第11話 魔王①

 シタンが詠唱を始めた。朗々とよく通る声は歌うようだ。何をするにも雰囲気のある人だった。


「大いなる母の御名のもと、君との契約を謳い上げよう! 宝玉の瞳よ、長き背よ、猛るしろがねの大爪よ」


 大規模な魔法の気配に洞窟の魔物が群がってくる。だが、間に合うだろう。僕が炎を撒いて牽制する間に彼女は詠唱を終える。


「弓持てる狩人の英雄とともに地を馳せたワーダンテールの獣よ! 我が傍に」


 基盆の門が開く。爬虫類のような長首がぬらりと這い出して2匹の魔物を食い殺し、


「————在れ」


 その輝く爪先が、現象世界へと着地した。《銀靴のワーデンタール》。難度9の召喚だ。かつてとある狩人に力を分け与え、共にラシュランに仕えた地を這う蛇体の精霊。その逸話から召喚者の肉体を飛躍的に強化する力を持つ。その加護によって、シタンはこれまでと比較にならないほどの力と鋭さで以って群がる魔物たちを相手取っていた。精霊本体もその位階の高さが示す通りの身体能力で敵を圧倒する。


「【励起】!」


「メラクの裔の祝福を与えます。願わくば——」


 すかさず僕が【励起】、お嬢様が【交信】の術を使う。だが、上手く行くだろうか。


 魔王もどうやら上階層での戦いに気づいたらしい。6つの瞳がこちらを睨みつけた。

 それだけだった。それだけでワーデンタールの肉体から火の手が上がって——!?


「いけない! 奴の視線を受けては!」


 精霊ワーデンタールの絶叫が響き渡る中、とっさに火の壁を創り出して魔王の視界を遮った。

 本来なら魂持てる肉体に魔法攻撃で直接干渉することはできない。炎の矢や氷の矢といった初歩の魔法が、『エレメントを呼び出し』て『目標にぶつける』というプロセスを辿るのもその為だ。だが、高次の魔法は魔法という仕組みそのものに備わる大原則を否定することすら可能とする。


レベル……11……!」


「——大いなる母の御名のもと、我が契約を謳い上げよう」


 ワーデンタールの呼び出しと維持に魔力の大半を使っているにも関わらず、シタンは新たな呪文を唱えようとしていた。

 そうだ。魔王に勝利するためにはワーデンタールが消える前に炎の壁を開き、奴の攻撃の瞬間を伺わねばならない。お嬢様が詠唱を始めた。僕も——チャンスは一度だけだ。その一度で、。だが——。


 シタンがこちらを見て、微笑んだ。次に魔王の【生体発火】を受けるとしたら、今なお獅子奮迅の勢いで魔物を切り捨てる彼女だろう。それが分かっている笑みだった。

 本当に彼女は、自分が傷を負うのを苦にも思っていないのだろうか。貴女がそうでも、きっとお嬢様は気にされている。


 火の壁が消え、戦火の中で3人の詠唱が響く。僕達は今この瞬間が最も脆い。ワーデンタールが残り少ない命を振り絞って魔物と戦っていた。シタンが舞い、獣の首を撥ね飛ばす。間に合うか。



*****



 詠唱中のミナトゥが悲痛な声を上げた。私も泣きそうだ。体内を焼かれる激痛と【再生】の痛み。ショック死も焼死も今一歩で踏みとどまっているのは一重にワーデンタールの加護によるものだ。この攻撃はまず過ぎる。かの精霊を呼び出したことで得られる膂力、速度、感覚の強化。それらも魔力の消費と生体発火によるダメージで帳消しになりかねない。


 霞む目は、しかし今まさに消え去ろうという様子の精霊ワーデンタールによって普段より多くを捉えていた。魔物たちを退けながら、剣で空中に文様を刻んで行く。


 剣戦闘を行いながらその軌跡で魔法陣を描く。本来は格下相手にしか通用しない曲芸であり、他の冒険者相手にレベルをごまかす手管だ。跳ねるイタチとの戦いで無理やり使った時には不必要に傷を負ったし、他の下層の相手にそんなことをしている余裕はなかった。だが今は“加護”がある。魔王が生まれたばかりで眷属が育ち切っていないのも順風だ。この瞬間、それは戦いながら魔法の位階を引き上げるための戦術として真っ当に価値を持っている。


 銀靴のワーデンタールの加護はまた、私に鋭敏な感覚を与えた。只人にありえない精度で魔力の流れを捉える事が出来る今現在の私は、常よりも精緻で遥かに情報量の多い立体の魔法陣を刻むことすら可能だった。これで2段階、踏み倒す。


「足跡は千の牛馬を生み、声は万の果樹を育む。侵されざる不滅の聖域よ、我らを庇護し給え」


 魔法の位階にはその魔法が起こす現象の複雑さや出力など、様々な要素が影響する。星6にふたつ下駄を履かせれば難度8。ここから先はかつての神の奇跡、神話の呪文を包括する。

 さらにノーシュとミナトゥから齎される【励起】の魔法は強引に潜在能力を解放することで一時的にレベルを高め、【交信】は召喚先の精霊に働きかけることで魔法の困難さ自体を落とすアプローチだ。

 これで難度10。エレメントの破壊の極北、俗に大呪文と呼ばれる各系統の最大攻撃が属している。そう、例えば大蜘蛛サイレンフォイルを討ち巨大な空洞を作り上げた、ちょうど今私が死なないことに業を煮やした魔王の口から放たれようとしているような——。


 咆哮。音が消えたと錯覚した。視界が閃光で満たされ射線上の全てが消滅したかに思われた。

 だが、ノーシュ・ユユがいる。彼は【励起】『詠唱』『魔法陣』そして『供物』——ディシェナが肉体と精神を生贄に要求して大規模な魔術に渡りをつける程ではないが、他の神にも特定の何かを捧げることでささやかな加点が見込め、鍛鉄と戦乱の神サアルには名剣を捧げることで魔法難度をちょろまかせる——によって、難度11【セグァ・スーの抄掠の鉤爪】の呪文を発動させていた。生贄となった剣は直前に私が投げ渡したもので、依頼の前金と少なくない貯蓄をはたいた代物だ。不朽と復元の魔法が刻印された業物であるが、致し方ない。

 魔力を使い果たし満身創痍といった様子であったが、彼は完璧に求められた仕事をこなした。この領域の魔法は大原則を踏み越える。ノーシュが他者——魔王の呪文の所有権を、1つではあるが奪ったのだ。

 猫魔導の掲げた杖の先、とてつもなく巨大な力が渦巻いている。周囲の魔物が主の力の一端に竦み上がり、身を引いた。だが、これを直接叩き返しても勝利には至らないだろう。

 ミナトゥが詠唱を終え、ノーシュと私の間に魔力のパスを繋ぐ。本来自分のレベルからかけ離れた魔法を使おうとすれば人間は干からびて死ぬが、これで何とか賄える——かもしれない。召喚術は維持にも魔力がかかる代わりに、呼び出す瞬間の消費は少なめだ。


 詠唱で精神をその呪文のために整えることで難度11。先程魔王が、そしてノーシュが操ったような越権行為が可能になる『理外呪文』の領域。詠唱の途中だが、ごりごりと魔力が消費されていくのが感じられる。既に身の程から遠すぎるのだ。


「豊穣と美の化身たるは翼持てる蛇体の神。完成された生命こそが基盆アカシアに刻まれたる大地の暗示、我らが至上の母の名は——」


 私の右手が掴んでいた、ルストーヴェの残していったラシュラン神像が力を発揮して崩れていく。難度12。攪乱も抄略も寄せ付けず、弾くこともいなすことも適わぬ『絶対呪文』の領域へ。

 ワーデンタールの命が尽き、その肉体が灰のようになって宙に溶けていく。加護が消滅し、ただでさえ悪かった視界が完全に闇に閉ざされた。問題は……ない。魔法陣は刻み終えている。


 そして最後だ。サアルが鍛えられた鋼を貴ぶように、ラシュランを奉じる祭典では大量の果実や牛馬を贄に捧げる。そして粘土を捏ねて人間の肉体を作り上げたラシュランはまた芸術の神でもあるのだ。


「シタンさんっ!」


 彼女の声が聞こえた。そうだ。2人の目の前で無理くりにでも不撓のゾノエを呼び出して見せたのはこの為だ。剣も魔力も使い果たして、でも、ミナトゥ。君を完璧に欺くことが出来ているなら。私が強者を完璧に『演じる』事が出来ているなら、それは精霊神への供物になる。


 君が信じてくれるなら、私は強くなれるんだ。


 難度13、最高位の呪文。倒れそうな体を叱咤して唱え切った。


「《ラシュラン精霊神》……在れ」


 体内を膨大な魔力の奔流が荒れ狂い、駆け抜ける。

 清冽な風が吹き遊び、視界が戻ってくる。直後、二度目の魔王の大光線が、私たちの立つ第30層を一気に吹き飛ばした。

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