バディ・コート
1 トラブル・イズ・マイ・ビジネス
〈1.1〉トラブル・イズ・マイ・ビジネス
その屋外レストランは高層ビルの途中階にあった。
平生なら満杯の客で賑わう人気店だが、今、昼時のテーブルにかけているのは俺と、相対の
花目はこちらに赤ワインのボトルを差し向けた。
「飲まないのか?」
「未成年だっての」
「馬鹿だな。シャトー・ル・パンの06年だぞ。まあ、いいや。若いんだから食え食え」
テーブルの上には料理が並んでいる。海老と野菜のマリネ、鯛のソテー、牛肉とフォアグラの煮込み。
俺は何も言わずに付け合わせのオレンジピールを左手でかじった。右手は手袋をしている。
花目は自分のワイングラスにお代わりを注いだ。静かなレストラン内にとぷとぷという液体の満ちる音だけが響いた。ワインの酸っぱい匂いが俺の鼻をくすぐった。
職権、職権、と笑いながら花目はそのシャトーなんとかのグラスを薄い唇に運んだ。
ベレー帽の下から垂れた茶髪の房が風鈴のように揺れる。たとえ屋内であろうと、花目はロングコートを脱がない。下に着けた拳銃が見えるから。
「おい、そろそろ始まるぞ」
そう言うと、花目は机上の双眼鏡を持ち上げて、眼下の街を覗いた。
俺も自前の単眼鏡を取り出す。
中規模郵便局の周囲を封鎖している警官隊と車両が目に映った。最前線にいる軍隊アリみたいな機動隊が百メートルほどの距離をとって正面玄関を取り囲み、望遠鏡越しでも張り詰めた現場の緊張が伝わってくる。
「覗いてるだけでいいのかよ。あんたも下で仕事があるんじゃないのか」
「いいんだよ。あたしは嫌われてるから」
機動隊の先頭に陣取っているのは、装甲型強化外骨格“コートアーマー”を装着した精鋭たちだ。薄闇色の背面装甲には“新1”や“新2”という白抜き文字が見える。あれは先日、警視庁に制式採用されたというブロブディン社の“グリッド”だろう。漆黒のマシュマロマンが復讐に燃えてパンプアップしたような外見で、あれが市街地運用を前提とした市民に威圧感を与えないデザインだというのは無理がある気がする。
そのとき、郵便局の扉が開いた。
軍用“コート”を着込んだ犯人が、人質の銀行員の女を抱きかかえながらずるずると歩み出てくる。強盗犯が装着しているのはアーマー部分より隙間の方が多い旧式の“コート”、ゼノマトック社製“ガーゴイル”のブルガリアクローンだ。
すぐそばで轟音に耳を貫かれた。
“コート”を装着した
一秒後、五〇口径ライフル弾の命中した“ガーゴイル”のヘッドアーマーが中身ごと弾け散った。
即座に“グリッド”たちを先頭に――盾に、とも言う。
「よっ、た~ま~や~!」
花目は双眼鏡を置くと、自分の煙草に火をつけた。
「女子供を人質にとるような奴の頭が吹っ飛ぶのは、最高の酒のつまみだな。え?」
「あんたは悪趣味だ」
「あたしがガキの頃はあんな“コート”なんてなかったよ。いつの間にか戦争では“コート”を着るのが当たり前になってて、今では犯罪者まで使いやがる。おかげで昔と違って自分勝手なバカが増えたよ。そういえばお前の仕事の方は順調か? ヤクザ御用達の
「知ってるよ。こう答えるんだろ。『ぼちぼちでんな』」
「ボケやがって、鈍ったな。どうだ。久しぶりに本業をやるってのは」
「ボディガード業はもう辞めたんだ。わかってるだろ」
「これを見ても言えるか?」
ばさり、と花目は一束の書類をこちらに放った。
俺は書類をめくった。一枚目に俺の顔写真とプロフィールが書いてあった。
全部、偽りの情報だ。本当の名も、故郷もすべて焼き捨てた。
「“コート”の整備士資格と装着免許の書類だ。こっちは所持許可証。“コート”の機種は空欄にしといてやった。好きなのを持てるぞ。ほら、見終わったら返せ」
「今さらこんなもん要らない」
「そうか? これがあれば大手を振って“コート”の修理の仕事ができる。土建の現場で“コートローダー”も動かせる。何より警察の手入れにビビって、深夜に飛び起きることもなくなる。一週間、お前が我慢して仕事をするだけで手に入る未来だ。マトモな人生だ」
その言葉は驚くほど俺の心に響かなかった。
マトモな人生。うつろで空っぽ。なんの意味も見いだせなかった。
だから、俺がこう答えたのはマトモな人生に惹かれたわけではなく、ただ単に滞りがちな家賃や光熱費のことが頭をよぎったからだった。
「……誰を守ればいいんだ」
花目はにやりと笑った。
「そうこなくちゃな、ハガネ」
ビルを出ると、通りは人でごった返していた。報道許可証のない週刊誌の記者や、警視庁の最新機体をファインダーに収めようとする“コート”オタク、それにただの野次馬。
暴力的な人の波に逆らって無理やり進む。
斜め前で、誰かが転んだ。買い物帰りのばあさんが誰かに突き飛ばされたらしい。ごめんなさい、ごめんなさいねとつぶやきながら、曲がった腰で果物やら野菜やらを拾い集めていた。周りの人間は見向きもしない。卵のパックを蹴飛ばす奴までいる。
立ち尽くしていると、腕を掴まれた。
「ちょっと。一言くらい謝ったら」
振り返ると、俺と同年代の、つまり十代後半くらいの女子高生が俺の腕をがっしりと掴んで睨みつけていた。制服姿ということは学校帰りなんだろう。ショートカットで整った顔立ちだったから、睨みをきかせるとそこそこの凄みがあった。
俺じゃない、と説明するのも面倒だった。
何も言わずしゃがみこみ、周りの野次馬を押しのけながらばあさんを手伝う。女の子も俺の隣で買い物を拾っていた。なんとか全部エコバッグに戻すと、ばあさんに礼を言われた。
俺は何も返さずその場を離れようとしたが、また女の子に右手を掴まれた。
「おばあちゃんにまだ謝ってない」
どうして俺がそこまでしなきゃならない?
反論する気はとっくの昔に失せてる。それが俺のよくないところだってのはわかっている。
ずっ、と俺は手を引いた。手袋だけ彼女に残して右手がすり抜けた。
裸になった右手を即座にポケットに突っ込み、自由になった俺はすぐに背を向ける。
後ろから彼女の咎める声が聞こえたが、人のカーテンをジグザグに突き進んで振り切った。
手袋を脱いだことを少し後悔した。俺の右手がぼんやりと光っていることに、彼女は気づいただろうか。
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