「はーい。いるのはわかってんだろ?」

『空野 翼 様』と書かれたネームプレートが下げられたドアをノックすると、彼はいつもの調子で答える。実際彼がここにいるのはわかっていたのだけれど、当てられてしまうと少し苛ついた。けれど、多少は安心した。予想が当たっていたから?……いや、もっと別の何かだ。

 ため息をつきつつドアを開ける。すると翼は当たり前の様に、いつもの様にへらへらと笑った。

「全く、今日も来るんだな。お前には友達とかいないのか?」

「うるさいな。そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。……なにせ、」

 君は今日までしか生きられないかもしれないんだから、という言葉は飲み込んだ。彼がこの調子なのに私が不安を煽ってどうする。まあ、翼の表情は信頼ならないけれど。ポーカーフェイスが上手い人間だから。

 彼は私が言い淀むのを見て、窓の外を眺めた。私もつられて外を見る。外には綿雪が降っていた。ふわふわ、ふわふわと落ちる白い羽根は、アスファルトに落ちてはゆっくりと溶ける。

「雪、か。……全く、どこまで皮肉れば気が済むんだか、神様は」

「そう、だね」

 人に触れると溶けてしまう、お伽話みたいな病気。それが今、翼を冒している病だった。勿論それだけではなく、翼はがんも患っている。そして、今日が、彼の余命最期の日だ。

 ゆるやかに落ちる白以外、何も動かない世界。鼠色の空と灰色の地面をつなぐ白色。私たちはしばしぼんやりと、神様の皮肉みたいな綿雪を眺めていた。

「花、代えてくるね」

「あ、おい」

 私は静かな空気に耐えかねて、棚の上の花瓶を掴む。前に持ってきた薄赤色のコルチカムの花が枯れていた。今日持ってきた白いライラックの花を生けようと思ったその時、彼が私を呼び止めた。

 振り返れば、翼はいつもの笑顔で手招きをしていた。何がしたいんだろうか。

「はいはい。どうしたの?」

 やけに子供っぽい仕草に、私はとりあえず彼のそばに寄っていく。窓の外を舞う雪のような髪が、腕が、不意に動くのに気づいたときには、遅かった。

「……ごめんな」

 優しく、たどたどしく背に回された腕に、私は一瞬何が起こったのか理解できなかった。彼が私を抱きしめているのだ、と気づいて更にわからなくなる。

「どう、して」

 天から落ちてきた翼は、人に触れてはいけないの。

 雪とおんなじに溶けてしまうから。

 だから彼は、触れてはいけないのに。

そんなことすら許されない体に生まれついてしまったのに。

もうすぐ、終わりを迎える人生なのに。

__どうして、自分で死のうとするの?

「っはは、驚いてんのか?」

 からからと彼が私のすぐ横で笑った。さっきまでより、ずっと近い場所で。互いの心臓の音さえ聞こえる場所で。私が息をする衝撃ですら彼の腕の皮膚がずれるのを、どこか他人事のようにさえ感じていた。

「悪いな。俺、死ぬならこうやって死のうって決めてたから」

「……なん、で?」

 わからない。今起こっていることがわからない。翼の言葉の意味がわからない。翼の笑顔の理由がわからない。寄せられた頬から血がにじんでいることや、一生分の仕事を終えようと彼の心臓が急速に動いていることや、彼の腕から滴る血が私の背を伝っていることはわかるのに。

「だってさ、ほら」

 彼は崩れかけた手で、血に塗れた手で、私の頬に触れた。翼の右親指がぼたりと私の胸元に落ちる。ああ綿雪みたいだなあと、ショーケースの中身でも眺めるように思った。あの指が綿雪だとすれば、それを追って落ちた涙は人の足跡だろうか。綺麗な赤色をどんどん汚していくこの透明は、雪を灰色に汚していく足跡に、とてもよく似ていた。

「……お前は、俺が死んだら泣いてくれるじゃないか」

 私の涙を拭った人差し指が、ぐちゃりと崩れた。白い骨すらぼろぼろ、ぽろぽろとこぼれていく。それを追って血が流れた。命の源。人間を生かすのに、なくてはならないもの。それが、ぽたぽた、ぽたぽた落ちた。溶けかけの綿雪みたいで、なんだかとても愛おしかった。彼の体温がゆっくり下がっていた。

きっともう、長くない。嫌だと言った所で、それは変わらない、変えられない。彼が生まれた時から、もうすでに。すでに決まっていたことだから。

 ずるり。不意に私を抱きしめていた、腕の拘束が解けた。べぢゃっという音と共に翼の腕が役目を終えた。真っ赤になった頬に、血の涙が伝った。

「ああ、もう、終わりか」

 とてもとても満足そうに、それでも少し名残惜しそうに、翼は私に体重を預けて静かに、笑った。

「なあ、おやすみのキスをしてくれよ」

 私の胸元に落ちた羽根は、溶けて崩れて、白い欠片に変わっていた。

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