2.そして名無しの青年は/六年半前
第2話
生まれてから二十三年。彼には名前が無かった。
彼のすべてを受け入れ、その人は、
「貴方の名前は今日から『いく』です」
異なった両の目で見据え、彼のことをそう呼んだ。
*****
ソルバノ村は、山のすぐ側にある村だった。
村名の由来となったソルバノ山から下りてくる透き通った水を信仰しており、水神を象った像がそこかしこにある村だった。中央の広場には共同の井戸があり、そこ以外から家庭で使う水を採ることは禁止されていた。
ただ一軒、――『バチネ』の家を除いては。
バチネとは、ソルバノ村のしきたりで定められた『汚れ仕事を背負う役名』のことである。その家に生まれたものに名前はつけられることはなく、家長をバチネ、こどもをバチネの子と呼ぶ。村内から娶られた嫁でさえ、それまでの名前は無くなり、バチネの妻と呼ばれるのであった。
そんなバチネの汚れを村に浸透させる訳にはいかない。
ましてや、神聖なる水に触れさせることは出来ない。
そうした決まり事から、バチネの家だけは、村の石囲いの外、一キロメートルは離れたところに建てられ、その家の横に掘られた汲み上げ式の井戸から代々水を得てきていた。
そんなソルバノは、彼にとって、古臭いしきたりに縛られた村だった。
(駄目だな、水を見るとどうしても故郷を考えちまう)
川の流れから目を逸らし、さくりさくりと草を倒して歩みを進めるのは、ソルバノ村のバチネの息子、三男である。二十三という歳からしては大柄な、銀髪の青年だった。
(村を離れてから……六ヶ月か? もう治まってりゃいいけどな)
あの頃は歩む度に痛んでいた身体には、もういくつかの傷しか残っていない。
――半年前、青年の村を奇妙な病が襲った。
発症の一人目は少年だったと記憶している。しばらく前から痒いと訴えていた少年の背中から、ある日突然青々しい植物が生えてきたのだ。その翌々日から、同じような症例が村の中で上がった。病への対処を考え始めようとしていた医者も数日のうちに感染してしまい、村中は混乱した。
しばらくして感染者の中から死亡者が出たことをきっかけに、これまた村に古くから伝わる『流しの儀』が行われることになった。
流しの儀とは、簡単に言えばバチネを崖から川に飛び込ませること、である。
手順としてはまず、村民がバチネに向かい、流したい災厄について叫びながら井戸水を浴びせる。その後、バチネの身体を荒縄でしっかりと縛ると、ソルバノ山に登り、村へと流れ出る川ではない方向の川に向けて、バチネの家族が崖から付き落とすのだ。
青年はその瞬間の、自分を突き落とした父親の顔を思い出し、頭を掻いた。
(……嫌なもの思い出しちまったな)
本来であれば流しの儀を背負うのはバチネの役だが、今回はバチネの息子である彼がそれの対象となった。
村では死亡者が続出しており、その処理をする役としては経験の長い青年の父親や長男の方が適役だったからである。そのため村の話し合いの結果、三人いるバチネの息子のうち、一番経験の浅い三男が流しの儀を請け負うことと決められた。
ごめんな、ごめんな、と繰り返し謝る兄達を責めることなど出来なかった。村での取り決めに、バチネの家系は逆らうことは出来ないのだ。
ふぅ、と一息をついて、青年は川土手に腰を下ろした。
流しの儀を背負ったのが自分で良かったのだ。青年はそう自分に言い聞かす。
決められた手順のことを考えると、崖から飛び込んだ者はまず死ぬことが前提とされているのだろう。だが、幸か不幸か、自分は再び目を覚ますことが出来た。
流したはずの災厄が村に戻った時にどういった対応を取られるかは、想像に難くない。青年は『しきたりの中には儀を背負った者が生き残った時のことが定められていない、だから』という言い訳を自分自身に向かって言い聞かせ、村に戻ることなく、むしろ逃げるようにして旅をしているのだった。
痛んだ身体でありつつも野生生活で半年間も食いつないでこられたのは、まったく運が良かったのと、自分のこの丈夫な身体のおかげだろう。
(これが
音も無く流れていく水面を見つめたまま、青年はぼうっと考えていた。
――声をかけられたのは、その時だ。
「まぁ……もしかして、バチネ様のご子息ではないですか?」
「は」
短い音を発してしまった後、まずい、と青年は焦った。
自分がバチネの息子だということを知っている人に、自分が生きていることを知られてしまった。そのことを村にまで知られてしまったら――
瞬間的に、その相手をどうにか始末することさえ浮かんだ。半年の旅の中で、素手やその場で作った武器で野生動物を仕留めたこともある。
(無くしかけて、それでもどうにかひっかかった命だ、捨てたくない)
短い時間でそこまで考えた青年は振り返り、
「――良かった。貴方だけでもご無事で、本当に良かった」
ふわりと藤の香りに包まれた。
「…………
自分を抱きしめる、男女兼用の着物を着たその人物のことを、青年は知っていた。
*
――全滅。
その単語が青年の頭に入って来るまでに、たっぷり数秒を要した。その対面で、痛ましげな顔をした幽ノ藤宮はただ黙っている。
二人はまず落ち着いて話をしようと、近くの樹の下に座り込んでいた。高そうな着物が汚れるのも構わずその場に膝をついた幽ノ藤宮に、青年は確かにこの人だ、と思った。
しかし幽ノ藤宮の方へ考えを向けられていたのはほんの始めだけ。会話が始まってすぐに告げられた言葉に、今、青年の頭は真っ白になっていたのだ。
「全滅って、え? い、いつ……」
「初めの発症者が出てから三月ほど経った頃にはもう全員、でした」
「そんな」
じゃあ俺はどうして――
その続きに出てしまいそうな言葉に、思わずぱしりと手で口を押さえた。
代わりに、ちなみにですけど、と幽ノ藤宮に尋ねる。もしかしたら家族も自分と同じように運よく村から逃れ、生きてはいないだろうかと思った。
「流しの儀の話、覚えてますか?」
「えぇ、村の災厄を背負って川に身を投げるという――あぁ、貴方はもしかしてそれで運良く助かって?」
察しが良い幽ノ藤宮は、それですべてを理解したようだった。
こくりと頷き、青年は、今それを知ったなら、と考えた。
(俺が流しにあったってことを今知ったところなら、それでも病が治まらなかったからって更なる流しの儀が行われたかどうかは、知らないよな)
青年はそう判断し、続けて訊こうと思っていたことを取り下げた。
だが、次に幽ノ藤宮が言い切ったことに、
「でしたら、貴方が村の唯一の生き残りということですね」
青年はぽかんと口を開けてしまった。
「……なんでそう言い切れるんですか?」
「わたくしが、村に居た最後の一人を看取ったからです」
は、と、また短い音が出た。
「その方からお話を聞いたのです。流しの儀を行った――請け負ったのが貴方であったとは聞いていませんでしたが――それなのに、災厄は止まらなかった。だから今度は病が流行ったのは汚れで淀んでいるせいだとして、死亡者処理のためバチネ一人を残し、彼の一家は殺した、と。それでも次々村人は病に伏せっていき、自分が最後の一人だと」
淡々と、あえてそう語っているのだろう幽ノ藤宮を凝視したまま、青年はこくりと息を呑んだ。そして、訊ねた。
「最後の一人は……誰でしたか……」
その方は腕に赤い布を巻いてらっしゃいました、とだけ、幽ノ藤宮は答えた。
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