第10話 戻りかけた日常
日曜の夜、響は部屋でノートを写していた。化学は写し終え、古文の方に手を付けている。姫佳の丁寧なノートはやはりわかりやすい。睡魔との闘いの記録が残っていた貴志とは大違いだ。
「よし終わった。……ん?」
古文も最後まで写し終えたのだが、ページの最後に下を向いた矢印が不自然に記されているのを見つけた。そのページには上段の半分程度しか記入されていないし、区切りもいいので授業の内容がここまでだというのもわかる。下段の空白を通り越してなぜ矢印が書かれているのだろう。不思議に思った響は試しにページをめくってみた。
すると、次のページには一文が書かれていた。しかし、それは古文の内容ではなかった。
“庇ってくれてありがとう”
こう記されていた。途端、体が熱くなるのを感じた響はノートを閉じた。
今の文字は姫佳が書いたものだろうか。…彼女のノートだからそうだろう。まったく、らしくないことをするもんだと、響はハァーとため息をついた。
月曜、響にとっては久しぶりの登校となった。まず、最初の難関はクラスメイト達への応対だ。もう予想はついている。ドジな奴だと笑われるのも覚悟できている。
だが、これも日常を素早く取り戻すためには仕方がない。
昇降口に行き、上履きに履き替える。
「猪苗代」
不意に横から声をかけられ、響は少し驚きながら顔を向けた。そこには姫佳が立っていた。
「あぁ…おはよう」
「元気そうで何より」
姫佳はそう言って微笑みを向ける。響は視線を下に逸らし、バッグのファスナーを開けて中から2冊のノートを取り出した。
「ノートありがとな。助かった」
礼を言って姫佳にノートを返す。姫佳はそれを受け取って自分のバッグにしまった。
響は無言で突っ立ったまま、姫佳が上履きに履き替えるのを待つ。そして、チラッと彼女に目を向けた。
「倉十は…本当に能力者になったのか?」
途端、姫佳は動作を止めて響に顔を向けてきた。彼女の真っ直ぐな視線が響の瞳に届く。
姫佳は何も言わないが、言わずとも彼女の回答はわかっている。別にだからって距離を置こうだなんて思っていない。ただ、こんなにも間近に非日常が生まれてしまったことに戸惑っているのだ。
すると、姫佳が睨むような表情になった。
「学校ではそのことに関して一切喋っちゃだめだから」
彼女のそれは間違いなく忠告だ。もしも破ったらどうなるのだろうか。
「もし間違って喋っちゃったら?」
ミスが無いとも限らないので、破る気は無いものの一応聞いてみる。
「焼く」
瞬間、響は完全に怖気づいてしまった。彼女の表情がそうなった時は容赦しないというのを暗に示していたからだ。
姫佳の方は一転して怖気づく響の様子を見て、フッといじわるそうににやけた。
「うーそ。でもほんとに喋っちゃだめだから」
捨て台詞のように告げて姫佳は先に昇降口を後にした。響はそんな彼女の後ろ姿を眺めながら冷や汗を垂らした。
その後は、案の定クラスメイトからいじられる展開が訪れたが、日常のための犠牲だと思えばなんてことない。
これでようやく日常に戻ることができた。いつものように授業を受け、いつものように貴志と下らない話をして、いつものように放課後のバイトへ向かう。
やはり日常は良いものだ。この刺激の無い生活こそが自分に合っていると再認識する。姫佳だって能力を発動しなければただの普通の女子だ。自分の周りに非日常はない…と、響は思い込む。
すると、前方に姫佳の姿が見えた。彼女はじっと立ち止まっている。一体何をしているのだろうか。不思議に思った響は彼女のところへ近づいていった。
近くまで来ると、姫佳が下を向いているのがわかった。地面に何かあるのだろうか…と響は思って彼女に声を掛けようとした――その時、姫佳が下に向けて掌をかざした。掌は橙色に輝きだす。何か見たことのある光景だ…。
ボゥ…!
途端、姫佳の足元から炎が上がった。
「おわっ!」
当然響はびっくりしてのけ反ってしまった。声に反応した姫佳が振り向いて響に目を向ける。
「びっくりしすぎ」
「そりゃびっくりするわ!ってか、なんでいきなり能力使ったんだよ!?」
響が冷静な姫佳にツッコミを入れると、彼女は足元を指差した。燃えていた炎がフッと消えて、黒焦げた小さな灰が地面に残っていた。
「タバコの吸い殻が地面に落ちてたから」
「あぁそうかそうか……って、そんなことで能力使うなよ危なっかしい!」
響は唾を飛ばす勢いで姫佳に文句を言う。吸い殻が落ちてたから炎を発現させましたって回答はあまりにも強引だ。だが、彼女は響の文句に対して表情をムッとさせた。
「そんなことじゃない。街を平然と汚せる奴がいる……私は見過ごすことができない」
「でも、タバコの吸い殻捨てるやつなんて……」
「いっぱいいるんだからよぉ~~!大目に見ねぇとな~~」
響の言葉に被せるように突然聞こえたその声に2人はハッとして振り向いた。途端、姫佳は驚きの表情を見せる。そこには、姫佳が先日追い払った金髪の男が立っていた。
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