第3話
一番近くの町の宿屋は、ツインルームしか空いていなかった。
「俺はいいですけど」
――というより、宿泊代を負担してもらうのに文句など言えないけれど。
「わたくしも構いませんよ」
「あの……、今更ですけど、幽ノ藤宮さんの性別や年齢って」
――自分よりも年上なのだけはなんとなく分かるけれど。
ふふふと柔らかく微笑むと、
「この風体だとよく尋ねられるのですが」
薄い肢体のその人は、さっさとチェックインの手続きを進めた。
「その度に、秘密です、と答えております」
*****
青年が幽ノ藤宮と知り合ったのは、一年半ほど前だった。
「明日、水祭りが行われると聞いたのですが」
バチネの家の扉を叩き、ソルバノ村への道を尋ねてきたのが幽ノ藤宮だった。
バチネの家は村から離れているとはいえ一キロメートルだ。庭からは石壁だって見えている。それでも道を尋ねてきた理由は何かと青年の父――バチネが訊ねると、何故ここに一軒だけ家があるのか不思議に思いまして、と、幽ノ藤宮は正直に答えた。
バチネはそれに対し、バチネの役割のこと、ここに寄った事は絶対に村の者には話さない方が良いことを説明した。
小脇に抱えるほどしか荷物を持っていない幽ノ藤宮は、そうですか、と頷いた後、
「申し訳ないのですが、一夜宿をお借りできませんか?」
と、素っ頓狂な申し出をした。
「『バチネ』とは不思議な役柄もあるものですね。少し、興味を持ってしまいまして」
そもそもがほとんど何処にも知られていないソルバノ村の水祭りを体験しに行こうとするような物好きであるとはいえ、そのお願いにバチネ一家は驚いたどころではなかった。
……だが、嬉しくもあったのだ。
その日、幽ノ藤宮はバチネ一家と寝食を共にした。
そして両親と旅人は、夜遅くまでいろいろなことを話し込んでいた。その会話に青年は途中までしか参加してはいないが、客である幽ノ藤宮の方からもいくつか質問をし、その答えに熱心に耳を傾けているようだった。
例えば、バチネだけが腕に巻いている赤い布の模様の意味だとか。
「――――ッ!」
飛び起きた勢いで目眩がした。動悸も激しく苦しい。
周りを見回してここが宿の一室であったことを思い出して、
「どうかされましたか?」
窓際の椅子に腰かけていた幽ノ藤宮と目が合った。どうやら、窓からの明かりだけで何かを手元のノートに書きつけていたらしい。
「あ、……いや、その……」
「何か悪い夢でも」
「……そういうようなところです」
「『悪夢は五臓の煩い』とも言います。お疲れなのですね」
ごぞうのわずらい、と、上手く回らない口で青年は繰り返す。その様子を椅子から眺めながら、それに、と、幽ノ藤宮は続けた。
「わたくしの話した内容で、貴方に要らぬ哀しみを運んでしまったということもあるでしょう」
申し訳ありません、と幽ノ藤宮が頭を下げ、ゆるりとその前髪が落ちる。
「それは違います!」
思わず、青年は叫んで自分の布団をはぐった。慌てて窓際のテーブルセットに歩み寄ると、幽ノ藤宮の対面に座る。この誤解だけは解いておきたかった。
「俺は、ソルバノが嫌いだった」
開口一番、青年はテーブルに手をついてそう言った。
「古臭いしきたりをただただ守り続けているに村人も、それに諾々と従っている自分の家系も嫌いだった。あの病で村が全滅したって聞いた今だってまったく悲しんでなんかいない、自分は生き残って良かったとしか思っていないんです」
それは強がりではなかった。心からの本音だった。
あの村では、何を言っても駄目だったのだ。
あの家では、何を言っても無駄だったのだ。
皆、昔からそう決まっているのだからと口をそろえて一辺倒にそう答えて。
バチネの役を一番嫌っていたのは青年の父親だった。
汚れ仕事はすべて自分たちの役目、それを理解しつつ、納得しつつ、それでも誇りなど持てず。呼び出しがかかればいつでも嫌そうな顔をして、自分の腕に赤い布が巻いてあるかを確認し、村に向かっていた。
忘れたことはない。
流しの儀、自分を突き落とす父親の顔には、息子を失う悲しみや役目を押し付ける申し訳ない気持ち、そんなものではなく、
(――自分でなくて良かった)
という、心からの安堵が浮かんでいた。
「親父が最後の一人だったって? それじゃあ、あれだけ嫌っていた役目を、いつもの通り文句ひとつ言うことも無く続けていた訳ですね。必要な汚れ以外を一掃するために家族を殺せと村に言われても、反論することなく従っていた訳だ」
流しの儀の話を持ってこられた時、今のままバチネの息子として生きていくだけなら早々と死んでしまってもいいかと受け入れた自分。そんな自分が、結局助かり村から逃れ続けていたうちの始めの三か月間、ずっとずっとずっと。
「村の最後が三か月前だって知ってたら村に戻ってた。もうあんな大嫌いな村は無いって知ってたら」
昼間は抑えた言葉が、思わず口から零れ落ちる。
「俺は、何のためにその後も逃げ続けなくちゃならなかったんだ……」
とん、ともう一度テーブルに手をついた青年に、
「貴方がそれを知らなかったのは、運のよいことでした」
と、ひどく冷静な声で幽ノ藤宮が返した。
「貴方はずっとソルバノから離れる方向に向かっていたため、これも知らなくても無理はありません」
「これも? って……なんのことですか」
「病は、まだ終わっていないのです」
強い意志を持った双眸に、青年はびくりと肩を揺らした。
「貴方の村から発生した奇病は、その近隣の地域、セルラシャやサルバサエク、ソルバノ山を越えた和系人の集合地域である
そして、と、眉を寄せ、口惜しそうな顔をしながら続ける。
「今、あの奇病の感染者への差別が始まっているところです」
「差別……?」
「えぇ。治療法は分からない、だけど感染することだけは分かっている。ならばその感染源を消すべきだという声が大きくなってきているのです」
このままでいくとやがては、と、そこで言葉は区切られた。
「そんなことが、まさか」
「起こるのですよ」
ひたりと、幽ノ藤宮は青年を見据える。
「――ソルバノの風習は確かに独特でした。しかし、あれは『役割分担』として村中に理解も納得もされてのことでした。そうでなければ、村からバチネの家へ嫁入りすることが祝福されることなど無かったでしょう」
幽ノ藤宮が泊まった時、食事のあとで古い写真を見せてもらっていたのを青年も覚えている。その中には、村中を挙げての結婚式の写真も確かにあったのだ。
「貴方には耐えられなかった決まり事ですが、それは、村にとって必要だからあったのです。昔の人が考えたことをそのままずるずると続けてきただけでなく、今の村にとってもあった方が良いと、必要だと、貴方以外の全員が考えていたから、続いていたのです」
「俺だけが、間違っていたのか……?」
それには答えず、差別による感染者殺害も同じです、と、幽ノ藤宮は続ける。
「それは『必要だから』。少なくともまだ感染していない人にとっては、必要だと思っているからこそ、起こりそうになっている……いいえ、間違いなく起こるでしょう。どうしようも出来ないのならば仕方のないこととして、自分たちを守るために」
感染者を殺すでしょう、と、幽ノ藤宮は言い切った。
「貴方だって今日、わたくしが声をかけた時に考えたのではありませんか? 自分を知っている人に自分の姿を見られた、と焦り、どうにかしなければならないと考えたその中に、『殺してしまおうか』というものはありませんでしたか? 本当は、それだけ簡単に考えられてしまえることなのですよ」
外の音は何も聞こえない。それ故、目の前の人の言葉が刺さった。
ややあって、青年は口を開く。
「確かに……今日、幽ノ藤宮さんと出会った時のことは、何にも言えません」
若造の考えだ。また反論をくらうかもしれない。それでも言わずにはいられない。
「それでも俺は、故郷について自分が考えていたことを間違っているとは思わない。いや、間違っていたとしても、自分はこうしたいという考えを声に出し続けていたことを悪いことだとは思えません」
「…………」
「差別についてはもっとそうだ。必要だなんてもっともらしい言葉で、一方的に人を殺すなんてことが正しいはずがないと、俺はそう思います。だから、『俺は』、そう思うから、絶対に許すことは出来ない!」
二十三歳の青年の喚きに、幽ノ藤宮は、何も言わなかった。
何も言わずに――テーブルに置かれたままの青年の手を取った。
「なんですか、……聞き分けの悪い野郎への説得ですか」
冷たい手だ。そう思いながら青年がそう言うと、
「そう言える貴方がご無事で本当に良かった」
と、幽ノ藤宮は目を伏せて息を吐いた。
何が何だか分からないままの青年に、目を上げた幽ノ藤宮はきっぱりと言う。
「貴方はもう村には帰れません」
「……それは、さっきの話で分かりましたけど……」
「そもそも、もう貴方の嫌いなソルバノという村はありません」
「そう、ですね」
「だからバチネという役もなく、バチネの息子も居ないのです。貴方には何もない。何者でもない。貴方は言い換えると『空白』です」
すぱすぱと告げられ、青年は思わず言葉を詰まらせる。
そう、自分はもう何者でもない。
村から逃げるという行動の意味さえ無くなってしまった。今までは故郷のことを考えながら旅をしてきたが、今後は何を考えてどう生きていこうか。村から逃げることも村に戻ることも出来ない。さぁ、何を考えて、どう、生きていける――?
そう思った瞬間、足元が揺れるような感覚がした。
しかし、それは幽ノ藤宮の一言で引き戻された。
「けれど更に言い換えるなら、『自由』です」
「……自由……」
「えぇ。そして、それを告げた上で頼み込みます。何者でもない貴方を、わたくしに預けてくださいませんか?」
「は」
三度目の音が出た。
突拍子もないうえに、意味がよく分からない。それをそのまま表情で表していると、幽ノ藤宮はしごく真面目な顔で宣言をした。
「わたくしは、この奇病を止めてみせます」
「奇病を止めるって、そんな、幽ノ藤宮さんには知識も技術も……」
「おや。貴方の前ではお話しておりませんでしたか。わたくしは、一応、栽培の方面でも医療の方面でもいくらか知識を持ち合わせているのですよ」
全然知らなかった。それまで青年は幽ノ藤宮のことを――宿をとってくれた恩人に対し酷い言い草なのは十分に承知の上で――金に任せて気ままに各地を回っている
「そして貴方には、その弟子としてついてもらいたいのです」
話を引き戻された青年はハッと我に返り、その内容をかみ砕いた。
「……弟子? だって俺には、それこそ知識も何もないのに」
そこはこれからの努力の話じゃないですか、と幽ノ藤宮はゆるりと笑った。しかしすぐに真面目な顔に戻ると、わたくしが欲しかったのは本質です、と続けた。
「貴方はあの村でただ一人、変化を恐れず抗おうとしていましたね。そして先ほどのわたくしの誘導を交えた話に対しても、差別を許そうとしなかった。わたくしは、そういった方に、わたくしの知識や技術を継いでいただきたいのです」
「さっきの話はそのための……」
「えぇ。事実を説明したに過ぎないことに変わりはありませんが、それでも貴方を試すようなことをしたのは謝ります。申し訳ありません」
――冷たいな、と再び思った。
幽ノ藤宮の性格がではない。手だ。未だ自分の手を取っているこの人の手は、先ほどまで水仕事でもしていたかのように冷たいままだった。
口調は静かで、物腰も柔らか。どこか気品を感じさせる。
幽ノ藤宮は、出会ったときからそんな人物だった。
(でもこの人の中には、こんなに強い気持ちがある)
だから。
「何もない俺は、引っ張られるだけですよ」
そう言いながら、言葉とは反対に、青年は手に力を込めた。
「俺はバチネの息子でした。だからいくつか汚れ仕事もこなしています。そんな俺でも弟子にして貰えるのであれば」
「一年前からそれを知っていてこちらから頼んでおりますのに、今になって改めて聞いたからとお断りするはずがございませんよ」
生まれてから二十三年。彼には名前が無かった。
彼のすべてを受け入れ、その人は、
「貴方の名前は今日から『
藤色と若竹色の目で見据え、彼のことをそう呼んだ。
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