土曜日の朝

清水優輝

第1話 

 昨晩の記憶がない。2個下の後輩が失恋したというので、みんなで慰めようと赤提灯が垂れ下がる居酒屋でモツ鍋を突いてああだこうだと騒ぎながら私はいつものように梅酒を注文し、次に梅酒を頼み、そして梅酒を頼み……。梅酒ばかり飲む女だと馬鹿にしてきたのは高校のときのバイト先の店長だった、あの人は年始に私が地元に帰ったときもまだあの店で店長をしていた。あのときの店長と同じ年齢になった私には、街を歩く高校生が子供にしか見えず、入ってくるバイトの女の子を次々に手をつけたあの人、例に漏れず私も抱かれてしまった、が、いかに弱い人であったのか今更ながらひしひしと感じる。そんなことより、昨晩は2軒目に行ったはずだ。なんせ今日は土曜日で、会社はないし、誰かと遊ぶ約束もないし、夜遅くまで私が外で飲んでいようが怒ってくれるかっこいい彼氏もいない。時計の針が12時に近付くたびに人が減っていき、週明けまた仕事をがんばりましょうと言って手を振って帰ったミカちゃん、妻から電話がかかってきたと遁走するように店を出ていった山内さん、息子がそろそろ塾から帰ってくるからと言う須藤さん、この会を開いたチームリーダーの溝口さんまで帰ってしまい、なぜか残ったのは私と後輩と私と同期の荒井くんで、この後どうしましょうか、お開きにしますか?と荒井くんが提案したのを後輩が寂しいから今夜は一緒に飲んでいてほしいと懇願した。荒井くんはいつもちょっと損してしまう。だって何度も時計を見て何度も席を立とうとする様子を私は見たけれど、結局店から出ることができないそれは荒井くんの他人の評価を気にし過ぎる会社での態度と全く一緒でプライベートでもこんなんじゃいつまでも良い成績は出せないだろう、今期もワースト1位だった、悪い人ではないのだけれどこの業界には向いていない。後輩は荒井くんとは正反対だ。どこまでも自分勝手で周りのことなど気にしない、だから図々しく自分の失恋を肴に上司と酒が飲めるのだ。私だったら絶対無理、特にミカちゃんなんかに私の話は聞かせられない、どこに流れていくのか分からない。そう、だから3人で次の店をどうするか悩んだところまでは覚えている。そこからの足取りがさっぱり思い出せない。目が覚めたらいつものようにベッドの上で寝ていた、しかも一丁前にシャワーを浴びて寝巻に着替えていたのだった。記憶がないわりにうまいことやるなあ、私。

 無造作に枕の裏を手でまさぐってスマートフォンを発掘、時刻は11時を過ぎたところで通知欄に荒井くんの名前が出ていた。開くと「無事に家に着きましたか?(汗)だいぶ酔ってたので心配です。あの後、後輩は俺の家に泊めました。おやすみなさい」と書かれていた。私は無難なクマのスタンプをぺたりと送信して上半身を起こし部屋を見渡す。ライトグリーンのカーテン。書類が山のように積まれた本棚。テーブルの上には空いた梅酒の缶と、マクドナルドの袋が2つ、ポーチにしまってあるはずの化粧品が並べられている。足元を見れば脱いだストッキング、スカート、ジャケット、シャツ、インナーが順番に置いてあり、まるで猿から人間の進化過程を描いた図のようで、ダーウィンも酔っ払って帰った次の日の脱ぎ散らかした洋服を見て進化論を思いついたに違いないと思う、そんなわけないか。それよりもマックに立ち寄った記憶がまるでない、知り合いの男が酔っ払う度にマックでポテトを買ってしまい、翌朝後悔すると話していたがまさか私の身にも起きるとは、これは感染型の病気なのかもしれない治療のためにはまた飲みに行き、他人にこの話をする必要があるのかな、そんなわけないか。部屋に充満する嫌な油の匂い。紙袋にまで染み出て茶色を濃くしてしまい、汚らしいと感じる。換気をして勿体ないけどポテトは捨ててしまおう。よく見れば、梅酒だけでなくビールやハイボールの缶も置いてある。まだ口をつけていないらしいそれらは、梅酒の横でウェイ系サークルに間違えて足を踏み入れて居場所がないオタクたちのように小さくなってどこにも視線を合わせない。そうか、私はきっとここで3次会をやりたかったのか。後輩と荒井くんを家に呼んで飲み会の続きがしたかったのに、荒井くんに帰されたのだろう。駅までの間のコンビニで酒を買い、家までの間でポテトを買い、ベッドまでの間に進化論に気づいてしまった、というのが記憶をなくした昨晩の真相だ。

 ああ、もし後輩と荒井くんが家に来たならどんなに良かっただろうか。後輩はおそらく家についてすぐに寝落ちしてしまう、あいつはいつもそうだ、この間の全体ミーティング中もぐっすり寝ていて何も覚えていなかった。そもそも話を聞いていたら、別れたきっかけがセックス中に寝ることが3回に2回あったからだとかで、彼女の自尊心は酷く削られてしまったんだと思う。文句を言う前に睡眠障害を疑って病院を進めたらいいのに、だってほら今も呼吸止まっているよね睡眠の質が悪いんだよ、そんな話を後輩が寝た後でするのだろう、私と荒井くんで。私が後輩の文句を言うと荒井くんはそんなこと言っちゃだめだよと優しくたしなめて、後輩の良いところを言い始める、けれど私は荒井くんが本当は影で自分も悪口を言われることを恐れていると知っているから、荒井くんに構わず後輩の文句を言い続ける、荒井くんもややムキになって私の言葉を制する。荒井くんは弱い。負けを認めるとすぐに黙り込んでちょっと不機嫌な表情で自分の親指のささくれを剥き始める。見ていて痛々しいからやめなと何度注意してもその荒井くんの癖は直らない。引き取り先の会社でも、先方と「話し合い」の中で早々に負けを判断してささくれを剥き始めるんだと先輩が言っていた、私は3年前の研修のときにそれを初めて発見した。他の同期に比べて見るからに気が弱そうだった彼が人事部の社員に呼び出されて強く叱責を受けた、その内容は今の今まで聞いたことがない、そのときにささくれを剥いていた、指がどんどん赤くなっていく、時間が過ぎて一人になった荒井くんは親指をぺろりと舐めた。

 私は頭を枕にあずけて、指を下腹部へ滑らせていく。そう、後輩が私の家で寝てしまって、それで荒井くんが不機嫌になって、そのあと私はそのささくれを舐めてしまう。きっと。梅酒に交じった彼の血が美味しいなんて、そんなはずないありえない悲しい妄想が体を支配していく。後輩がぐーがーぐーがー寝ている横で、彼の指を舐めた後は彼の頬に手を当てて唇を押し当てる。無理やりこじ開けて舌を入れてやる。荒井くんが交際する予定のない女と寝るわけがなくて、告白をしてから3ヵ月は手も握れないピュアボーイであることは知っていて、その上で私は荒井くんの体を求めるだろう、どんなに駄目だと言われたところで男の人はすぐに反応するし、荒井くんは結局嫌われるのが怖い人だ、私が適当なことを言えば簡単にズボンのチャックは下ろされる。その自信があった。再びスマートフォンを手に取ってアダルトサイトを漁る。知り合いが寝てる横でセックスをするシチュエーションの動画を探して再生した。指先に潤っているのを感じる。いつ起きるか分からない隣にいる人を意識しながら、快楽を貪る男女の動画の女の表情に手足が熱くなってきて、荒井くんのまだ見ぬ裸体を想像してしまう、2人目の彼女と結婚したかったのに彼女は長い間浮気をしていてそれから女がこわいと言っていた、それからずっと彼女がいない荒井くんの体にもし、もし風俗嬢が触れていたなら嫉妬で気が狂ってしまうだろう、私の「荒井くん」はそんな人ではないから、綺麗な、汚い大人を見てこなかった、幸せな、身体を。

 窓の外からけたたましいサイレンが鳴った。近所で倒れた人がいたのだろうか、救急車の音がどんどん部屋へ近付いてきた。私は飽きて、スマートフォンを投げ出した。ティッシュで拭いて、ゴミを投げ捨てる。ゴミ箱は部屋の床。さて、あのテーブルの上の飲食物をどうするべきか。梅酒以外の酒なんて飲まないし、水道に流して捨てるしかないか、こうやって何匹か私のせいで魚が死ぬのか。終った案件の書類はもうゴミ切れでいい?そう言えば、お弁当も洗わないといけないのに。冷蔵庫の中に腐りかけの野菜が怒りだしてしまう。雨が続いて洗濯ものも溜まっているし、脱ぎ捨てた洋服をハンガーにかけないことには何も始まらない。現実の荒井くんはちゃんと私を家に帰したし、後輩に寂しい思いをさせなかった。

 私は「あー」と低い声で鳴いて、ベッドからゆっくりと這い出た。朝は過ぎていた。

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土曜日の朝 清水優輝 @shimizu_yuuki7

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