〈2.3〉護衛対象……猫


 俺は電信柱の影でサンドイッチを食っていた。


 足元から叱るような鳴き声が聞こえた。俺はため息をついて、ポケットからキャットフードの缶詰を取り出すと、ぺりと開けてケージの中に入れた。


 それをがっつきもせず、紳士猫マッツは上品に少しずつ食べた。


『マッツはこれしか食わないからな』アンジュの言葉に従って、ペットショップで一番高い缶詰を買ってきた。


「お前、俺の昼飯より高いもの食ってるんだぞ」


 俺の言葉がわかったのか、マッツは馬鹿にしたようにみゃーと返事した。


 ご苦労さまです、と以前に職質をかけてきた警官が、うってかわって慇懃に敬礼を寄越して通り過ぎていった。本当に花目はなめに問い合わせたらしい。周りがこれくらい馬鹿正直な奴らばかりだと助かるのに。


 時刻はお昼を回った頃。雪が下校するまで、あと四時間近くある。


 猫一匹そばにいるだけで、なぜか息が詰まってしょうがなかった。


 昨晩も二人(?)きりで、ずいぶんと過ごしにくい夜だった。まるで一挙手一投足を見張られている気分になる。雪が放課後ガレージハウスに行くと言っていたのが救いだ。



 瓶詰めのオレンジピールを四つほどかじった頃、チャイムの音が聞こえてきた。下校時刻を迎えた生徒たちがわらわらと校門から出てきた。


 その群れを突っ切って、小走りでこちらに駆けてくる人影……神部雪。


 雪は俺には目もくれず、足元のケージを抱えあげると、その中にいる四つ足の黒い紳士を見つめて黄色い声を上げた。


「ああ~、いい子で待ってたねえ~」


「ケージに入ってんだからそりゃそうだろ」


「かわいそうにね~、こんな面白くないのと一緒にいて、つまんなかったよね~。ガレージに行ったらたっぷり遊ぼうね~」


「……ここでケージから出すなよ! 逃げられたら面倒だ」


 呼んであったタクシーに乗り込むと、ガレージハウスに向かった。


 猫を連れて電車には乗れない。




 ガレージハウスの二階に上がると、雪は早速ケージの鍵を開いた。


 黒いからっ風のようにマッツが飛び出し、素早くジャンプを繰り返してクローゼットの頂上に登った。


「あぁ~なんで?」


 自分の手が届かないところに行ってしまったマッツを見て、雪は残念そうな声を上げた。


「あんまり撫で回したりするなよ。ただでさえ、住み処が変わってストレスなんだろうから」


「なんか詳しくない?」


「……昨日調べた。護衛対象パッケージへの理解は必要だから」


「とか言って、ハガネもはしゃいでんじゃないの?」


「うるさいな。お前、“ナイトライダー”の装甲見るんじゃないのか? ベルギー製だぞ」


護衛対象パッケージといえばさ」と雪は右手を掲げた。

 その手のひらには大きな絆創膏が貼られている。


「マッツにはしなくていいの、これ」


 うっそりと、俺はソファーから立ち上がった。


「え、え、ちょっ! うそうそ。冗談だって! やめてよ!」


「斬りはしない。ちょっと手を合わせるだけだ」


 マッツはクローゼットのてっぺんであくびをしている。が、すたすた近づいてくる俺を見て、ぴょんとひと跳ねし、事務机に飛び移った。


「…………」


 なにか? という風にマッツは青い瞳でこちらを見下ろした。いや、見下した。


 不毛な追いかけっこが始まった。


 成猫対人。結果は火を見るよりも明らかだった。



 十分後、俺は爪で引っかかれた顔を押さえながら、ソファーに倒れ込んだ。


「クソ! 俺がボディガードだってわかってないのかあいつ!」


「わかってるわけないでしょ」


 ずい、と雪が突き出した救急箱を受け取る。アルコールを垂らしたガーゼで傷跡を消毒した。滲みる。痛い。


 にゃーお、と棚の上にいるマッツは勝者の余裕を漂わせながらこちらを見下ろした。まるで王冠みたいに金の首輪が光っている。アンジュの飼い猫だから本当に純金かもしれない。


 俺は歯ぎしりして睨み返した。


「そこまでしてやんなきゃ駄目なの、あれって?」


 呆れたように雪が訊いてきた。


「血を流さなくても、手を合わせるだけで護衛対象パッケージへの気の入れようが全然違う。それにこれは俺の決意の問題もある。サイン一つですむ契約書と、血の誓約……どっちが重いかなんてわかるだろ」


 ふーん、と雪は自分の絆創膏の手を眺めた。あの儀式のときの、自分の気持ちを思い出そうとするように。


「じゃ、こうする?」


 雪は制服のスカートのポケットから猫用おやつの小さなパックを取り出した。いわゆるカリカリを一粒つまみ出して、俺の右手に載せた。


 二度目に触れる雪の手は暖かった。あのとき感じた血の暖かさとは別種のものだった。


 マッツがそろりそろりと棚を降りた。実際、雪がパックを取り出したときから、目の色が変わっていた。


 ごちゃごちゃした部屋に器用に足場を見つけながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。俺は緊張から一ミリも動けない。指一本でも動かせば、マッツが逃げていくビジョンが浮かんでいる。


 ごくりと喉を鳴らした。おやつを前にしたマッツがするのと同時だった。雪がぷっと吹き出したのが聞こえたが、マッツの青い宝石みたいな瞳から視線を切れない。


 ソファーの手すりに置いた俺の手のひらにようやくたどりついたマッツは、そのまま黒い小さな頭を突っ込んだ。


 はぐはぐ、とカリカリを齧っているのが手のひらの感触でわかる。


「はい」


 雪がその前足を一本掴んで、俺の右手に載せた。マッツはまったく気にせずおやつに夢中になっている。


 俺はそのまま右手を握り込んだ。おやつからシャットアウトされたマッツが抗議するように顔を上げて鳴いたが、俺の掌中にある爪は立ててこなかった。


 手の中に暖かい感触がある。ふさふさした黒毛と、硬い小さな爪、それにうっかり力を込めれば折れてしまいそうなほど細い骨。


 生きている。雪の手と同じだ。


 俺は手を離した。不満そうな鳴き声を立てて、マッツは俺の手からカリカリを奪い、より安心しておやつに集中できる場所に咥えていった。


「どう、これでいいの?」


「ああ」俺は心から言った。「やってよかった」



 それから二階で雪がマッツ相手に遊んでいるのを眺めて時間を潰した。


 両方から目を離したくなかったし、ガレージには猫を傷つけるものが多すぎる。二階に散らかしてあった“コート”の部品はとりあえずまとめてガレージに突っ込んである。


 雪が嬌声を上げてマッツと戯れ合っていた。今まで見たことのない浮かれようだった。俺には小馬鹿にした口調で話しかけてくるのに、猫相手となるとまるで子供といるようだった。


 マッツの動きはしなやかだった。あたりを飛び跳ね、テレビの上にいたかと思えば、次の瞬間にはソファーの下に潜り込んでいて、雪を翻弄することを楽しんでいる。


 流体的なその動きを見ていると、俺はファントムの“エギーユ・クレーズ”を思い出した。装甲のすべてを排して、機動力に特化した第七世代“コートアーマー”。あれは確かに戦場で使うよりは、宝物を盗み出すことの方が向いているだろう。対物ライフルはおろか、アサルトライフル一発でも喰らえばおしまいだ。


 あれをどこで手に入れたのか……必ず突き止めなければならないが、それは今ではない。雪の護衛が終わって、安全が確認されてから取りかかるべき仕事だ。あいつが葬送小隊フェンレルと関わっているならば、放ってはおけない。


 放ってはおけない? もしファントムが葬送小隊フェンレルだったら俺はどうするつもりだ。


 殺すのか?


「捕まえたぞ!」


 雪のはしゃいだ声に、俺は沈思から覚めた。


 制服を毛だらけにした雪がマッツを抱え上げていた。マッツは、この愚かな人間のためにわざとそうさせてやってるんだ、これが持てる者の義務ノブレス・オブリージュなんだ、という風に毅然とした猫面ねこづらを晒していた。


 が、金玉ふぐりが丸見えだった。


 寓話の裸の王様を思い出して。俺は笑ってしまった。


 そのときポケットが振動した。着信だ。


 電話に出て相手の声を聞いた途端、俺の心の平穏は吹き飛んだ。


 通話を終えて携帯をしまうと、それを察したのか雪が尋ねてきた。


「誰だった?」


鳥籠とりかご花目だ。今から出てこいってさ。悪いが、家に帰る時間だ」


「鳥籠って……ハガネを紹介した刑事の人でしょ。私も会ってみたい」


「どうせ、ろくでもない場所で会うことになるし、ろくでもない用事だぞ」


「お前のボディガードはケチくさいね~」


 雪は抱きかかえたマッツの顔をこちらに向けた。


 お前のボディガードでもあるんだぞ。


 俺はため息をついて、マッツをケージに入れるよう言った。

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