開けた。


「なんであいつが!」


 なぜあんな怪盗を自称する頭のおかしいガキが第七世代を持っている!


 俺が手に入れるはずの第七世代! 俺を羽ばたかせるための第七世代! 俺が望むすべてを持ったあいつが、俺の夢の邪魔をした!


 もはやシルバの頭を埋め尽くしているのは、言語に絶する憎悪だけだった。


 準構成員としての規範など、とうに消え失せている。


 シルバはパソコンを起動した。


 あのアマチュア模型屋のSNSアカウントに侵入し、“マッツ”とかいう奴とのメッセージ画面を呼び出す。


 結局ファントムの妨害のせいで、この“マッツ”が何者なのか知ることはできなかった。カフェのテラス席にいた客の顔は全員覚えているが、誰が模型屋の待ち合わせの相手だったのかはわからない。


 怒りのまま、しかし指先は丁寧な文章を打ち込んでいた。


『今日はありがとうございました。もしできれば、マッツさんの写真をくれますか』


 稚拙なメッセージだった。ふだんのシルバであれば、もう少し練っていただろう。


 ほどなくして既読がついた。


 返ってきたのは、ふくろうのぬいぐるみの写真だけだった。


 獣の唸り声を上げ、シルバは灰皿を机に叩きつけた。


『ごめんなさい。マッツさんの姿がもう一度だけ見たくて……駄目ですか?』


 これで駄目なら、あの模型屋の家に押しかけて半殺しにしよう。狂った頭でシルバは決意した。そうして情報を聞き出すしかない。


 もう一枚、写真が送られてきた。


 その少女の顔を見た瞬間、シルバは自らの口腔内でよだれが滴るのを感じた。


 たしかにあのカフェにいた少女だ。


 記憶の中でその少女が着ていた制服をなんとか思い出し、インターネットでどこの学校のものか検索を始めた。


 都内だけで学校は何百何千とある。しかも範囲は神奈川千葉など東京近県にも及ぶ。気の遠くなるような作業である。見つけたときには日が昇っていた。


 その間、シルバが飲み下したドラッグは四十三錠を数える。


 窓から差し込む朝日に、シルバは地面から這い出し、成虫となる自らを見た。





「お客様だから、自分の部屋に戻ってなさい」


 風呂上がりに宿題を教えてもらおうと談話室に入ったが、母にそう言われてむべもなく追い出された。


 参考書とノートを手に、未玖みくは階段をのぼった。


 こんな時間にお客様……談話室のソファーにかけていたのは黒尽くめの大柄な男と、小さな女の子だった。親子だろうか。でも男の方は岩と粘土で作ったような顔で、お人形のような可愛い女の子とはちっとも似ていなかった。どちらも外国人だった。


 女の子の方に、未玖はこっそり手を振ってみたがまるで置物で、何も返ってはこなかった。妹の紫里ゆかりとはえらい違いだ。小学生の紫里は子犬みたいに人懐っこくて誰にでもすぐ心を許す。


 たとえば、あのすすくにも。


 神部雪……自分と同じ名字であることすら嫌気が差す。みなが彼女を見ている。紫里は早々に年の離れた彼女をお姉ちゃんと呼び始めた。父はもとから雪にぞっこんだ。自分と紫里に対するのと同じくらい溺愛している。


 雪を蛇蝎の如く嫌っている母ですら例外ではない。その憎悪の深さゆえに、もっとも雪に心を奪われているといってもいい。


 誰も……誰も未玖を見ていない。


 紫里が産まれたときは違った。紫里は愛情を取り合うライバルではなく、こちらが愛情を傾けてやるべき可愛い妹なのだとすんなり理解できた。だけど雪は……


 二階の廊下で、その当の雪と鉢合わせして、未玖はびくりと立ち止まった。


 明らかに雪は戸惑っていた。


 頭の中を覗いてみなくたって、さっき同じカフェに偶然居合わせたことを雪が気にしているのがわかる。未玖も同じだ。


 これ以上顔を合わせていたくない。


「……私は何も見てませんから」


 心の奥からそう思っていた。本心だった。


 そう告げて、自分の部屋に戻ろうとした。だが、手を掴んで止められた。


「待って。違うから……未玖ちゃん、なんか誤解してるみたいだけど、なんだと思ってるの?」


 未玖ちゃん? 急に現れたくせに家族面するな。姉を気取るな! 私から全部奪ったくせに!


 怒りで目の前が真っ赤に染まった。言葉が口をついて出た。


「……別に、あなたがネットで知り合った人と会おうが私はなんとも思ってません。あのあと三人で何をしたのかも聞きたくないです」


「……違うからね、それほんと。変な目的で会ったんじゃないから。ただ――」


 雪は見苦しい言い訳を並べようとしている。こんな浅はかで薄っぺらい女が、我が家の平和をぶち壊して自分の幸せを奪ったなんて考えると、憎くてしょうがなかった。


「本当に気にしてません。売女の娘は売女だった。それだけだと思ってます」


 ぱん、と音がした。


 頬がじんじんと熱を放ち始めてからようやく、雪に平手打ちをされたのだとわかった。


 信じられない。


「違う……違うの」


 縋るように言ってきた雪を無視して、未玖は自分の部屋に飛び込んだ。


 精一杯の拒絶、思い切り扉を閉める。


 しばらくして、足音が扉の前から離れていった。階段を降りる音。


 信じられない。


 どうして……どうして私をぶてるの。かわいそうなのは私なのに。つらい目にあってるのは私なのに。悪いのは向こうなのに!


 ベッドにぼん、と仰向けになってそんなことを考えていると、理不尽な怒りはいや増してきた。張られた頬はまだ痛かった。その痛みと恥ずかしさが、未玖の怒りに油を注いだ。


 勢いよく起き上がって自分の部屋を出る。


 雪は風呂に入りに行った。三十分は戻ってこまい。


 未玖は隣の扉を開け、雪の部屋に侵入した。


 恐ろしいほど物がなかった。ベッドと制服と“コートアーマー”専門誌とかいうオタク臭い雑誌が並んだカラーボックスくらいしかない。


 学習机に携帯が置きっぱなしになっていた。


 ぶーっ。沈黙を裂くような振動音がして、未玖は一瞬身をすくめた。


 携帯の画面に何か通知が来ていた。


『今日はありがとうございました。もしできれば、マッツさんの写真をくれますか』


 今日の男だ。未玖は怖気を振るった。


 雪と同席していた優男と目つきの悪い男、どっちかわからないがこのzampodとかいう奴も雪に劣らず最悪だ。こんな汚らわしい物事をこれ以上自分のうちに持ち込んでほしくなかった。


 未玖は携帯を手に取り、ロックを解除した。いつか雪が目の前で打ち込んだ暗証番号を覚えていた。そうしてメッセージ画面を呼び出した。


 さて、なんと返してやろうか。できれば二度と雪と関わりたくないと思わせて嫌がらせしてやりたいが、そんな文面をわざわざ考えるのも煩わしい。


 思案しながら、部屋を見回すとベッドの枕元に小さなふくろうのぬいぐるみが座っていた。


 まだ決定的なことをする勇気がなくて、未玖はとりあえずそれをカメラで撮って送った。


 返事はすぐに来た。


『ごめんなさい。マッツさんの姿がもう一度だけ見たくて……駄目ですか?』


 なんとしつこい男だ。呆れると同時に、未玖は捨て鉢な気分になった。


 会話の相手が雪ではないと、この男に突きつけてやる。


 未玖はインカメラを起動して、自分の顔を撮った。


 その写真を男に送った。


 果たして、怯えたか気味悪く思ったか知らないが、それっきり返事は来なかった。


「ざまあみろ」


 未玖は携帯に残された自分とふくろうの写真、それにメッセージの履歴を消して、携帯を学習机の上に戻した。


 少し晴れた気分で自分の部屋に戻り、宿題をやっつけた。

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