〈2.10〉埠頭にて・4
――見つけたぞ!
誰かの怒鳴り声が俺の足を止めた。立ち止まったのは、コンテナを貨物船に積み下ろしするためのジブ・クレーンの頂上だ。
「ちょっと、変なところで止まんないでって! こんなとこにいるわけないじゃん!」
「ミスったな……下は見るなよ」
「え……」
と、雪が顔を下に向けようとしたので、俺はその両目を“パーシヴァル”の篭手で覆った。話を聞いてるのか。
高さはおよそ七十メートル。下手なビルより高い。“パーシヴァル”の高度な姿勢制御アルゴリズムがなければ、吹きつける強風に煽られて落下しているだろう。
眼下では男たちが懐中電灯を振りかざしている。照明によってギラギラと照らされたコンテナの迷路を、蛍のような光跡が這い回っている。だが、その光の目的は蛍と違って、愛を交わすためではない。マッツを殺すためだ。
クレーンが回転しだした。
闇の空を切り裂いて落ちていく。浮遊感で下腹の奥が冷え込む。
雪の悲鳴は風に吹き流され歪んでいる。
地面という名の障害物を前方に感知したVALが警告を発する。
〈危険です。減速してください、マスター〉
重力に逆らえない以上、できない相談だが、やるしかない。
「
八メートルの長さを持つウィップが手の中で具現化する。
通り過ぎざま、橋型クレーンにそのウィップを振るった。鞭の先端はぐるりとフレームの一本に巻きつき、ナノマシン同士が結合することで固定された。
鞭に引っ張られ、俺たちは地面に激突する直前でターザンのように浮き上がる。
オプトを解除する。解き放たれた俺たちは再び宙に投げ出される。
そのまま地面に並んでいたコンテナの壁に、背中から激突した。
衝撃から守られていた雪は、砂煙に咳き込みながら、俺の腕から離れる。と、“パーシヴァル”の腹のあたりをごつんと殴った。
「今度やったら“ナイトライダー”のOS、しっちゃかめっちゃかに書き換えるからね!」
「……ごめん」その恐怖が素直に俺を謝らせた。
なんとか地上に戻ってきた俺たちは、ようやく周囲の状況を確認する。
……筆舌に尽くしがたい光景が広がっていた。
どうやら、雑に積まれたコンテナの小路の向こうにマッツは追い詰められたらしい。だが、あまりに細すぎで人間が入れる幅ではない。
その手前で、うずくまったアンジュと花目が押し合いながら、必死でマッツを呼んでいた。
「猫ちゃ~ん。治安維持への協力は市民猫の義務でちゅよ~」
「マッツ~、飼い主の顔忘れたんでちゅか~、ほら、おいで~」
刑事やマフィアたちは呆れたんだか固唾を飲んでるんだか、よくわからない緊張した面持ちでそれを取り囲んでいる。
酷い有様だった。街のワルどもが恐れをなす悪徳刑事とマフィアのボスが、地面に這いつくばって赤ちゃん言葉で猫を呼んでいる。今ここでカメラを回せば、莫大な金を脅し取れるか、秩父の山中に埋められるかのどっちかだろう。
がしゃがしゃと重苦しい音がして、“九尾”を着たミツグがぬっと隣に並んだ。
「ハガネ、どうする? ミツグちゃんたちはやりあっとく?」
「まあ……あれが終わってからでいいだろ。お前のボスも忙しそうだぞ」
「実はミツグちゃんも賛成なんだな。あんまり動かすと、こっからバイクで帰るぶんのガソリンなくなるし」
「燃費悪いからなぁ、それ」
「って!」と雪が振り返った。「やらせてていいの!? このままじゃどっちみちマッツは……」
「大丈夫だろう。だって――」
と、そこで、わっという歓声が俺の言葉をかき消した。
マッツがコンテナ小路の奥から走ってきたのだ。
「マッツー!」「猫!」
花目とアンジュが亡者のように飛びかかるが、マッツはそれをひらりと避ける。
さらに取り囲んでいた男たちの手も次々とかわし、こちらに駆け寄ってくる。
と、と、とん、と跳ねて、マッツは雪の胸の中に飛び込んだ。
地面に転んでいた奴らの視線が、俺たちに集中する。
満足気に自分の腕に顔をこすりつけるマッツを抱えながら、雪はおずおずと笑った。
「……えーっと、そういうことみたいで……へへ、なんかすんません」
九つの銃口が俺たちに向けられた。
「そいつは貴重な証拠品だ。渡せ!」
「警察に渡すな! てめえごとぶち抜くぞ!」
「蜂の巣にされてえか!」
「今なら見逃してやる! 猫を置いて消えろ!」
口々にわめく目の前の男たち。雪はたじろぎ、一歩後ずさったが、自分の腕の中で身体を丸めているマッツを見下ろすと、毅然とした表情を向けた。
口を開く必要はなかった。その顔が、確たる答えだった。
だが、男どもは俺の
俺はぷっつんという音を、耳の奥で聞いた。
「ふざけんなぁ!」
急に真後ろで叫ばれて、雪が飛び跳ねた。隣のミツグがぎょっとした顔を見せてきたが、もうどうでもいい。怒りだ。怒りだけが俺の内にあって、言葉を放たせる。
「お前ら、マッツのことはどうでもいいのか! 猫一匹だからって、追いかけ回してぶち殺して生ゴミみてえに棄ててかまわないってか!?」
俺は叫びながら思い出していた。黒猫の遺骸を廃棄物みたいに言ったあの獣医を。自分のペットの葬儀を寺に頼んで、本堂でむせび泣いていた飼い主たち。事務所でじゃれあっていた雪とマッツの姿。
あのどこかに“彼女”の言っていた人々の営みが含まれているのだと、俺は直感で感じていた。
「お前ら全員クソだ! 命の価値がわからねえくせに市民の安全を守るなんて抜かすな! 俺にボディガードを頼むな! こっちは命がけなんだ! こいつらは命がけで生きてるんだ!」
雪からマッツを取り上げた。“パーシヴァル”の膂力で、両手で首輪を引きちぎった。
「これが欲しけりゃお前らで争え! 俺の
首輪を男たちに向かって投げつけた。
空き缶みたいに何度か跳ねてからからと転がり、花目とアンジュの前で、ころ……と止まった。
二人は同時に目の前の首輪に飛びついた。お互いに口汚く罵りながら、地べたを転がって容赦なく髪を引っ張り、腹を殴り、顔に爪立てていた。
突如として開始されたえげつないキャットファイトに全員気圧されている。
俺と雪も例外ではない。
怒りもいつの間にか鎮火していた。一抹の後悔すら浮かぶ。
まさかこんなことになるとは……
花目が革靴でアンジュの鼻を蹴り飛ばし、首輪を奪い取った。
「取ったぞ、おらぁ! はっはっはっ、これで警視総監賞だ!」
聖杯をついに見つけた冒険家みたいに首輪を掲げる花目。だが、称賛の声はかからない。ドン引きする視線が集まっただけだ。
一方、敗者であるアンジュはぺたんと座って、うつむいていた。精魂尽き果てたと思ったのだが、どうも様子が違う。肩が小刻みに震えている。
アンジュは泣いていた。
「……うっうっ……ひどい……いっつもそうやって私の物取ってさ……なんで私にばっかりちょっかい出すの、お姉ちゃん……」
……お姉ちゃん?
勝ち誇った花目はわはははと首輪を振った。
「古今東西、妹のもんは姉貴のものと決まってんだよ! 偉大な姉を越えられると思ったか、
「うええーん! お姉ちゃんの馬鹿ー!」
「いつまで泣いてんだタコ助。お前、それより今年の年末は実家に顔出せよ」
「嫌だよ……! また警官隊待ち伏せさせるんでしょー!」
子供のように泣きじゃくる鳥籠杏樹と、それを子供のように煽り続ける鳥籠花目。
「これって……姉妹喧嘩に巻き込まれてたってこと……?」
マッツを抱いたまま、雪は呆れ顔で呟いた。
「……VAL、装着解除」
〈イエス、マスター。お疲れ様でした〉
俺の身体を覆っていた“パーシヴァル”がナノレベルの群体にほどけ、アタッシュケースの中に帰っていった。マッツは雪の腕から飛び降り、その奔流が
俺はナノマシンが帰還し終えたのを確認し、パチンと閉じてケースを持ち上げた。
「ばっか馬鹿しい。付き合ってられないね」
「帰るか」
「それ採用」
低レベルな姉妹喧嘩を続ける鳥籠姉妹と、おろおろ取り乱しているそれぞれの仲間たちから踵を返した。
「お前はどうする?」
地面で彫像のように座っていたマッツは、俺の呼びかけに仏頂面を上げた。
たっ、と走り出し、アタッシュケースを踏み台にして、俺の肩に飛び乗った。
右肩に重みを感じる。小さいが、命の重さを。
「やっとボディガードとして認められたんじゃない?」
と、からかってきた雪に、
「認められなくても守るのが仕事だ」
ハガネ、と後ろから呼びかけられた。ミツグの声だった。
「今度、マッツに会いに、遊びに行くかんねー。すすくちゃんもまたね!」
その楽天ぶりに雪は苦笑しながら、顔だけ振り返ってうなずいた。
俺は後ろを
マッツが渋く一鳴きした。
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