〈1.7〉龍は昇る

 大学構内は空爆に見舞われたような騒ぎだった。大学生たちは悲鳴を上げて逃げ惑い、一刻でも早くこの場から離れようとしている。ぶつかってくる人たちから雪をかばいながら、敷地の外を目指して走る。


「おい!」と誰かが叫んだ。振り返ると、“ケルベロス”たちが扉を力任せに押し破って、講堂からくぐり出てきた。


 なぜこっちに来る? 狙いは神部凍星じゃないのか?


 “ケルベロス”のうち一体が、“コート”用大型アサルトライフルを空に向かって乱射した。悲鳴を上げて、大学生たちがしゃがみこむ。


 俺はその装甲に緑羽のデカールを見た。


 “日曜学校”だ。あいつらを雇ったのは何者かは知らないが、買い物上手な奴らしい。メキシコで活動する“日曜学校”は“コート”使いの傭兵をするための闇組織で、彼らに仕事を依頼すればの一環ということで、相場より安くすむ。


 だがその報酬は、腕前の低さを意味しない。


 ライフルの銃口がまっすぐこちらを向いた。


 周囲の人間が身を伏せてる中、立ちすくんでいる俺たちはいい的だった。


「来い!」


 俺は雪の肩を抱いたまま、直角に進路を曲げた。銃声が鳴る。さっきまで俺たちがいた地面が五・五六ミリ弾の嵐で砕け散る。


 銃弾は俺たちの跡を追って蛇が這いずるように撃ち込まれていく。


 校舎の野外エントランスの陰に飛び込み、伏せた。遮蔽物にした塀に弾丸が突き刺さり、コンクリートの破片が舞い散った。


「どうなってんだ!」

「一体なんなの!」


 俺と雪は同時に叫んだ。


「お前を狙ってるのは怪盗だったんじゃないのか! あんな殺し屋なんて聞いてないぞ!」


「なんで邪魔しに来たの! 余計なことしないでよ!」


 ぐぐぐ、と俺たちは睨み合った。


 が、“ケルベロス”たちの方から片言の日本語で呼びかける声がして、一旦中断する。


「四十秒以内に女の子を出せ! じゃなきゃ、こっちから殺しに行く!」


「私はちゃんと自分の人生を一人で切り拓きたいの! あんたの邪魔さえなければ……」


「静かに」


 俺は雪を黙らせると、低い姿勢のまま遮蔽物の陰から襲撃者を覗いた。


 “ケルベロス”の数は一体増えて、五体になっている。増えた一体には緑の鶏のデカール。おそらくたちの指導教官だろう。たしか熟考家ディープシンカーという名だ。



 熟考家ディープシンカーはいち、に、と大声で数えだした。たった四十秒か。どこが熟考家ディープシンカーだ。


「……もしかして、狙われてるの私?」


「さっきからそう言ってる」


「……ごめんね。巻き込んで」


 俺は唸り声を上げて、アタッシュケースの提げ手を握り潰した。頼むからお前が謝るな。


 詫びなければいけないのは俺だった。敵対勢力の目算を見誤り、護衛対象パッケージから目を離し、そんなミスを犯してもなお、のんきに高を括っていた。


 戦え。俺の心の中の、古い部分がそうささやく。戦えばすむ。そのための“コートアーマー”も、今お前の手の中にあるじゃないか。


 嫌だ。着たくない。わかっていた。



 



 ずっ、と雪が膝を畳んで、立ち上がりかけた。


 反射的にその手を掴んで引きずり下ろす。


「何考えてる」

「だって私が行けばすむ話なんでしょ。じゃ、いいじゃん」


 いいわけないだろ。そう言おうとして、自分の左手が血にまみれていることに気づいた。


 俺のではない、雪の血だった。


 雪の薄い手のひらは血で真っ赤に濡れて、中央で痛々しい切り傷がぱっくりと割れている。できたばかりの傷はだらだらと血を流し続け、永遠に止まることはないかのように思われる。そうやって雪を失血死させてやろうとでもいうみたいに。


「お前、それ」


「あ、こんなの平気だって。ね。たぶん、さっき飛び込んだときに手をついて、そこらへんの破片で……」


 雪は周りの地面に散らばったコンクリートの欠片を指さした。俺はそれを拾い上げ、血だらけの自分の左の手のひらに突き刺し、ギリギリと引き下ろした。


 雪と同じような傷跡が生まれ、ぷくりと血の珠が浮かんだかと思うと、あっという間に一筋の赤い濁流となった。


「ちょっ、ちょっ! 何してんの!?」


 俺はなにも言わず、その傷ついた手で雪の右手をとった。


 指と指をからませ、傷口のある手のひらを密着させる。


「はっ? はっ? え、なに?」


「これは……だ」


 逃げようとする雪の指をぎゅっと捕まえる。密着した傷口がずきずきと脈打つ。その拍動が自分のものなのか、雪のものなのかわからなくなっていく。切り裂かれ、剥き出しになった身体の内側を通り穴に、自分と彼女の感覚がお互いの内側に流れ込んでいく。


 ピースが嵌まったような、なんてお上品な経験ではない。お互いの善性も、過去も、欠点も、罪も、いいも悪いも全部まとめて溶け合って、ただドロドロとした血の塊になる。


 それがこの儀式。


「これで俺の血と、お前の血は混ざり合った。わかるか? お前は俺の一部になった。たとえ何が起ころうとも、お前がどんなクソ野郎に成り下がっても、絶対に守りきってやる。だから、自分から死のうとするな」


「…………わかった」


 絡ませた雪の指が、ぐっと俺の手の甲を握りしめた。


 傷口がぐつぐつと痛みを発した。だが不快ではなかった。


「じっとしててくれ。俺がなんとかする」


 俺はアタッシュケースを持って立ち上がり、コンクリートの塀から身を乗り出した。


 五体の“ケルベロス”がさっきと変わらない姿勢で講堂前に集結していた。違っているのは全員の銃口がこちらに向けられていることだろう。


 そのうち先頭の一体、熟考家ディープシンカーの年季の入った機体が、拡声スピーカーでがなりたてている。


「さんじゅうきゅう! よん――おお、答えは決まったか!」


 俺はゆっくりと塀を回り込み、全身を火線に晒す。


「ああ、決めたよ、熟考家ディープシンカー


「私の名前を知ってるのか。私は君のことなんか知らないがな」


「有名じゃなかったからな。これが終わったら俺のことなんか忘れてくれ」


「そのつもりだ。死にゆく者の名が必要なのは墓石屋だけだ」


「刻まれるのはどっちの名前だろうな」


 俺は手袋を脱ぎ捨てた。右手に埋め込まれたセラフィム・エンジンが露出する。


 ――鉄よ、おこれデスペルタ・フェロ


 そうつぶやく。その認証コードと俺の声紋を“パーシヴァル”は確認した。


 胸高に持ち上げたアタッシュケースの電子ロックが外れ、勢いよく開け放たれる。


 飛び出したのは白色の龍だった。


 正確には有機ナノマシンの集合体。とぐろを巻いてぶち上がったその身体は鋼の竜巻と化し、発砲してきた“ケルベロス”の銃弾を弾き返した。白色の龍は俺の右手のセラフィム・エンジンをビーコンにして全身に巻きついていく。


 ナノミリサイズの分子機械群は、連続的に結合を続け、鎧を形成していく。インナークッションスーツ、人工筋肉、合金フレーム、分散系装甲。朽ちた骸骨が逆再生で身体を取り戻していくように。


 最後に残った龍の頭を、俺は掴み取り、自分の顔面に添える。へりのナノマシンがドラグーンマスクを吸着し、装甲の一部として完全に固定する。


 “パーシヴァル”――それがこの龍の真名、第七世代“コートアーマー”の機体名だ。

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