第7話 大蜘蛛サイレンフォイル
「貴女はもっと思慮深い方だと思っていましたが」
小声でノーシュに嫌味を言われる。
「私は臆病だし心配性だよ」
ただ、行動が伴わないだけだ。私自身が私の危惧をまともに受け入れることができるなら、多分この依頼を受けてすらいない。
「来て、《レドン》」
手足の生えたキノコのような精霊を呼び出した。胞子を振りまきながら遠くへ駆けていく。あの程度の毒などこの階層の敵には一切役に立たないだろう。ただ、嗅覚に優れた獣たちへの囮程度にはなる。
身を隠しながらの道中、食物連鎖の形態が変わったのだろうと思わせる光景をいくつか目撃した。獣型の魔物が虫型の魔物の死骸を貪っているのだ。
私たちはこれまで以上に慎重に戦闘を避けながら、現在25層を訪れていた。
ちょうどノーシュの魔力が枯渇しており、討伐した魔物から抜き取った魔力の核を使って魔力を補充している所である。こういう使い方をすると暫くは循環魔力のめぐりが悪化して使用可能な魔法の難度が一段階落ちてしまうが、どこかで必要となる行動だ。
迷宮の大気は魔力を含む。深層に向かうにつれて濃くなるそれは、魔物達の生存を助けるとともに迷宮内を照らす灯りの役目を担う。しかしそういった自然回復で賄いきれないスケールの呪文を撃ちまくるのが達人と呼ばれる者たちだった。
体内を這い回る異物感にノーシュが顔をしかめている。耳と尻尾も心なしか悄然とした様子。かわいい。
とはいえ、いくら慎重に行動していても避けえない戦いというものはあるわけで。深層の新たな支配者たちは虫以上に俊敏で、時に狡猾だった。気配を消して忍び寄り、集団で狩りをする。
「すみません。たくさん来ます」
ミナトゥがそう言うと同時、ノーシュが【燎原火】を唱えた。
人間ほどのサイズのイタチだ。虫たちの外骨格を加工したと思しき、刃物と軽鎧で武装した。
「《ダグレクシア》! 」
「来い!!」
現れたのは茨が寄り集まった女性型の精霊。棘蔓がイタチの何匹かを弾き飛ばし、何匹かに棘蔓を切り飛ばされる。そしてカバーしきれなかった敵を私の剣とノーシュの火球が迎え撃つ!
私は浅く胸元を切り裂かれつつ、鍔迫り合いからどてっ腹を蹴飛ばして正面の敵を火の海に叩き込んだ。どうやら敵は火にある程度の耐性を持っているようで、弾かれたイタチたちは再び上空に跳び上がって突撃を敢行する。
「メラクの子が祝福を与えます。ラシュランの眷属へ、勇士の嘆願が聞き届けられんことを!」
ミナトゥが【交信】の詠唱を終え、私の体に力が充溢する。ノーシュの魔力が酔っている間、大技は私の担当だ。
致命的な攻撃のいくらかを精霊ダグレクシアに任せ、2匹のイタチを剣で迎え撃つ。無茶な動きで体中に傷を負い体勢も悪化したがなんとかこれで『仕込み』が完了。ダグレクシアが落ちる前に
「召喚! 《不撓のゾノエ》!」
炎の中に立ち現れたのは身の丈5公米にも及ぼうかという人型の精霊。四つ眼の犀に騎乗したそいつは、ノーシュ操る【サアルの翼】と同等の位階を持つ神代の呪文だ。
ゾノエが手にした錫杖を鳴らした。その澄んだ音は燃え盛るダンジョンの中で奇妙なほど響き渡る。瞬間、イタチたちは動きを止め、そして一様にゾノエに躍りかかった。奴らの目には隠しようのない敵意、そして恐怖が見て取れた。
戦慄喚起の音色。
魔物たちに一種の恐慌状態をもたらし攻撃を自身へと強烈に引きつけることで、完全に私たちはフリーになる。そして不撓のゾノエ自体も高い耐久力と打撃力を持っていた。息を荒げて足を踏み鳴らす犀の上でゾノエが振った錫杖がイタチの頭を捉えてザクロのように粉砕する。イタチたちの刃も犀に傷を与えてはいるが、分厚い皮膚に阻まれて思うようにダメージが通らない。
身の丈に合わない魔法を使ったことで疲労に襲われる体を叱咤して剣を振るう。ノーシュとミナトゥ、それに消えかかったダグレクシアも隙を見せたイタチたちに攻撃を加えており、挟撃を受けて尚イタチたちはゾノエ以外目に入らぬようだった。久々に使った神話呪文、やっぱり強烈だ。
強化斬撃で何匹かのイタチを屠ると、残党を仲間に任せて手近な死体のいくつかから核を抜き出す。もはやギルドに買い取らせる云々ではなく、魔力の回復に必要な分を確保していくことが重要だった。パーティの安全を考えても、ラグドゥの霊魂が霧散するまでの期限を考えても、倒した魔物全ての死体をほじくっているような猶予はない。
「他の魔物が集まってきます。急いでここを離れましょう!」
ミナトゥの鶴の一声で精霊たちを消して走り出す。運良く敵に出会うことなく離脱することができた。出来たんだけど……。
*****
「これは……」
眼前の光景に、2人は立ち尽くして私を見る。ノーシュの表情からは「本当にこの先に進むつもりなのか」という不安が見て取れた。
そこにあったのは破壊の痕。恐らくは、魔王による。
穴だ。
反対側の縁すら視認できぬほどの、途方も無い大きさの穴。
ある程度の視界はあれど、洞窟内は暗い。穴の深さも分からなかった。だが、抉れた壁の傾斜から類推できることもある。
「このダンジョンから削り取られた長球形の、ここが……上端だ。てことは」
これは遥か深層――察するに最下層から大質量の攻撃が行われた痕だ。そういえば数日前に地震があった、気がする。
「一体何のための……」
「あれでしょうね」
ノーシュが天井を指さした。果たしてそれが応えであろうと、目を遣った私にも確信できた。今まで気づかなかった事が信じられないほどの威容を誇る、死骸。
損壊が激しいせいで断定できないが、本来は左右13ずつ、計26本あったと思しき足。多数の複眼を持つ頭部と腹部は盛大に潰れており、地下迷宮の王の交代劇がいかに激しかったかを物語っている。
「シタン。サイレンフォイルの主は、巨大な蜘蛛とされている、と貴女は言いましたね。では、これが」
「あぁ。そうだろうね。これ程のやつがそうじゃなかったら私は尻尾を巻いて帰らなきゃならない」
ノーシュが微妙な顔をした。冗談だ。引き返す分水嶺があるとしたら、そんなものはとっくに過ぎている。
ふと、先程からミナトゥが口を開いていないことに気づいた。はっとなって振り返ると、彼女はぼーっと天井に埋まる蜘蛛を見つめている。
「ミナトゥ?」
魅せられたように虚ろな表情、瞳が青い光を放っている。
「まずい!」
「お嬢様! お気を確かに!!」
彼女の占術師としての受容体が何らかの干渉を受けている。変容と霊体を司る水のエレメントは死者から呼ばれやすい。そうでなくてもこのメンバーで最も
肩をがくがくとゆするが反応は芳しく無い、どころか何かをぶつぶつとつぶやき始めた。
「生贄……黒衣の…………魔力……が…………膨れモガッ」
「失礼します!」
ノーシュがミナトゥの口に携帯食をねじ込んだ。そうだ、霊魂に体を乗っ取られる前にミナトゥの自我を呼び覚ます。そのためにこのクソ不味い携帯食はまさしく持ってこいだ。トランスを助長しない俗世の刺激。
「うぐっ……もぐもぐ…………」
効いている、気はする。だが依然彼女の眼はここではない何かを見ている。このまま押し切る手段は多分、ある。
「業腹ですが、貴女を頼るほかない」
ノーシュが言った。私も気は進まないがそんな気がする。なおも逡巡するが、ノーシュは耳をピンと立てて『さっさとやれ』といった表情で私を睨んだ。ええい、ままよ! 食欲で足りないなら——
*****
深い、深い暗黒の中にいる。
これは記憶。地下迷宮のかつての覇者、大蜘蛛が敗北と死に至るまでの。
心ここに在らずといった様子の猫人を取り巻く邪教の贄。彼等は悪魔神の祝福を得るための供物として自らの命を断ち、それを以てしてレガリアの秘儀を完遂させ——。
ぼんやりと薄れていく自我を危機に思うことすらできず、私は蜘蛛の漠たる魂を漂流する。
魔王の誕生、彼女の推測した通りだったのだ。やっぱりシタンさんはすごいな、と思った。かっこよくて、強くて、賢くて、頼りになって、でもちょっと可愛いところもある。そんな——
「! んえっ」
なっなっなんなんなんなんなんなん何してるんですか!? シタンさん!!!
気がついたらシタンさんに抱き寄せられていて、私、お、おお、大人のキスを!!!! 口内をぬるぬると舌が蠢いて、こんな、別の生き物みたい……あっ……シタンさんの睫毛、長くて綺麗……。
「もういいでしょう! こら胸を触るなこのお方を誰だと」
「ん、ミナトゥ。気が付いた?」
あ……。
事ここに至って、私は事態を察しました。この蜘蛛の霊魂に呼ばわれて、私はあと一歩、肉体を乗っ取られる所だったのです。トランスを断ち切るには外部刺激、それも世俗を喚起させるものが良いとされていて、この場合のそれとはつまり……。
「ご、ごめんなさい。ありがとうございます、シタンさん」
「ふふ、ご馳走様」
そう言って彼女はぺろりと舌を出しました。さっきまであの舌が私の中に……はっ、いけません! 恩人に劣情を向けるなんて!
「そちらの
ノーシュの声にびくりと震えましたが、どうやら水を向けられたのはシタンさんのようでした。しっ失礼ですよ! 確かにあの夢の中も……ゴニョゴニョ、女の人と抱き合ってましたけど……。
さておき。いつまでも色ボケてはいられません。
「先へ進みましょう。蜘蛛の記憶に、兄の姿がありました」
表情を繕って大穴を睨みつけます。シタンさんが茨を呼び出し、降下の準備を始めていました。
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