第二章

第二章

十時が近づいてきた。蘭は、仕事場のテーブルを軽く拭いて、新しい客の来るのを待った。アリスは、担当の妊婦さんと打ち合わせがあるからと言って、でかけてしまったので、家には、蘭一人であった。

居間に設置されていた、メロディークロックが、十時を告げるメロディーを鳴らすと、玄関のインターフォンが鳴った。

「はいどうぞ。お待ちしていましたよ。」

「諸星正美です。よろしくお願いします。」

「どうぞ、上がってきていただいて結構ですよ。」

とりあえず、そう言うと、彼女はお邪魔いたします、と丁寧にあいさつして、靴を脱ぎ、部屋に入ってきた。がちゃんと仕事場の戸が開いて、諸星正美さんという女性と、蘭は初めて顔を合わせた。

確かに、蘭が電話をしたときに聞いた「楽器のような美声」から予測したように、かなりの美女ということができた。いわゆる西洋的な美女とはまた少し違う、丸顔で日本的な雰囲気を持つ美女だ。今の日本人ではあまり興味を示す人は少ないかもしれないが、外国人で日本の文化に詳しい人であれば、間違いなく絶賛するだろうな、と思われる。具体的に言えば、紫式部の肖像画を連想するとわかりやすいかも。

同時に、こんな美女がどうして、刺青をお願いにやってきたのか、蘭はそこがどうしても不思議だった。

「まあとりあえず、こちらへどうぞ。お茶かなんか持ってきましょうか。」

とりあえず蘭は、そういって、彼女をテーブルに座らせた。

「はい。」

はにかみながら、彼女はそこに座った。蘭はちょっとお待ちくださいね、と言って、いったん台所に行って、急いで紅茶を入れた。さすがに、杉ちゃんのような、日本茶を提供する気にはなれなかった。

「どうぞ。まあたいしたお茶ではありませんけど。」

と言って、お茶をテーブルの上に置く。

「ありがとうございます。先生は、ほんと変わってるんですね。伝統的なものをやっている刺青師さんって、もっと職人気質の気難しい感じの人かなって連想してましたから、びっくりしました。インターネットで、いろんな先生のサイトとか見たんですけど、大体伝統的なものをやっている人って、みんな年を取ってて、初めて入れる人には近寄りがたいなって思ったから。」

「あ、まあそうですねえ。確かに和彫りをやる人自体少なくなりましたからね。どうしても年寄りばっかりになっちゃいますよね。どうも若い刺青師さんと言いますと、洋彫りというのかなあ、アメリカンタトゥーというのかな、そっちばかりに行ってしまう人が多くて。このくらいの年ですと、伝統の世界ではまだまだ若造です。なかなか発言力も持てないせいか、若い人は、伝統の世界から離れて行ってしまう。」

変わっている、の発言に蘭はそう返答した。これだけは、蘭も困っていることである。

「そうでしょうね。私は、そういう伝統を大切にしている方って、かっこいいと思うけど。特にお若い方は。だけど、なんだか若い人はやってはいけないという雰囲気、まだありますよね。」

正美は、そういう蘭の話を喜んで受け入れてくれた。

「じゃあ、前置きはここまでにして、刺青の話にしましょうか。彫りたいところはどこですか?基本的にどこでも彫ることは可能ですが、顔はまず彫れませんし、女性の胸など弱いところもだめですからね。あとは、昔遊女がよくやっていた隠し彫りというのもお断りしてます。」

「ああ、それはよく存じています。あたしは、そういう淫靡な職業についている女性では在りませんから、そんなことは望みません。それよりも、この左腕に沢山ついてしまった、リストカットの跡を目立たなくしてしまいたいの。中学から高校まで、リストカットにはまりすぎてしまって、薄い服では透けてみえるようになってしまったので、、、。」

そういって彼女は左腕をテーブルに乗せて、袖をぺらんとめくった。よくある依頼内容だなと思ったが、左腕の肘から下を見て唖然とする。ここまでひどい例は蘭も初めてだ。もはや正常な皮膚がほとんどわからなくなってしまうほど傷跡がたくさんついている。その美しい顔の裏には、壮絶な過去があったことをはっきり示していた。これでは確かに見るだけでもつらい。たぶん、美容整形などでもこれでは間に合わず、方法としては、皮膚移植しかないだろう。それでは大掛かりすぎる。

「あ、はい。わかりました。じゃあどうしたらいいですかね。どんな図柄というか、模様を入れたらいいのかな。やっぱり女性ですから、縁起の悪い柄はやめた方がいいでしょう。龍とか、虎のようなそういう威嚇をするような動物も避けた方がいいですよ。そういうものじゃなくて、えーと、」

「もう、先生。縁起が悪いとか、怖いとか言われる動物でも、実際は、すごく重宝される柄でもあるんでしょう?」

うーん、確かにそうなんだけど、彼女の容姿の美しさから、そういうものは彫る気にはなれなかった。

そうじゃなくて、もっと彼女をさりげなく応援してやれるような、そういう柄を彫りたいと思った。

「登り鯉とかはどうなんですか?」

まあ、鯉であれば、比較的恐怖心をあおることは少ないが、それでも彼女には避けたいなあと思ってしまう蘭である。

「先生、おかしな人ですね。伝統がどうのと言っておきながら、そんな風に躊躇するなんて。」

あーあ、お客さんに笑われるなんて、もしこの現場をマークさんや、彫菊師匠が見ていたら、大笑いされるか、こっぴどく叱られるかのいずれかだろう。ヨーロッパでは高く評価されていて、芸能人とか、サッカー選手には、全身刺青だらけの選手も結構いるのだが、日本ではどうしても、浅草高橋組とか、住吉会を連想してしまうことが多くて、そこを避けることをしなければならないという問題がある。

だからこの人には、そういう目で見られてほしくないと思うのだが、それは無理なのだろうか。

「一体どうしたんです?あたしもう、こうするしか方法はないと思っているし、今は、さほど偏見があるわけでもないですから、お願いできませんか?」

そういうわけじゃないんです、と、言いたくても言えないのが、蘭であった。

「一体どうしてここへお願いに来たんですか。絶対何か重大なわけがあるでしょう。ただ、興味本位というわけでもないですよね。もしよかったら、わけを教えていただけないでしょうか?」

「まあ、変な人。刺青の先生がわけを話してとお願いするなんて。なんでしょう、堅気さんには、やる気は出ないということかしら?」

「そういうことじゃないです。だって、刺青と言えばいわゆるアウトローの世界だし、そんな世界に入る理由なんてなさそうだなと、思ってしまったものですから。」

再度変な人、という顔で蘭を見る彼女。そういう顔を見てもこの女性は美女だ。日本の美意識が集結されたような気がする。

「あんまり、口に出して言いたくはないんですけど、」

と、彼女は話し始めた。蘭は、注意深く彼女の話を聞く。

「あたし、中学生になるまでは、周りから見れば普通の女の子でした。極端に成績は悪かったのですが、何とか学校には通えてましたし。でも、中学校に入って、何でも試験の成績でしか見てもらえなくなると、世の中は一気に地獄になりました。三年の初めの時に、親に勉強ができないことで叱られて、首つり自殺を図ったことが転機です。その時は助かりましたけど、今思えばその時完遂していたほうがよかった。高校も劣悪なところしかいけませんでしたし、大学も入れなくて、結局この年になるまで、就職したことは一度もありません。それがさらに、家族関係も悪化させてしまって、あたしはいつでも死ねたらいいと思っているんですよ。だからこの時点ですでにあたしは、アウトローなんです。誰にも必要となんかされてません。ほら、働かざる者食うべからずという言葉があるじゃないですか。そういう言葉もあるんですから、親が死んだらさっさとリタイアすべきだと思うの。」

これを聞いて蘭は、あまりにも彼女がかわいそうになった。これでは、本当に社会からはじき出された存在というべきだろう。そういう人間が、存在意義を求めて刺青を求めてきた例はこれまでも多くあったが、この容姿の美しさが重なって、彼女はさらにかわいそうだと思った。

「結局のところ、将来は生活保護で暮らしていくしか方法はありません。日本では、そうなる事だって、アウトローの一つでしょ。ですから、もうそういうことになる前に、あらかじめアウトローの印を身に着けてもおかしくないでしょう?」

蘭は彼女の話を聞いているうちに、あることを思いついた。フェイスブックでは、該当する女性を見つけることはできなかったが、こうやって、早くから社会から排除された経験がある美女を一人見つけることができた。それなら、もしかしたら、生まれながらに社会から取り消されることを強いられている水穂を、救ってくれることもできるかもしれないぞ!

「わかりました。登り鯉には、本来平凡な鯉が、努力して瀧をのぼり、ついには龍になる、つまりですね、大器晩成を願うという吉祥文様です。決して威嚇とか、そういう柄ではありません。ただですが、これは本当に、難しいお願いではあるのですけれども、僕のお願いを聞いていただけないでしょうか。」

蘭は、思い切ってそう語りだした。

「何ですか先生。あたしも、今の話を真剣に聞いてくれたから、あたしも先生のお願い、聞きますよ。」

やった、それを言ってくれて本当にうれしい!と蘭は思いながら、彼女に「難しいお願い」を語り始めた。


一方そのころ、製鉄所では。

杉三と、天童先生が例のカミツレ茶を淹れに台所へ行ってしまったため、水穂とノロが広上さんの話題について、話していた。ノロが、かなりの苦情を語ったところを見ると、広上さんは相当執拗にお願いをしているのだろう。本当に広上さんは、思い通りにいかなかったことがまるでない人なので、相当な経験不足だなと、水穂も、聞いているだけの由紀子も、笑いたくなってしまうのだった。

ノロが、広上さんに、これからは邦楽も洋楽も、新しい音楽にしなければならないとしつこく言われて、逆に、邦楽は新しくしてもそれまでの誤解で絶滅すると言い返したと話していると、

「おーい、お茶ができたよ。リンゴみたいに甘い香りがして、うまそうだよ。」

そこへ杉三と、お茶の入ったマグカップを置いたお盆をもった天童先生が戻ってきた。

「何だ、またあの広上って人のことを話しているのね。へえ、まったく困った人だねえ。音楽の情熱はあるが、それ以外のことは、、、。」

杉三が、そう笑いながら、ノロの話に参加する。

「そうですねえ。他人に迷惑ということは、まったく考えておりませんなあ。」

ノロも杉三に同調して、水穂にも発言を求めるように目くばせした。ここまではよかった。しかし、水穂が、発言をしようと口を開けたとたん、急に激しくせき込んでしまうのだった。一生懸命内容物を出そうとせき込むが、どうしても出せない。天童先生がすぐにお盆を置いて、彼の背をなでに駆けつけてくれるが、そこに反応することさえできないのだった。

「おい、大丈夫か。また出すもんが詰まったな。最近、こうなると痰取り機のお世話になることが多いのだが、今回もそうしなきゃダメかな。」

杉三は、そういうが、杉ちゃん、あの機械はどうもつかいたくない、と思ってしまう由紀子。あの機械を無理やり口の中に押し込んで中身を取り出すことは、本人にとっては楽になるとしても、あたしはどうしても、、、と思ってしまうのだ。

そこをさっしてくれたのか、天童先生が、彼の背をなでながら、そっと語り掛ける。

「まず落ち着くことから始めようね。急に咳き込もうとしないでゆっくり出そうと思ってごらん。」

「あ、なるほど。シャクティパットだな。これは本当に何とかなるもんなのだろうか、見張ってなくちゃならん。」

すぐに杉三が口を挟んだ。杉三はこういう実態がないものがどうも苦手らしい。

「杉ちゃん、そういう悪質なテロ組織の道具と一緒にしないの。ちゃんとした治療として、世界的に認められているヒーリングだってたくさんあるんだから。」

由紀子が急いでそう訂正するが、

「いや、それは本当に信用できるんだろうか、この目で確かめてやる。」

なんていう杉ちゃんである。

「何を言ってるの。人が見てるとちゃんとできないから、あたしたちは外へでなきゃだめよ。」

と、由紀子はヒーリングサロンでよく言われるセリフを口にするが、

「いえいえ、わたくしが施術してもらっていた時、大学生などが見学に来ていましたから、それは大丈夫だと思います。」

ノロが穏やかに言った。

「よし、ここで見させてもらおうぜ。天童先生のシャクティパット。」

まるで、公安当局の監視人のような顔をして、杉三は腕組みをして、天童先生の施術を観察した。由紀子は小さくため息をついた。

その間にも、天童先生は、水穂の背中を静かになで続けている。不思議なことに、咳自体が解消されるというわけではないけれど、次第に穏やかになった。

「よしよし、落ち着いてきたね。次はゆっくり出してみようね。どなたか、タオルか何か貸していただけないでしょうか?」

「一体何があるんだろ?」

天童先生の呼びかけに、杉三が疑い深くそう反応したが、ノロは思うところがあったようで、はいはい、ありますよ。と鞄の中から顔拭きタオルを一枚取り出して先生に渡した。天童先生がそれをせき込んでいた水穂の口元に当てる。そうして背中をなで続けることを続けると、穏やかに咳をしながら、深く息継ぎすることを繰り返した。その代わり、白い顔拭きタオルが一気に赤く染まってしまった。

「へえ、畳屋さんのお世話になることがなく、この処理ができたのは、何年ぶりだろうか?」

からかうのはやめてよ、杉ちゃん、と由紀子は杉三の着物の袖を引っ張るが、無視されてしまった。

そのまま、何度かこの作業が繰り返されて、次第に咳き込むことも静かになった。天童先生は、静かに彼を布団に寝かせてやり、口の周りについていた吐瀉物を、そっと手拭いで拭いて綺麗にしてやった。

「ど、どうしたんだろう。力がなくなって、気を失ってしまったんだろうか。」

「眠ったのよ。詰まったものが取れて、気持ちよくなったのよ。それだけのこと。」

素っ頓狂に言った杉三を、由紀子はそう統制した。確かに、顔を見ると、水穂の顔つきは、穏やかで、文字通り気持ちよさそうに眠っているものであった。

「これで大丈夫よ。せっかくだから、目が覚めるまで眠らせてあげてね。起こすと、気分を悪くしてしまう人もいるからね。」

「そうなのね。まあ、途中で起こすと、効き目が切れちゃうということね。シャクティパットの。」

天童先生は、ヒーリングの終結を宣言したが、杉三がまた上げ足をとった。杉ちゃんは本当に、そういうことは信用しない人なのね、ちょっとあたしはがっかりしたわ、と由紀子は思いながら、水穂のかけ布団を静かにかけなおしてやった。

「かなり疲れているみたいだから、リフレクノロジーとかやっておきましょうか。本当は足の裏でやるんだけど、寒くなったから手の平を代理にしてやってみよう。」

天童先生が、水穂の手のひらをそっともみほぐした。実は足の裏とか手のひらには、言ってみれば色んな臓器につながるスイッチと言った、「反射区」というものがあり、そこを刺激すると内臓が活性化するといういわれがある。時に、それが重要視され、「足の裏は第二の心臓」なんていう言い方もされる。足の裏が有名だが、時には手の平も用いられる。

「へえ、足裏診断もやるんかいな。不思議なもんだな。こういう薬とかでもないし、鍼とか灸みたいに伝統的な道具を持つわけでもないのに、ちゃんと効果の出る治療ってあるんだねえ。」

「もう、変な組織の用語に例えないで。杉ちゃん、こういうのをやってくれるのは、ちゃんとした先生じゃないと、素人のあたしたちにはできないんだから。」

由紀子は、杉三が悪用された語を連発するので、そこを何とかしてもらいたいと思ったが、

「最近はそういう風に、悪用した組織によってはじめてその存在が明かされるという、実は優れた治療法がたくさんあるので、困りますな。」

と、ノロは半分笑った顔で、彼女にそう話した。

その間にも両手の平をもみほぐしてもらって、水穂は静かに眠り続けた。薬を飲んだ時も同様に眠ってしまうのだが、その顔とはまた違う穏やかな表情のままである。

「ある意味では、本当の意味で楽にしてもらったのかもしれないわね。どうしても、痰取り機で無理やりとると、不快で大変になるから。」

由紀子がそうつぶやくと、

「あんまりね、医療器具を使うのも、全部が全部いいとは限らないからね。あたしたちも、否定をするわけではないけれど、機械を使ってどうのよりも、こうして体を癒すほうが、もっと楽になれるんじゃないかっていう、事例はいろいろあるわよ。」

天童先生はそう答えた。

「問題は、すでに悪徳な企業や教団が圧倒的に多くて、それが、多くの人に知れ渡りすぎているということですな。」

確かに、ノロの言う通り、世間ではこういう治療を悪用した団体がでれば出るほど摘発されている。なんだか、ネズミ算式というか、摘発すればするほど、逮捕者が後を絶たないのである。そんなわけだから、正しくやっている人まで悪人扱いされてしまい、優れた治療法でも衰退していく。

「まあ、そういうことも多いけど、必要な人はまだまだいると思うわよ。」

天童先生は、にこやかにわらった。

いずれにしても、非合法とされていたり、科学的に言ったら役に立たないと言ってきたものが、こういう風に必要とされるという例はまだまだある。それが、あまり弾圧を受けずに堂々と役に立つと宣言できるのは、まだまだ先だと言えるだろう。

そういうことも、由紀子は少し頭に浮かんだ。でも、今ここで口に出すのはやめにしておいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る