第9話 深部へ

 魔力の燐光が照らす中、おそるべき速度で洞窟を駆ける影があった。常に足元だけを凍結させ、その上を滑ることで際限なく加速していく。

 速い。只人の理解を拒む程に。

 道中の魔物を鎧袖一触に蹴散らして奔走するのは整いすぎなほど端正な顔をクールに引き締めた魔王殺し四英雄が一、ハイトネット・ギャバレーだ。奴が槍を一振りするたびに幾つもの命が凍りつき、やがて終わる。【索敵】で敵影は完全感知してる筈だってのに迂回もしないのは、そいつらを敵とすら見ていないからだ。


「神故索引、我が連理のともへの道を開く! 大いなる智慧の師、命脈を曲げる者、糸織るメラクの名において!」


 【絆の呪文】。

 瑠璃の糸車を掲げて運命と精神を司る、メラクは軍神サアルと婚姻した神だ。かの神は精神の距離を物理的な距離に置き換えることが可能であり、夫であるサアルの元へいつでも一瞬のうちに移動する事が出来たという、その逸話を再現する神話呪文。地上にいる相棒こと雷竜グリザリオンの元へつながる門を開き、生存圏を移した魔物に苦戦する冒険者たちに近寄るや否や、有無を言わせず次々と地上へ放り出していく。


「ルストーヴェと言ったか、オレの速度によく付いてくるものだとは思うが——」


 ハイトネットに水を向けられた。

 こちとらそれだけが取り柄だからな。同じ速度で飛び回りながら神話級の魔法をバンバン打ちまくってるお前に言われても嬉しかねえよ。英雄様とやらのヤバさを思い知ったぜ。探知の精度も狂ってやがるし。


「魔王とやり合うつもりか? 役に立たんとは言わんが、死ぬぞ」


「占い屋お得意の【託宣】か? いや、そんな事はいい。ただの野次馬根性だよ。勘だが、シタンの奴はこの件に無関係じゃねえ。金を掴まされて奴らに斬りかかった俺が素知らぬふりをするのもな」


 それに、サイレンフォイルは新興の迷宮都市だ。人種やクラス間の軋轢も少なく過ごしやすい。シケた場所なりに愛着があった。そのサイレンフォイルが一大事だってのに、英雄サマ一人に任せて指を咥えて見てるってのも柄じゃない。


「……シタン?」


「知り合いか?」


「……いや」


 優男はぴくりと反応した。何だってんだ。

 天井を突き破って岩食い長虫が襲ってきた。時には既にハイトネットの魔槍が突き放たれている。氷の錐形を纏い何倍も大きくなった槍が長虫の胴に風穴を開けてそのまま引きちぎった。


「訊いてもいいか。そのシタンというのはどういう人物だ」


「あん? 何だってそんな……同業だよ。冒険者だ」





*****



 ミナトゥの指が地面を這い、青い幾何学模様を刻んでいく。

 魔法陣。地面などに魔力の通り道を引いて使用する魔法の難度を下げる技術だ。難点は時間がかかること、図形を描くことに集中力を取られる上移動に制限がかかること。とにかく取り回しが悪く、同じ使途にしても基本は詠唱が優先される。だから魔法陣が使われるのは専ら併用して2段階分の下駄を履かせたい時だ。


水面みなも揺蕩たゆたう糸、解きほぐされて」


 ミナトゥが震える声で呪文を唱える。金鎖の指し示す場所。視線の先には、魔王がいる。


 3対の目。その1つ1つすら私などの全身より大きいだろう。蹲るそれは虎のような姿をしていた。尾は幾つにも枝分かれし、先端には鋭い牙を持つ口があった。

 サイレンフォイル地下迷宮の最下層、地下31層。私たちがいるのは、その1つ上の階層。魔王が暴れて生成されたと思しき吹き抜けの縁で、凄まじい気配を放つそいつから身を隠している。

 ぼこり、ぼごりと奴の周囲が泡立って魔物の姿を形作る。冒涜的な光景だ。迷宮の最深部。魔王より湧き出す魔力が燐光を放ち、緩やかに眷属を生み出していく。あれら1つ1つが、恐らくは生まれた時点で既に星6かそこらの魂を持っている。


「……やっぱり、兄はにいます。苦しんでいる……強大すぎる力を現象世界に留める楔となっている」


「邪教のやり方には詳しくないけど、そんな気はしてたよ」


 基盆アカシアから旧い生物の似姿を引っ張ってくるだけなら精霊の召喚と同じだ。生命を供物に差し出しているにしても、起きている現象が屍術の体系とは噛み合わなない。だからラグドゥは単なる供物ではなく、魔王の素材でもあったのだろう。並人ヒームを使ってあそこまで猫寄りな代物が生まれている理屈はわからないが。


「逃げるって……仰らないんですね」


「君の兄を探す。そういう話だったね。だったらこれで依頼は完遂か。魔王が6層をぶち抜いてくれたのは運が良かったね」


「だったら、もう……」


「ノーシュ、君が用意できる最大出力の魔法を撃ったとしてあれを殺せる?」


「分かっているでしょうが、無理です。戦力を一割削れるとも思えない」


 猫魔導は溜息を吐いた。そりゃそうだ。達人がいる程度でなんとかなる敵ではない。少し視線を上にやれば魔王の開けた大穴が25層にまで続いているのだ。


「ミナトゥ、ここから帰るのが最適解だと、君は理解しているはずだ。だからそもそもこの問答に持って行く理由が分からない。君が私を見る視線は……その、たまに同行するギルドの連中に向けられる信頼であったり、要求であったりとは、少し異質なものな気がするんだ。誤解なら悪いんだけど、君はここから事態が好転するかもしれないなんて事を考えているように思えるんだ。そんな材料のあてもないのに」


 ミナトゥの頬に朱が差した。羞恥の表情だ。


 21層で引き返そうとした時の予測と比べて状況は何も好転していない、悪化していると言ってもいい。にも関わらず彼女のこの振る舞いは不可解だ。矛盾がある、ように思える。

 最下層で全てを諦めて帰ると言い出したりしないであろう雰囲気は察していた。ただ、理由だけがわからない。


「私を誘った時、君は言ったね。あの時の占いで君は、私に何を見ていた」


 少女は困ったように目を泳がせ、私とノーシュを交互に見、やがて意を決したように口を開いた。


「……何も」


「————は?」


 理解できなかった。何て?


「何も、見えなかったのです。だからあなたにしようと思いました。シタンさん」


 ノーシュに戸惑った様子はない。私だけが置いていかれていた。


「ごめんなさい! 雇用主として無責任なのは分かってるんです。これから何が起きるのかは分からない、でも」


 深い、深い色。星空のような瞳が私を見ている。期待するような、懇願するような。


「何かが起きるのでしょう? あなたの手によって」


 簡単に言ってくれる。彼女が何も見なかったというのならこれは占術師としての太鼓判ですらない。極め付けに最悪なのは、これから私が何を言い出すにしても2人は乗り気であろうことだ。

 いや、分かってる。簡単なことだ。私が「帰る」と言えばいい。何もないと言えばいい。それに文句を言う奴は居ないはずだ。仕事は終わった。ここから先はただの人間の手に負える話じゃない。それなのに。


「任せて」


 絶対無理だって。今回ばかりは絶対死ぬ。ただ死ぬだけじゃない。このかわいい女の子とかわいい猫ちゃんを巻き込んで死ぬんだよ。そういうの良くないでしょ。最悪じゃん。いつもお前がほいほい調子いいこと言って苦労するのは私なんだから——!


「ラグドゥを助けよう」


 ——馬鹿やろう。

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