〈2.11〉埠頭にて・X
「今日はお祭りデスカ?」
男は尋ねた。大柄なロシア人だった。まるで老木を削り出したような体躯で、角ばった顔に数多の経験と苦痛と知恵が刻み込まれていた。夜の空気に溶け込む漆黒のローブを羽織っていて、それはリャサと呼ばれるロシア正教の司祭が着るものだった。たしかに胸元には使い込まれた十字架のネックレスが光っている。
「まさか。警察とマフィアがやりあってるらしい。さっさと引き渡しちまうぜ。今夜の港はきな臭い」
答えた男は、降ろされたコンテナの一つを開けるためにチェーンの鍵を外そうとしていた。なぜ夜更けの港に神父が現れたのかを訝しむ様子はない。むしろ彼が気になっているのは神父の連れ合いだった。
七歳頃の小さな少女だ。襟と合わせ目にファーのあしらわれたコートに、耳あてのついたロシア帽をかぶっている。来たときから一言も喋らず、また永遠に口を開かないのではとすら思わせる。彼女の唇から白い息が漏れていないことに、男は気づいていた。
男は一度、似たような娘を見たことがある。借金にまみれた
「はい、モシモシ」電話がかかってきたようで、ロシア人は携帯電話を開いた。「はい、今到着したところデス。これから装備を回収シテ、それからミーティングしまショウ。ええ……ええ、ハイ。安心くだサイ、
「開けるぞ」
「古来から日本では言うデショウ、赤信号みんなで渡れば怖くナイ……」
ロシア人は聞いていない。ため息をついて男はコンテナを開け放った。
おびただしい量のバナナが津波のようにコンテナから
その波に乗って、釘で打たれた木箱が男たちの前に滑り出る。
男はバールを使って密輸品の蓋をひっぺがした。
「ほらよ。これ持ってとっとと消えな」
「オー、
ロシア人は電話を切ると木箱にうずくまり、中から自分の荷物……一着の“コートアーマー”をがしゃりと取り上げた。
だが、それは一般的な“コートアーマー”のシルエットではなかった。剥き出しのフレームと人工筋肉は上半身で断ち切られ、ヘルメットも存在しない。似たものを自動車工場のライン工たちに見つけることができる。無理な体勢での作業負担を軽減するために肩や背中につけるマッスルスーツだ。
それは
「おい、さっさと金を寄越せよ。俺も自分の作業に戻らねえと」
「お金は払いまセン」
「なんだと!」
ロシア人は無法を告げてから、悠々とショルダー“コート”を肩に羽織った。“コート”は装着者を感知し、人工筋肉を引き絞ることで半開きになっていたフレームを閉鎖していく。ロシア人の丸太のような肩、腕、胴体に“コート”が密着した。
「理由は三つ。一つ、ワタシの“コート”がバナナクサイ。二つ、ワタシはバナナが嫌いデス。三つ、アナタの顔はトテモ醜い」
言うが否や、ロシア人は合金フレームによって覆われた鋼鉄の拳を放った。ショルダー“コート”の性能によって神速を与えられた拳は、男の目が捉えるよりも早く、その顔面を潰していた。
そして右の拳を引いたかと思うと、今度は左の拳が男の顔にめり込んだ。機械音と共に左右の拳が立て続けに振るわれ、そのたびに肉の弾ける音と血飛沫が上がった。
突然、殴打の嵐がやむ。ゆっくりと倒れ込んでくる男を、ロシア人は両手で支えた。その頭はもはや血と肉の混合する汚物と化している。
だがロシア人はそれで終わらず、“コート”の膂力でその喉を容赦なく絞め上げた。
わずかに息のある男の口から、ひゅーと苦しげな空気が漏れる。
「古来から日本では言いマス……寝る前にキチント絞めよう馬鹿ノ首」
こき、っという音を立てて、男の頚椎が折れた。
ロシア人はボロきれのように男の死体をバナナの海に投げ捨てた。そして血にまみれたガントレットで首に下げた十字架を握ると、目をつむってひざまずいた。
「おお、主ヨ……ワタシはまた罪を犯してしまいまシタ。愚かで脆弱なこのオトコをお許しくだサイ……」
祈りを捧げるさまは、本物の聖職者のようだった。
ロシア人は立ち上がると、ショルダー“コート”を外して折りたたみ、自分の旅行鞄に納めた。それから再び木箱を探り、巨大なクマのぬいぐるみを引っ張り出した。
「アーリャ、アナタの荷物です」
「ダー」
アーリャと呼ばれた少女は、自分の身長よりも大きいぬいぐるみを受け取ると、クマの背中に縫いつけられた肩かけに両腕を通して、しっかりと背負い上げた。
「バナナ食べマスカ」
「ダー」とアーリャはバナナも受け取り、丁寧に皮を剥くと、ちびりちびりとかじった。
二人は男の死体と大量のバナナに背を向け、歩き出す。もはやこの港に用はない。
彼らの仕事はただ一つ。しかるべき報酬を得て、しかるべき相手を殺す。だが、そのためなら何人殺そうが、東京を火の海にしようが彼らのかまうところではない。屍山血河の頂上に、ただ一つの首級を戦旗の如く突き立てる。そうやって国々を巡ってきた。
今回は、舞台が日本、首級の名が神部雪。ただそれだけ。いつもと変わりはない。
「そう……ご安心くだサイ、
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