〈3.6〉バーチャル・キリング/冷たい屋敷(雪)


 真っ暗な空間だった。


 見渡す限り何もない。地平線は漆黒に潰れて消えている。


 そもそも空と地すら存在しない。ただの虚無。


 あるのは、今踏んでいる細長い足場と、その先でそびえ立つ断頭台だけ。


 巨大な断頭台だ。まるで巨人。


 近づき見上げると、最上で待っている刃は小さくかすんでいた。


 台に歩み寄り、腰をかがめる。


 ゆっくりと仰向けになり、頭を台に置く。


 はるか上空、白い点となった刃が見える。


 台の脇に手をのばし、刃を支えている紐を切った。


 最初は何も変わらない。


 だがすぐに、かすかな音に気づく。


 びいいいいんびいいいいん、という鋼を弾いたような音。


 猛スピードで滑り落ちてくる刃の鳴き声だ。


 見る見るうちに、刃は大きくなっていく。


 近づいてくる終わりの音。


 最後の一瞬、視界が鋼色に染まったかと思うと、彼女の首は斬り落とされた。




 アーリャはゴーグルを外した。


 ベッド脇のサイドテーブルにそれを置くと、寝間着を脱いで、いつもの衣服に着替えた。白い襟のついた黒のワンピース。そこかしこにフリルがついていて年相応だが、戦闘の邪魔になるほどの量ではない。


 これは日課だった。毎日起きるたびに、VR空間で自らの死を経験する。


 最初の頃はギロチンが落とされると、我慢しきれず嘔吐した。死への恐怖などという生ぬるいものではない、死の実感そのものが彼女の幼い身体を襲った。


 その目的ゆえにギロチンでなければならなかった。仮想現実で……つまり視覚だけで死を想起させ、身体に死を誤認させるほどの鮮烈なイメージを与えるのはギロチンしかない。


 傷口に麻薬を塗り込んだり、幼友達を銃殺させたりするより、よほど高級で金のかかる少年兵の仕立て上げ方。しかし、それらよりも的確に精神を破壊する方法。


 もちろんアーリャはそんなことを知るよしもない。


 彼女がゴーグルを着けるのは、そうしなければ食べ物を与えられないからだ。


 コンコン。ノックの音。


 着替えましたか。ラヴロフの声。


 感情なくアーリャは答えた。「ダー」


 扉が開いた。隣続きのホテルの部屋から、リャサを着たラヴロフが闇のようにやってくる。


「出かける支度をしなさい」ロシア語でそう言った。「依頼人と会う時間です」


 アーリャはうなずいて、ベッドに置いてあった、肩紐のついたクマのぬいぐるみを背負った。


 四十階の部屋の窓からは、光を弾くビロードの如き東京の夜景が一望できる。


 それをきれいだと思う心は、アーリャにはない。





 あのあとも、ハガネはzampodにいろいろ質問していたが、雪はよく覚えていない。


 未玖がいた、そのことに気をとられていた。彼女はほどなくして友達と一緒に立ち去っていったが、そのとき一瞬こちらに向けた冷たい瞳は今も脳裏に刻まれている。


 そしてその双眸が、今また冷たくこちらに向けられていた。


 今日の夕食に、凍星とうせいは間に合わなかった。いつものことだ。雪の父親は恐ろしいほどの仕事によってスケジュールを埋め立てられている。


 つまり、いつもと同じ。沈黙の夕食。


 テーブルの角を挟んで隣に座っているのが、継母の神部朝生あそう。向かいの辺には、まだ小学校低学年の紫里ゆかりと、その隣でスープを口元に運びながら凍りついた視線を寄越してくる未玖がいる。


 護衛がいる手前、朝生は雪の分の夕食も作る。だが味は感じない。ハガネと外で食べてから帰ってきてもいいのだが、そこまで対立心をあらわにするのもためらわれる。雪の心はどこかという引け目を感じていた。


 食べ終えると、雪は手を合わせた。


「ごちそうさまです」


 皿をまとめて、立ち上がる。斬りつけるような視線が、未玖に加えてもう一対増えたのを感じた。テーブルを回って、皿を洗うためにアイランドキッチンに向かおうとした。


 朝生のそばを通り過ぎようとしたとき、その肘が雪にぶつけられた。


 手元が狂って、皿の山を取り落とす。鋭い音を立てて地面にぶつかり、皿は割れた。きゃっ、と何も知らない紫里はかわいい悲鳴を上げた。


「ご、ごめんなさい……」


「危ない! 気をつけて」


 朝生は白々しくそう言うと席を立って、皿の破片を拾い集める雪に加わった。しゃがみこんで一緒になって破片をつまみながら、雪の耳にそっと囁く。


 あなたがいなければこんなことは起こらないのよ。


 雪は何も言わず、破片を集めた。ゴミ箱に捨てた。


 朝生に対する怒りや憎しみはあまりわかない。突然、家庭の中にこんな異物が、しかも浮気相手の娘が現れたのなら、当然の反応だと思う。


 なぜか怒りがわくのは、神部凍星に対してだった。


 母は自分を身ごもって、凍星の人生の邪魔にならないようにと誰にも相談せず身を引いて姿を消した。母の決断は間違っていたと思うが、夜の仕事をしながら女手一人で自分を育て、そして亡くなった今となっては責める気にはならない。


 だが、凍星は違う。母の人生を狂わせた張本人のくせに、母が亡くなってから遅々と現れ、今さら引き取るという。そうやって連れてこられたのが、この凍土みたいな家庭だ。朝生も、未玖も、雪自身でさえ誰も幸せにならない決断。そのくせ、凍星は家族ごっこができたと悦に入っている。


 認めさせなくてはいけない。私はあなたの子供だが、あなたの玩具ではなく、ただ一人の人間なのだと。


 それを証明しようとして、ハガネの“コートアーマー”を持ち出したのだった。今考えれば子供っぽい。ハガネにも悪かった。


 夕食を終えて部屋で一休みしていた。


 こんなことばかり考えるから“コートアーマー”の月刊誌を読むなり、勉強をするなり、暇つぶしをしていた方がいいとは思うのだが、いつもやる気が起きない。


 だいぶ経ってから、風呂に入ろうと決めた。


 部屋を出ると、廊下で未玖と鉢合わせした。


 風呂を浴びたばかりのようで、濡れた髪に水色のパジャマを着ていた。頬は熱で少し赤らんでいたが、雪を見ると氷のような表情を浮かべた。


「……私は何も見てませんから」


 未玖は雪のそばをすり抜けて、自分の部屋に入ろうとする。


 雪はその手を掴んで引き止めた。


「待って。違うから……未玖ちゃん、なんか誤解してるみたいだけど、なんだと思ってるの?」


「……別に、あなたがネットで知り合った人と会おうが私はなんとも思ってません。あのあと三人で何をしたのかも聞きたくないです」


「……違うからね、それほんと。変な目的で会ったんじゃないから。ただ――」


「本当に気にしてません。売女の娘は売女だった。それだけだと思ってます」


 気づいたら、未玖の頬を張っていた。


 打たれた頬を押さえ、未玖は信じられないという顔でこちらを見ている。


「違う……違うの」


 あわてて雪は言い募った。だがもう一人の自分は別のことを叫んでいる。何が違うというのか。未玖は母を侮辱した。平手打ちの一つ食らわせて何が悪い!


 でも……まだ未玖は十四歳だ。私の妹だ。


 二ヶ月前に知り合ったばかりの妹は扉を閉めて自分の部屋に消えた。

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