間
どうやって帰ったのだったか、よく覚えていないけれど、いつの間にか私はマンションの自室に帰ってきていた。マンションのがらんとした部屋の壁は白くて、それが部屋をさらに広くしていた。
彼は、死んでしまったのだろうか。
暖かかった彼の体が冷たくなって、白い欠片がボロボロ落ちて、彼の顔だって肌だって全部真っ白で、冷たくて、冷たくて。
よく、わからなかった。ただ、とても寒くて冷たかったのは覚えている。
今もそうだ。寒い、とてもとても寒い。
上着を着て毛布を被って自分の体を両腕で抱きしめているのに寒い。
ストーブだって焚いているし、窓は閉め切ってるのに寒い。寒くて冷たくて痛くて怖くて悲しくて寂しくて仕方ない。
物理的な表面的な暖かさじゃない、もっと違うものが足りない。足りないから、冷たくて、冷たくなって、白くなって、崩れる。
きっと、もうすぐ。崩れる。崩れる。崩れてしまう。彼みたいに。
不意に、聞き慣れたラブソングの着メロが流れてきて私は顔を上げた。机の上に置いていた携帯を手に取る。手に取った携帯も冷たかったけれど構わず開く。ディスプレイには『神山 暁』の文字。メールが届いていた。
「大丈夫か」「あんまり無茶するなよ」程度の簡単な文だったけれど、あの人なりの励ましの言葉なんだと思う。最後に「暁」と名前を書くのを忘れないのも、堅苦しい彼の癖だ。
ただ、今はそれどころではなかった。寒くて寒くて仕方なかったから。
携帯を適当に放り投げてお風呂を見に行く。寒くて仕方がない体を温めようと、お風呂に入るために、湯船にお湯を溜めていたからだ。
ほぼ溜まっていたお湯がゆらゆら波打って、白く光る。羽根の形に。
その光は、誰かの髪の色によく似ていた。
よく似ていたんだ。
それはもう、皮肉なくらい、とてもとてもよく。
くるり、そが私の方へ振り返る。溶けて崩れて消えたはずの、その顔が、私を見て微笑んだ。私の胸の中にいた、その笑顔で。
そのまま、氷像より綺麗で暖かそうな、その腕を伸ばした。
『なあ』
声が、聞こえた。さっきまで私に囁いていた声。優しかった声。暖かかった声。大切だった声。翼の、声。
『こっちに、来てくれよ。寒いんだ』
微笑んでいた彼の目に、唐突に白い光が見えた。つうっと彼の頬を、涙が伝う。
拭わなきゃ。
彼の涙を。悲しみを。苦しみを。痛みを。寂しさを。切なさを。悔しさを。不安を。絶望を。郷愁を。
誰にも救えなかった翼の、どうしようもない孤独を。
拭わなきゃ。
その一心で手を伸ばす。温いお湯の中に手を突っ込んだけれど届かない。湯船の底が邪魔だ。
彼はどこにいるんだろう。よく見えない。もっとよく見なきゃ、見えない。
無我夢中で頭を突っ込んだ。暁にもらったペンダントが水の中で、光を反射して鈍く光る。
こぽこぽ白く光る泡が綺麗だった。ゆらめく翼の姿が陽炎みたいで不確かで儚くて綺麗で、手を伸ばす。
けれど、手は届かない。虚しく湯船の底を叩くだけだった。
彼は寂しそうに笑って見せて、スノードロップの花畑の向こう側へ歩いて行った。その周りには薄青の華奢な鎖の残骸が落ちていた。彼はもう振り返らなかった。真っ白になった視界で、スノードロップが笑うように揺れた。
私はただ、呆然とした。置いて行かれた。それだけが私の頭の中にあった。
置いて行かれた。誰が?私が。彼に。置いて、翼に、置いて行かれ、ました。
(っ、う、あ)
こぼれた嗚咽はどこにも届かなかった。そこにはもう、誰もいなかった。
(ぅ、ぁああああああああああああああああああああああああ)
水の中で、肺の中の全ての空気を使うようにして叫んだ。
いやだよ、どこにも行かないで。寒いの、寒いんだ。やめて、やめてよ。
嘘でしょう?
怖いの、怖いんだよ。お願い、ねえ、ねえ、ねえ。
私を一人にしないで。
「行かないでくれよ、お願いだから、なあ」
声は、泡と消えた。
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