幻
気づけば私は川岸の、スノードロップの花畑に倒れていた。
「……ああ、またこの夢か」
ため息をつきながら起き上がる。周囲は私が寝る前にいた自室ではなく、ましてや現実の風景でもない。何度も何度も同じ経験をしているだけに、それだけはよく知っていた。
私の体には緩やかに何本もの鎖が巻かれている。沢山の色のものがあるが、首に掛かった真っ赤な石のペンダントが一際目を引いた。
そして川の周囲にはスノードロップの花。目の前にお誂え向きに川があるのだから、彼岸花にでもすればいいのに、とぼんやり思う。まあ、神様あたりから私への贈り物だとすればこれはこれでいいのかもしれなかった。
川は幅広く、深い。鎖を巻いた状態で入ろうものなら、溺れてしまうこともわかっていた。前に一度、やったことがあるから。その時はどうだったか、目は覚めたのだったか。よく、わからなかった。
この夢の中で最も異質なのは、対岸に落ちている、ペンダントだろう。それは華奢な銀色の鎖で、真っ白な石がチャームとしてぶら下がっている。その石は、いつか見た親指の亡骸とひどく似ていた。
私は、あの石が欲しくて仕方ない。どこか薄気味悪いペンダントだけれど、この夢の中では毎回欲しくてたまらなくなる。大切だったような、手放してはいけなかったような、取り戻さなければいけないような、そんな衝動に駆られる。
「そのためにはこの鎖が邪魔なんだけどね…さてはて」
今までの夢ではこの鎖には手をかけたこともなかった。解いてみよう、と考えてぐちゃぐちゃに絡んで巻かれた鎖の一本、橙色の物に手をかける。と、掴んだ手がずくりと痛んだ。それから、誰かの顔が思い浮かんで手を止めた。あの笑顔は、誰のものだった、だろうか。
けれどそれも一瞬だった。思い出せないような顔なんて重要なものではなかったんだろう、と思い直して鎖を引く。案外簡単に鎖は崩れた。
「へ?……まあいいか」
劣化しているようには見えなかったのだけれど。
崩れた鎖の欠片が指を切ったけれど、鎖を外すのに支障はない。どうして鎖が崩れるのかなんて、どうして見知っているはずのあの笑顔の主が思い出せないのかなんて、別にどうでもよかった。何故ならこれは夢で、目を覚ませば彼女にだって会えるはずだから。
次の鎖に手をかける。今度はさっきとは別の人の泣き顔が思い浮かぶ。けれどその主も思い出せなかった。ざくり、手のひらに黄色い鎖の欠片が突き刺さって血が溢れる。
構わない、とにかく私は、あのペンダントを、取り戻さなければいけない。他のことなんてどうでもいい。次の鎖に手をかける。今度はまた別の人のはにかむ顔。やはりその主は思い出せない。手の甲を緑色の鎖がかすめた。
また次の鎖。今度は誰かの笑い声だった。優しい声だった気がした。けれどその主も思い出せない。腿に落ちてきた青色の欠片が肌を切り裂いた。
また次の鎖。今度は誰かの泣き声だった。後ろ髪を引かれるような気がした。けれどその主もまた思い出せない。足元に落ちた紫の欠片を踏みつけて血が流れた。
「……よし、あと一本」
最後の最後に残った赤い石のペンダントを見つめて、手をかける。どうして一番目を引くこの赤い石を、この鎖を残してしまっていたのか、よくわからない。ただ、とても印象深かった。懐かしいような、これもまた手放してはいけないような、そんな感覚が私の中にあった。
それに手をかけた瞬間、一際強い痛みが私を襲った。今度は手だけじゃない。腕、肩、喉、頭、胸、胴、脚。手から全ての部位に痛みが広がっていく。それは私の頭の中で反響して、幾度も幾度も私の胸を突き刺した。
あまりの痛みに頭を押さえてうずくまる。がんがんと反響する頭の痛みは、誰かの、大切な誰かの声だ。戻って来いと、届けと、叫ぶ声。誰の声だったか、思い出せない。思い出せないんだ。誰かが叫んでいる。きっとこんな風に叫んでいるんだろうと、思い描くことさえできる。それでも、誰だったか、思い出せない。
彼は泣いていた。一心に叫びながら、私の名前を呼びながら、その目から涙を流していた。嗚咽混じりの声が私を呼ぶ。必死な、いや、それ以上の言葉で表すべき、その顔。かつて、どこかで、私を呼んだ、大切で、優しい、その声。
私がそばにいた時は、一度だって見せてくれなかった、とても強い感情。
私は、その暖かさを、赤さを、知っている。
__ああ、思い出した。この鎖は、あの人の。
びきっ、という音を立てて鎖にヒビが入る。このまま引けばこの鎖も崩れるだろう。対岸のペンダントが目に入る。あれも大切だった。手の中で崩れかけている、この鎖と同じように。あのペンダントを、手に取りたい。
けれど、赤い石は、鎖は私を苛む。いや、もうそれは苛みとは呼べなかった。思い出した私にとって、それは暖かく、懐かしい呼び声だったから。この鎖を離さないでいたい、暖かい、思い出した確かなものを、手放したくない。そう思う気持ちもまた、ペンダントを求める気持ちと同じだけある。
ぽたり。
落ちたそれは、涙だったのか血だったのか。
「ごめん」
誰かに向けて、そう囁いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます