〈1.2〉金持ちってやつは


 翌日、起きてから簡単な朝食をとった。それからシャツを着替え、唯一のジャケットに袖を通した。


 身なりだけでもきちんとしておこうと思ったのは、これから会う人物のせいだ。


 花目に紹介されたのは神部かんべ凍星とうせい。ソフトウェア会社“オブリビオン”の創設者であり、普及率七〇%を誇る“コート”用OS“emeth”の開発者、つまりとんでもない金持ちだ。


 顔を洗った俺はソファーの裏に突っ込んであった大きなアルミ製のアタッシュケースを引っ張り出した。


 だが、しばらくそれを見てから、ソファーの裏に放り投げ、その上から更に壊れた本棚や、巨大な辞典をどんどん投げつけた。アタッシュケースは以前より深くガラクタの山に埋もれた。


 一瞬でもこいつを使うことを考えた自分に腹が立ってしょうがなかった。



 俺は手ぶらでねぐらにしてるガレージハウスを出た。



 神部の自宅は世田谷にあった。高い塀に囲まれてはいるが、三階建ての豪邸の頭が飛び出している。


 インターホンを押して名乗ると、しばらくして車両用の門が開いた。


 スーツ姿の男が待っていて、ボディーチェックを受ける。男が拳銃を携帯しているのが脇の膨らみでわかる。俺は自分の呼ばれた理由を疑った。ボディガードは足りてそうだが。


「ボスが待ってる。礼を逸するなよ、ガキ」


 庭を突っ切って、住宅に向かった。数人のボディガードがあたりを見回っている。下手なヤクザの親分よりしっかりしたセキュリティだ。


 指紋認証ロックで玄関を開け、靴を履いたまま家に上がる。内部の間取りを把握しようとしたらキョロキョロするなと咎められ、奥へ進まされた。


「ボスは書斎にいる」


 書斎は一番奥の部屋だった。


 扉を開けると、雑多な空間が飛び込んできた。知育玩具、学術書、“コート”の模型、それらがごちゃごちゃと散らばっていて、中央の書斎机に神部凍星がかけていた。


 若い。それが第一印象だった。


 ガソリン駆動による油圧式フレームが強化外骨格の主流だった黎明期から、その進展を予言し、“emeth”を作り上げ、現代の“コートアーマー”の始祖を生み出した男。確か五十代後半だったはずだが、セーターを着た神部の顔は異様に若々しかった。


 神部は持っていたタブレットを皮肉げに振った。


「君が二分遅刻しているあいだに、ある小規模だが有望な企業を買収した。だが、君に支払う額はそれに使った金よりもっと多い。共通の友人から優秀なボディガードだと聞いてるが、それが正しいことを祈ってるよ」


 花目は俺を紹介したことでどれほどの見返りを得たのだろう。金では買えないものかもしれない。大富豪とのコネクションというやつを。


「通常、ボディガードはチームを組んで対象を護衛する。ところが君は単独で依頼を全うし、今までに失敗もないと。本当か?」


「ああ」

 嘘をついた。失敗はある。たった一度だけ。最初の護衛対象パッケージで、最後になった仕事が。


「あんたには必要ないと思うが。日本でここまでの警備を自宅に敷いてる奴は初めて見た」


「護衛してもらいたいのは私ではない。……おーい」


 急に猫なで声を出した神部に、呆気にとられる。


 だが、書斎の奥の扉から入ってきた人物を見て、もっと驚くことになった。


 それは、昨日俺にばあさん突き飛ばしの冤罪をなすりつけたあの女子高生だった。


 おま、と言いかけた俺とは対象的に、女子高生の方は俺を見ても眉一つ動かさなかった。重機関銃のような冷たい視線だけが変わらず突き刺さってくる。


「君に依頼したいのは私の娘……すすくの護衛だ。これを見ろ」


 神部は一枚の手紙を俺に手渡した。衝撃覚めやらぬまま、二つ折りのそれを開いてみる。


『一ヶ月以内に、この世で最も美しい宝、神部雪嬢を頂きに参上する――ファントム』


 ――とキスマーク。なぜだ?


「……予告状か?」


「鳥籠警部によればファントムの手から逃げおおせた宝は今までない。他人の財産など知らんが、私の娘を誘拐するなんてことは絶対に許さない。そのために君を呼んだんだ」


 ……無性に帰りたくなった。今どき怪盗を名乗る頭のオカシイ奴に娘が狙われてる? そんな奴と戦うために、俺は呼びつけられたのか?


「警察に頼めよ、そんな話。それが嫌なら自前の護衛がいるんだろ」


「家庭の事情だ……君が口出すことではない。今決めるんだ。やるのか、やらないのか」


 ガレージハウスの家賃……月八万。光熱費……三万。溜まった“コート”の部品代のツケ……二十万。それらの値札が脳内で飛び交った。


「わかったよ。やる」


「君に頼みたいのは、登下校と休日の護衛だ。自宅と学校には警備の者が常にいる」


「……了解」


 それから俺は契約書にサインをさせられた。一ヶ月間、自宅と学校にいないあいだの神部雪の身柄を守る……そのために起こった怪我、物理的損害はすべて神部凍星が賠償する。


 万が一にも俺が死んだとき、誰に見舞い金を渡すべきか尋ねられたが、そんな奴はいないと答えた。だいたい怪盗ごときに遅れをとってたまるか。


「……そろそろ学校に行く時間じゃないか、雪?」


 準備してきます、と雪は身を翻した。俺はその右手を見た。あのとき俺を掴んだ、小さな白い手だった。をするべきか、ちらと考えた。結論を出す前に扉が閉まり、雪の背中は消えた。は必要ない。こんなのアルバイトだ。


 雪がいなくなると、途端に神部は膝を寄せてきた。


「それで、私の娘をどう思う?」


「どうって……」


「可愛いか、美しいか、どちらだ」


 選択肢その二つだけかよ。


「まあ、可愛い方なんじゃないか」


 つややかな黒髪のショートカットに華奢な身体の輪郭は、イランで見た美しい黒猫を思い出させる。まだ睨んでいるところしか知らないが、目もぱっちりしてるんだろう。それに高い鼻梁、挑戦的な唇、名前のとおり雪のように透き通った肌。池袋のあたりでも歩けば、スカウトやらナンパが寄ってきてボディガード的には面倒なことになるだろう。


「君の見立ては正しい」神部は満足げにうなずいた。「だからもし君が娘に手を出したら、私はありとあらゆる手段で君を殺すことになる」


「要らない心配だ。そんなに不安なら契約に含めておいてもいい」


「どういう意味だそれは。私の娘に魅力がないというのか!」


「ああもう、面倒くさいな!」


「もういい。とにかく君も玄関に行け。仕事は今この瞬間から始まっている」


 望むところだった。いつまでも親バカに付き合ってられない。


 雪が登校の準備を終えるまで、玄関の外で待っていた。しばらくすると、イカれた金持ちの娘がリュックサックを背負って扉から出てきた。


「遅かったな」


 返事はなかった。


 庭の小道を進んで、門の手前で立ち止まる。


 神部家の敷地を一歩出た瞬間から、こいつの安全のすべては俺の双肩にかかっている。


 だが怪盗相手と考えると、どうもやる気が起きない。脅威査定スレット・アサスメントはDマイナス。まるで落ちた金を拾うような仕事だ。あのハードケースを置いてきたのは正解だった。が必要な事態にはならない。


 雪はいつも徒歩で高校へ向かうらしい。都内では珍しい話だが、金持ちとはそういうものかと思う。


 自宅が見えなくなったところで、俺は話を切り出した。


「昨日はあんなところで何してたんだ。野次馬か?」


「……別に」


「あのなあ、言っとくけど、あのばあさんを転ばせたのは俺じゃないぞ。たしかにお前に言われなけりゃ、無視するつもりだったけど」


「いいから、もう少し離れてくんない? なんで連れ立って歩かなきゃいけないの?」


 神部凍星も俺も間違っていた。こいつは全然可愛くない。

 やる気メーターがさらに下がっていくのを感じた。

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