第15話
*****
青とも灰とも言い難い庭石に一つの黒点が出来たかと思うと、それは次々と数を増やし、やがてすべてを同じ色へと変えた。
雨は庭の植物の葉や花弁を揺らしていく。多くの緑に溢れているのは同じなのに、この庭の赴きは王城や洋館のものとはかけ離れていた。
具体的に何がとは思い至らないが、静かでいて重厚な雰囲気を持つこの庭は、
「お待たせいたしました、ジラルド様」
この屋敷だけではなく庭園全体の主である、幽ノ藤宮に似ている気がする。
幽ノ藤宮はいつもと変わらない優雅な足取りで客間に入り、既に馨が準備をしていた座布団の敷かれた、ジラルドの対面に座した。
「後ほど、お茶をお持ちします」
廊下でそう頭を下げた馨に、ジラルドは首を振った。
「いや、いい。あなたが必要無ければだが」
幽ノ藤宮にそう目線を向けると、わたくしも構いませんよ、とかの人は微笑んだ。
ではそのようにと再び頭を下げ、馨がその場を立ち去る。
「あれでは、茶の準備をするのも大変だろう」
馨が完全に去ってからジラルドが口にした言葉に、幽ノ藤宮は笑みを浮かべるだけで何も言うことはなかった。
ジラルドはそんな幽ノ藤宮を見据え、問う。
「先程の彼は、自分のことを病気だと言っていた。あなたもそう言うだろうか?」
「場面に置いてはそうですね」
前振りの無いジラルドの問いかけに、しかし幽ノ藤宮は戸惑うこともなく淡々と己の論を述べた。
「必要な処置方法を説明する際には、現時点でわたくしが一番近いように考えているその言葉を使っております。ですが、発症の原因となる物質はウイルスとも菌とも言い難く、学問的な定義からすると、どちらかに分類することは出来ないものです。……あの現象は一つの分野の言葉だけでは表せず、また逆に、様々な表し方が考えられます」
ですから、と一度言葉を切る。
「苗床を見る時にあの現象の何を見るのかによって、その呼び表し方は変わるのでしょう」
目を伏せた幽ノ藤宮の表情は、ジラルドの質問に対して『自分の答え』を述べた時に馨が浮かべていたものと、少し重なって見えた。
「……そうか」
ジラルドは噛み締めるように頷いた。
「その、苗床の『それ』は、絶対に治らないのか?」
「治るということを、ジラルド様のように身体に植物が生えていない状態を保ったまま、病に罹る前と同じ生活を送ることが出来るというものとするならば、少なくともこの先しばらくの間は、難しいと思われます」
「体内も含めた、身体中の植物を取り払うだけでは意味が無いのか」
その言葉で何かを思い出したらしく、幽ノ藤宮は少し眉を寄せた。
「それは――以前、似たようなことを試さざるを得ない状況があったのですが、やはり駄目でした。短期間はそれでいても平気なのです。しかしこの病は、発芽体質を持つ以上、植物を取り払った以降も必ずそのままで居られるとは言い切れません。また、病にかかった時点で、罹患者は身体が持つ栄養の摂取能力の約半分を植物のそれに依存します。つまり、植物を取り払ってしまった身体が持つ力だけでは、必要な栄養を充分に得ることが出来ないのです」
ただ、と、幽ノ藤宮は言う。
「体質による植物の発芽や成長を促さない、身体のみに作用する専用の栄養補給剤を適時に打ち込むなど、植物から得なければならない分の栄養を別なやり方で身体に与え続けることでカバーをするならば或いは、とも」
「その補給剤はもう有るのか?」
「いいえ。しかし、研究によって生み出すことは出来るでしょう」
こちらを見据える背筋の伸びたその姿は、とても頼もしいものに見えた。
マティスの話によれば、この者はただ過去に功績をあげた偉人なだけではなく、今もって現役の、あらゆる分野での研究者なのだ。幽ノ藤宮がそう言うのならば、それはきっと机上の空論などでは無いだろう。
「それが完成すれば、」
ジラルドは机の上に手を付いた。
「カリスタも、あの樹から解放されるのか?」
「カリスタさんの場合は」
真っ直ぐな視線を受ける幽ノ藤宮は、言い淀むことも、言葉を濁すことも無かった。
「その摂取量は増えるでしょうが、補給剤によって栄養を得る方法が考えられるのは他の苗床と変わりません。ただ、おそらく彼女の半身――クリスタリアに飲まれている部分は、既に人体としての形を成してはいないでしょう」
ジラルドは息を飲んで黙り込んだ。
言葉が途切れると、それまで気付かなかったわらべ歌が何処からか聞こえた。
「ご気分を害されましたか」
「……いや、…………」
雨音の合間を泳ぐような子供らしい高い声からして、すずかが歌っているのだろう。なるほど聞き耳を立てずとも、この静かな館ではよく音が通る。
ジラルドは拳を握り締めた。
「すみません、ジラルド様」
幽ノ藤宮が自分を気遣っているのを感じる。
謝られるのは筋近いだ、勝手に期待をかけたのはジラルドの方なのだ。そう思い、何かを言おうとはするのだが、言葉が出ない。
「……僕は、……」
――カリスタに『自由』を与えたかった。
それまでの話で希望が見えていただけに、落胆は大きかった。
あんな樹に絡め取られて、好きに身動きもとれなくて。覚えていられる理由となるなら、同情されることすら嬉しいと笑う。
そんな彼女に『自由』を与えて、二人で歩いてみたかった。
妹が憧れの目を向けて読む愛読書に出てくるような、デューイのように歳を経てから語るのが恥ずかしく思える、デートというものをしてみたかった。
カリスタはジラルドにとって、
『それはむしろ、恋ってヤツじゃあないですか?』
初めて、恋をした相手なのだ。
「………待て。不可能だろうか?」
「ジラルド様?」
突然ジラルドが呟いた言葉に、
「義肢だ」
幽ノ藤宮は、僅かに目を見開いたようだった。
ジラルドは洋館で話をした相手、レヴィンの話を思い起こしながら続ける。
「テクナ・マシナの者と話をした。その者の話では、あの国では義肢の種類も、そして義肢の者も多いのだという。――その技術をもってして、カリスタと樹を離した後に、足りないものを補う新しい身体を与える。それは、不可能なのか?」
考えを確かめるように言葉にしながら、締めくくりを訊ねるようにしておきながら、ジラルドは不可能なはずが無いと確信を持っていた。
それに対する答えとして、
「結論から言うと、可能です」
幽ノ藤宮は静かに首肯した。
「テクナ・マシナの技術であれば、もちろんあくまで推測の域ではありますが、可能であると考えられます。わたくしがお付き合いをさせていただいている腕の良い医師の協力が得られれば、その可能性は更に高まることでしょう」
すらりと言葉を述べる幽ノ藤宮に、ジラルドは疑問を持った。
テクナ・マシナはネッサリアの近隣国。
この庭園にはテクナ・マシナの技術が使われている箇所がいくつもある。
そして本人の言葉通り、幽ノ藤宮は医学分野でも見識が広い。
「……これは、失礼な質問かもしれないが」
それだけの条件を揃えていて。
「僕でも考えられたようなことを、今まであなたは思い付きはしなかったのか?」
幽ノ藤宮は――いいえ、と微笑した。
「誰にも話してはおりませんが、内々では」
それはつまり。
「思い付いたのに……言わなかったのか」
幽ノ藤宮は何も口に出さず、笑みだけを濃くした。
それが答えだった。
「……例えば」
再び降りた沈黙の後、ジラルドが口を開く。
「僕がカリスタをシャグナへ迎えたいと言えば、あなたはどうする。もちろん今すぐには無理な話だが、そもそも先程の方法を現実化させるならば、あなたの協力は必要不可欠となる。だからあなたの意見を聞きたい」
対面の相手はくすりと笑った。
「ジラルド様もカリスタさんも、誰をも引き止めたりなどしませんよ。出来ません」
色合いの違う眼が、ジラルドの瞳を見据える。
静かな口調にも関わらず、幽ノ藤宮の言葉は力強さを感じさせた。
「そのような運びとなった場合、わたくしは全面的にご協力致します。庭園の管理責任者として――苗床を誰より思う者として、それを必ずお約束しましょう」
*****
ジラルドの話を聞き終えて、デューイは、
「それで?」
と、返した。
「それで、そんな話をお聞かせになって、殿下はオレに何をお望みなんですか?」
ともすれば泣き出しそうにも見えるその顔は、今度はジラルドが見たことのないデューイの顔だった。
椅子の背もたれに手をかけて、ジラルドは答える。
「カリスタが靴を履けるようになるのはまだ先だろうが、僕の気持ちを表すものとして、まず今のうちにも贈りたい。だから靴を買うのを手伝って欲しい」
そこまで言ってもデューイの表情は変わらず、ジラルドはふいと目線を外した。
「お前の気が乗らないのならば、強制はしない」
「靴ですか……? ……そういうことじゃ、無いでしょう」
殿下、と、懇願するように付き人は言う。
「オレは、カリスタさんは素敵な方だと思っていますよ。本心からそう思います。殿下が伴侶として迎えたく思うのも分かります。……ですが、気持ち一つ、それだけでどうこう出来ないものはあるんです。ですからどうか、お願いします」
考え直してください。
両眼を瞑って、どうか、と繰り返すデューイに、
「デューイ。僕は別に、お前に許しをもらおうと思って話したんじゃない」
――許されなかろうと反対されようと、僕はそうする。
ジラルドは、そう言い切った。
デューイの奥歯が噛み締められる音が聞こえた。
「王には……どう話すおつもりですか」
「僕は僕の考えを話す。いつものことだろう」
ジラルドがさらりと返したその言葉は、デューイの中で張り詰めていた何かを切ってしまったらしい。
「……あぁそうですね、いつものことだ」
頷くデューイは笑っていた。
普段からは考えられない笑い方だった。
「殿下はいつもご立派です。ご自分の考えを真面目に真剣に真っ直ぐに話される――相手のことなど碌に考えることも無くね」
吐き捨てるようなその口調に、ジラルドの眉が寄る。
「デューイ、――お前」
「すみませんね、だけどあぁもう無礼がなんだ」
知ったこっちゃねぇや、とデューイは一歩踏み出した。
「気に入らないのなら位の剥奪でも国外追放でも何でもしてくださいよ。こうなりゃ言いたいこと言わせてもらいます。今ここでオレが言っておかないと、きっと今後だって誰も殿下に教えることはない」
「……そうか。ならば言ってみろ」
「えぇ、言いましょう。光栄なお役目だ」
椅子に体を預けたジラルドに、デューイは更に近づいた。
自分を睨み上げてくるその目を受け止めて、彼はずっと抱えていた思いを述べる。
「殿下は一体何を知っている気で、何の自信があって話をしているんですか? 自分が知らないことが世界にはたくさんあるのだということを、誰より理解しているのはご自分でしょう。何故それに人の気持ちが含まれないのですか。自分の中にある尺だけでものを考えてしまうのを、そしてそれを押し通してしまうのを、少しでもおかしいとは思わないんですか」
「なんだ、僕の考え方が悪いと言うのか?」
「…………」
「物を知らない者は考えるなと言いたいんだな?」
「……ほら、また決めつけた。誰もそんなこと言ってやしません」
笑うデューイの表情には、悲しみが混じっていた。
「問題有るのはそういう教育の方かもしれませんね。外のことを知らないまま、狭い王城内で自分が一番なんて教育を受けてれば、誰でもそんな考えになるんでしょうか」
古いだけのシャグナの
ぼそりと落とされたその言葉に、ジラルドの熱は上がった。
「お前は、シャグナを愚弄するつもりか?!」
勢いよく椅子から立ち上がると、デューイに向かって叫ぶ。
「僕が気に入らないのは構わない、だがシャグナのことを貶すのは――」
「冗談言うな大事な祖国を誰が愚弄するか!」
ジラルドに負けないくらいの大声で返したデューイの目は、これ以上無いほど吊り上がっていた。
「殿下のことだってね、気に入らないからってこんなこと言ってんじゃないですよ! 殿下の言葉を誰もがハイハイ頷いて聞いてたら、殿下が間違った方向に進んだ時にどうすんですか! シャグナは長い歴史の間ずっと温和で在り続けてた訳じゃない、後に暴君と呼ばれる者が王だった時代だってある! 人の気持ちを考えないで自分の考えを押し通す統治者ってのは、城の外じゃあ独裁者って呼ぶんですよ!」
「――ッ、…………」
黙り込んだジラルドに、デューイは大きく息を吐いた。
話が大元からズレましたね、と額に手をやって口を閉じた後、ゆっくりと言い聞かせるように話し始める。
「人にも場所にも、個々に社会があるんです。その社会の中での常識やルールは、一人ひとり違う。自分が望んでいることで、自分の社会でそれが許されても、他人の社会との重なりを考えると選べないというものは、ある。せめて今は――そこを理解してください」
ジラルドは、静かに椅子へと腰を下ろした。
目線を膝に落としたまま、デューイの言葉の続きを聞く。
「ジラルド=サン=シャグナツィア、貴方の社会の軸はシャグナにある。そして貴方がシャグナ王国の王位継承者である以上、貴方の社会は貴方だけで閉じることは出来ない。重なる社会の数はおそらく、一般の民よりも多いんです」
「……重なる社会一つ一つの持ち主に了解を得たとしても、駄目なのか」
口元以外を動かさず、ジラルドは言う。
俯く彼の後頭部を眺め下ろしながらデューイは首を振った。
「現実的に申し上げると、それには時間が足りないでしょう」
王位継承者の正式認定を終え、ジラルドが次に迎えるのは伴侶の選択だ。
正式認定を終えた者は、一年以内に后とする者を自国内より選び、認定の一年後の日、同じ式場にその伴侶を伴って登場しなくてはならない。これも、シャグナ王国に長く伝わる伝統だった。帰国の後にジラルドを待ち受けているパーティも、言ってしまえばその候補の品定めのための機会なのだ。
一年で、現在の王である父や、我が娘こそをと意気込んでいる親たちを含む、国民全員を納得させられるのか。一年で、カリスタをシャグナに連れてこられるまでの状態へすることは出来るのか。
その答えは、デューイの言うとおりだ。
「なるほど……確かにお前は正しい。古いだけの伝統も考えものだ」
先程自分が激昂した言葉を口に出し、ジラルドは片手で両眼を覆った。
そして、ぽつりと言った。
「諦めるか――でなければ、先の王位を捨てるしかないのだな」
「……殿下」
デューイはその場に片膝をつき、ジラルドを見上げた。
「カリスタさんを選びたいという気持ちは……殿下にとって……、王位を捨てることを考えさせるほどのもの、なんですね」
「…………」
ジラルドの目は覆われていて、だから二人の視線が合うことはない。
戻らない答えに、デューイは一度目を伏せた。
「……ではもう、オレからは何も」
そう言って立ち上がった付き人は、その日、この部屋に戻ってくることはなかった。
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