〈2.2〉レディ・プレーヤー・キャット
そのあと現れた黒塗りのリムジンに乗せられ、俺と雪は目的地のわからぬドライブに連れて行かれた。
運転席とのあいだには仕切り、窓はスモークガラスで、外の景色は一切見えない。
普段であれば、こんな危険な移動手段に雪を同行させるはずなかったが、アンジュの手配ならば突発的な襲撃はないだろう。むしろ断ったときの方が面倒だ。
「ねえ」と真向かいのソファーに座っている雪が身を乗り出した。
「ほんとにあの人なんなの? アンジュって誰?」
「アンジュはここらへん一体を仕切ってるマフィアの
「タメって言ってたけど……」
「高校生らしい。まともに学校に通ってるのかは知らんが」
耳をすますと、並走するミツグのエンジン音がかすかに聞こえてくる。
「ていうかマフィアって……嫌だからね。私、そんな人と会いたくない」
「向こうが会いたいってんだから、仕方ないだろ」
俺は車内に備えつけてある冷蔵庫を開けた。ビールやシャンパンに混じって、皿に盛られたオレンジピールが入っていた。それを取り出して左手でかじる。
「まあ、お前のことを知ってるってことは、神部凍星の娘ってのもわかってるんだろう。そうそう馬鹿な真似はしないはずだ」
「なんか落ち着いてるけどさ、これって私のせいじゃないよね。ハガネのせいでこうなってるんだよね。ボディガード本末転倒じゃない? 凍星さんに言うよ?」
「…………何がほしい」
「まあ、それは追々考えるわ、追々ね」
にやっと笑うと、雪は冷蔵庫からコーラの瓶を取り出して、ごくごくやり始めた。俺をからかったら一瞬で機嫌を直しやがった。
がたん、とリムジンが前のめりに揺れた。地下に降りたらしい。
しばらくゆっくりと走って、リムジンが停まった。
降ろされたそこは、冷え冷えした地下駐車場だった。走行速度や時間、曲がった回数からして、港区に入ったあたりだろう。だが、港区でアンジュが所有している物件など星の数ほどある。
俺はアタッシュケースをしっかりと握り、雪と離れないようにして、男たちとミツグに促されるまま進んだ。
階段を昇って奥の両開きの扉を開けると、クラブのホールが広がっていた。まだ客入りの時間ではないようで、すべての照明がつけられ、薄暗い営業時より広く見える。閑散としたホールの床を従業員がモップがけしていた。
ホールの端にある羅紗張りの階段を昇るよう言われた。あくまでも丁寧に、俺たちは脅されてなどいないみたいに。
二階の事務所に入ると、壁が全面ガラスになっていて階下のホールが丸見えだった。部屋の大半は意味のない成金趣味的な装飾で占められていて、品のいい神部宅の内装とはえらい違いだ。
そしてその机にかけているのがアンジュだった。
薄ピンクのシャツの上に、焦げ茶色で肩パッドの入った男物ジャケットを羽織っていて、おっさんのやるダサい服装だった。髪は茶色のおかっぱ、目は親戚の従姉みたいにニヤニヤしている。
豊満な体つきだが、『女を武器にして成り上がったんだ』などと陰口を叩く奴はこの街にいない。色仕掛けだけを頼りに、三十歳前後という若さで東京の六分の一を牛耳るマフィアのボスになれるはずがなかったし、そもそもそんなことを言ってた奴はだいたい殺された。
「よお、ハガネ。仕事は順調? 足りない経費があればバンバン言えよ。組織は船。“コートアーマー”の数は大砲の数だからな」
「それよりもなんの用事か訊きたいんだがな、
「お前は
アンジュのそばに立ったミツグは犬みたいにぶんぶんうなずいた。
「うんうん。アンジュ姉の言うとおり!」
「お前の“コート”をまともに直したこともあったっけ」
「この世で三人だけだよ、そんなのできるの。私と、死んだ父ちゃんと、ハガネだけ」
じゃあ二人だろ、一人はこの世にいないんだから、と俺が突っ込む前に、アンジュが立ち上がって思いっきりミツグを蹴り倒した。
「なら、そこのクソガキはなんだ、ミツグ!」
どかん、とミツグの剛体がぶち当たって、木製の棚がダンボールみたいに壊れた。
「てめえの目は節穴か! こいつはこのメスガキを護衛してんだろうがよ! どこがクソ
アンジュは手を緩めない。革靴が何度も容赦なくミツグの脇腹に突き刺さった。肉を蹴る鈍い音に混じって、うふう、と苦悶の声が漏れ聞こえた。
隣でびくりと雪が身体を震わせ、怯えたのを感じた。
会話で成り立っていたはずの空間が、一瞬で暴力が支配する密室へと様変わりしている。
直接脅さず、身内に暴行を加えることで威圧感を与える。ヤクザの常套手段だ。
俺はアタッシュケースを持ち直して、何かあったときのために、雪に身を寄せた。
ひとしきりミツグをいたぶったあと、荒い息でこちらを振り返ったアンジュはニヤニヤ笑いを再開させて、親戚の従姉に戻った。
「悪い悪い。こいつが無茶苦茶なこと言うからよ。お前は
無茶苦茶なことを言っているのはアンジュの方だったが、余計な抗弁は寿命を縮めるだけだ。
「いや……ハガネが
マジかこいつ。俺は思わず隣の雪を振り向いていた。
張り詰めた空気の糸が、びいいんびいんと振動し始めたのを感じた。
引き絞られている。待っているのは破裂か、それとも……
「ああ?」
アンジュの眉間に皺が寄り、捕食者の瞳が俺たちを貫いた。
事が弾ける前に、俺は急いで付け足した。
「こいつは……友人の頼みで引き受けたんだ。一回限りのアルバイトみたいなもんだ」
「なら、そんなに難しい話じゃねえな。私だってお前の友人だもんな」
雲行きがおかしい。みかじめ料を抜かれるだけかと思ったら、まさかアンジュの用件ってのは……
「お前に護衛してもらいたい奴がいるんだ」
断る、と出かけた言葉を飲み込んだ。同時に二人の人間を守る? そんなの不可能だ。
同じことを考えた雪が、声を出さずに口だけ「どーすんの」と動かしてきた。たった一人の自分に俺がどれだけ振り回されているか見てきたからだろう。
“パーシヴァル”を装着して無理やりこの場から脱出しても構わないが、雪を守りながらとなると、特にミツグが厄介になる。あの怪力不死身女の実力は折り紙つきだ。
それにこの窮地を逃れたとしても、アンジュとの敵対は避けられない。ファントムや傭兵に加えてマフィアの相手までするなんてまっぴらごめんだ。
「……こいつの依頼はまだ二週間近く残ってる。どちらかを犠牲にはできない」
「ああ、それは問題ない。そっちの都合に合わせて振り回してくれてかまわない。ただ三日間、無事に守りきってくれれば問題ないからな。おい、ミツグ!」
アンジュはぼっこぼこのミツグを立たせて、
好きに振り回してかまわないだと? そんな
「はい、ミツグちゃん戻りました!」
だが、俺はミツグが連れてきたそれを見て、納得した。
納得した上で、膝が抜けたような気分になった。
ミツグが持ってきたのは手持ちのケージだった。
黒猫が一匹、中で異様なほど落ち着いて横たわっている。
「私の飼い猫のマッツだ。毛一本、首輪一つ傷つけるなよ」
アンジュはだらしなく笑ってケージに手を突っ込み、粗野な父親が子にするようながさつさで喉を撫でた。
俺はため息をつくところだった。
猫を守るだと? そんなことのために、マフィアのテリトリーに大仰に引っ張り出され、暴力ショーまで見せて脅されたのか? 落差についていけなかった。
だが、その場で一番のんきだったのは雪だろう。
“コートアーマー”にするときと同じキラキラした目を、黒猫に注いでいた。
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