第19話『お弁当』

 7月11日、木曜日。

 ゆっくりと目を覚ますと、部屋の中がうっすらと明るくなっていた。スマホで時刻を確認すると、今は午前6時過ぎか。

 カーテンを開けて外の様子を見ると、空はどんよりと曇っている。確か、今日は午後から雨の予報だったな。雨が降るとジメジメするし、せめて梅雨が明けてほしいものだ。

 リサさんの姿がないけれど、今日も朝食を作ってくれているのかな。有り難いけれど、当たり前だと思っちゃいけないな。

 今日も寝室を出ると、リビングの方が明るくなっており、エリカさんとリサさんの話し声が聞こえた。リサさんは早起きをするイメージがあるけれど、エリカさんは平日になってからはよく早起きできているなぁと思う。

 洗面所で顔を洗って、歯を磨いた後に俺はリビングへと向かう。すると、そこにはエプロン姿のエリカさんとメイド服姿のリサさんがいた。


「おはようございます、エリカさん、リサさん」

「おはよう! 宏斗さん!」

「おはようございます、宏斗様」


 エリカさんはもちろんのこと、リサさんまで笑顔で挨拶をしてくれることが嬉しいな。自分のことを受け入れてくれた気がして。

 エリカさんはゆっくりと俺の目の前まで歩いてきて、ぎゅっと抱きしめてきた。


「あぁ、宏斗さんの温もりと匂いはやっぱりいいなぁ。一昨日と昨日は一緒に寝ることができなかったからね。宏斗さん成分を堪能しないと」

「そ、そうですか」


 どうやら、エリカさんにとって俺と一緒に寝ることは重要なのだろう。あと、こうして俺のことを抱きしめているのが幸せなのか、しっぽを激しく振っている。

 ただ、こうやってエリカさんに抱きしめられていて大丈夫かな。恐る恐るリサさんの方を見てみると、彼女は優しげな笑みを浮かべていた。


「エリカ様に抱きしめられることくらいで怒りませんよ、宏斗様」

「そうですか。昨日までのリサさんのことを考えると、どうも怒りそうな気がして」

「そんなことありませんよ。むしろ、今のように言われることの方がイラッとします」

「これはすみません」

「……ふふっ。宏斗様を信じ、エリカ様が嫌だと思うことをしなければ大目に見ると決めましたから」

「……そうですか」


 リサさんの口から俺のことを信じるという言葉を聞けるとは。嬉しさもあるけれど、安心したという気持ちの方が強い。

 これからは、エリカさんやリサさんと3人で平和に過ごすことができそうだ。そのためにも節度ある行動を取らないといけないな。


「さあ、宏斗様。朝食を用意しますので着替えてきてください」

「分かりました。毎朝ありがとうございます」

「あとね、宏斗さん。今日はリサと一緒にお弁当を作ったの。どういうお弁当なのか楽しみしておいてね」

「分かりました」


 誰かが作ってくれたお弁当なんていつ以来だろう。社会人になってからは社食かコンビニで買ったものだし、大学のときは学食が基本だった。多分、高校生のときが最後かな。エリカさんの言うように、どんなお弁当なのか楽しみにしておこう。

 その後、スーツに着替えた俺はトーストパンにサラダ、スクランブルエッグという洋風の朝食を取った。エリカさんやリサさんが朝食を用意してくれることもあってか、これまでよりも優雅な朝を過ごしているように思える。


「ごちそうさまでした。今日の朝食も美味しかったです。ありがとうございます」

「お仕事を頑張るためにも、朝食は大切ですからね。これからもエリカ様と一緒に作っていきますよ」

「そうだね、リサ。あと、できればお弁当も作っていきたいね」


 至れり尽くせりという感じもするけど、2人の気持ちは嬉しい。ただ、これから長く共同生活をするだろうから、家事について一度考えた方がいいな。


「そろそろ仕事に行きますね。今日も定時終わると思います」

「分かりました、宏斗様。頑張ってくださいね」

「お仕事頑張ってね、宏斗さん。はい、お弁当と、冷たい緑茶が入った水筒だよ」

「ありがとうございます」


 エリカさんから弁当と水筒が入った手提げを受け取る。


「ねえ、宏斗さん。リサがいるけれど、いってきますのキス……する?」

「恥ずかしくなるかもしれませんが、やってきましょうか」


 俺はエリカさんと頬にキスをし合う。キスをした瞬間は恥ずかしくなかったけれど、すぐ後ろで顔を赤くしているリサさんを見て、ちょっとドキドキしてしまった。


「今のお二人を見ていると、エリカ様は好きな人を見つけたのだなと思えます。宏斗様、職場などで浮気はしないよう気を付けてください。もし、そんなことがあったら、何回も拳を入れることになりますから」

「リサの気持ちも分かるけど、暴力はダメだよ。じゃあ、宏斗さん。いってらっしゃい」

「はい。いってきます」


 俺はいつもよりも重い荷物を持って、家を出発した。

 お弁当や水筒が入ったバッグを持っていることもあり、いつも以上に電車の中では気を付けるようにした。



 職場に到着すると、今日は愛実ちゃんの姿がなかった。珍しいな。何かあったのかとスマートフォンを手に取ったとき、


『電車が遅延しているので、9時に間に合わないかもしれません』


 というメッセージが愛実ちゃんから届いた。フロアを見てみると、いつもよりもまだ人が来ていなかった。その後、他のメンバーからも遅延で出勤が遅れるという連絡が入った。スマホで調べてみると、人身事故や信号トラブルでいくつかの路線が遅延していた。

 チームメンバーが揃わないまま仕事を始める。

 嫌な予感もするけれど、今日も大きな問題なく、定時に終わりたいものだ。そうなるように管理や調整をしていくのが俺の仕事の一つだけれど。

 始業時刻から30分ほどで全員が出勤してきた。みんな特にケガとかなく出勤してきて安心した。

 うちのチームメンバーは、木曜日くらいになると結構いい表情になるんだよな。そうなる気持ちはよーく分かる。今週末は海の日で3連休であることも大きいか。


「宏斗先輩。プログラムで分からないところがあるのですが、質問いいですか?」

「もちろん。どこが分からないかな」

「ええとですね……」


 配属されてすぐの頃は、今のように愛実ちゃんから質問されてばかりだったのにな。特に今年度になってからは、その回数が減ってきた。もちろん、それは技術や考え方が身についてきただからだろうけど、ちょっと寂しくも思う。

 午前中は特に大きな問題が舞い込むこともなく、昼休みの時間になった。

 今日のお昼はエリカさんとリサさんが初めて作ってくれたお弁当。どんな内容なのか楽しみだな。

 お弁当の蓋を開けてみると、玉子焼きや唐揚げなど定番のおかずが入っていた。どれも美味しそうだ。


「へえ、宏斗先輩のお昼ご飯はお弁当なんですね。美味しそうです。もしかして、自分で作ったんですか?」


 愛実ちゃん、興味津々な様子でそう訊いてくる。

 そうだ、このお弁当をきっかけに、エリカさんやリサさんのことを愛実ちゃんに話してみよう。


「ううん、違うんだ。実は一緒に住んでいる女性達が作ってくれたんだよ」

「えっ」


 その瞬間、愛実ちゃんの表情がうっすらと笑った状態で固まってしまった。彼女の顔を前で手を振っても、その状態は変わらず。


「愛実ちゃん。大丈夫?」

「あっ、いや……何でもないというか。そんなことはないというか。そ、そうですか。宏斗先輩は女性と一緒に住むようになったんですか。先輩は前に妹さんが2人いると言っていましたけど、妹さんじゃないんですよね?」

「うん、妹じゃないよ。115歳と110歳の女性なんだけど」


 俺はダイマフォンを取り出し、以前にくれたエリカさんとリサさんが一緒に写っている写真を表示させ、愛実ちゃんに見せる。

 すると、愛実ちゃんは苦笑い。


「も、もう。冗談きっついなぁ、先輩は。こんなにかわいい115歳と110歳の女性がいるわけがないじゃないですか。ネコ耳やしっぽも似合っていますし。へえ、彼女達と同棲しているんですかぁ。……あははっ。あたし、購買で何か買ってきます。先輩は先に食べていてください……」


 力の抜けた声でそう言うと、愛実ちゃんは力なく席から立ち上がって、フラフラしながらオフィスの扉へと向かっていった。

 しかし、扉から出る前に壁に頭をぶつけてしまう。そのときの鈍い音がとても痛そうだった。

 愛実ちゃんが先に食べていいと言っていたので、その言葉に甘えよう。


「いただきます」


 エリカさんとリサさんが作ったお弁当……凄く美味しいな。帰ったらちゃんとお礼を言わないと。

 お弁当は2人のことを話すきっかけにいいと思ったんだけれどな。愛実ちゃんの言うように、こんなにかわいい115歳と110歳の女性は地球にいない。2人の写真を見ながらそう思う。

 ただ、それだけであんな反応にはならない気もする。妹以外で女性の話はほぼしないから、エリカさんやリサさんと一緒に住んでいることを知って衝撃を受けたのかな。

 10分ほどして、愛実ちゃんはサンドウィッチと紅茶を買って戻ってきたけれど、それらにはほとんど手を付けていなかった。



 昼休みが終わって午後の業務が始まると、愛実ちゃんはミスを連発する。俺はもちろんのこと、チームのみんなで彼女のことを何とか支えるのであった。

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