其之九 怪奇探索部の帰還

 しばらく歩き続けた頃、暗闇の中に構造物が浮かんでいるのを見つけた。


「真弓」


 僕が声をかけた時には、後輩は既にファインダーを覗き込んでシャッターを切っていた。


「街、ですね」


「ああ」


 どこかで見たことのある大量生産型の現代住宅から、年季の入った日本家屋まで。ちょうど画面から見切れた建物の写真を集めてコラージュしたみたいに、ぶつ切りにされた街の残骸みたいなものが虚空に浮かんでいる。


「あれもイドの世界なんでしょうか」


「贔屓目に見ても残骸ってとこだろう。近寄るなよ」


「まあ……被写体としてはそそりませんけど。あれ、中はどうなってるんでしょうね?」


「中も切れ切れなんじゃないの」


 シャッターを切る真弓は放って置いて、歩みを進める。何しろ前にも後ろにも一本道が続いているだけなんだから、世話はなかった。


「その、先輩」


「なんだ」


「実際、帰るあてはあるんですか。お兄さんとか、つぐみちゃんとか」


「それはわからん。向こうは向こうで、かなり忙しいはずだから……ただ、帰る気のある人間は、イドの世界……鬼界でも、自ずから帰り道を見出すそうだ。だから、とりあえず、光の差すほうに進んでみてる感じ」


 通路の遥か先に、小さな光が見えている。あれが“外”なのかどうかはわからないけれど、今はとりあえず、歩き続けるしかなかった。幸い、後先考えずに力を使った割に疲れた感じはない。いざとなれば、真弓一人くらいは背負って逃げられるくらいの余力はある、と思う。


「そういうことですか」


「だから、一応帰ることは考えてるよ。そんなに心配すんな」


 真弓は少し鼻白んだ。


「いや、心配なんかしてませんし。ちょっと飽きてきただけですし」


「確かに、変わり映えは――」


 しないな、と言いかけた時、不意に踏みしめる地面の感じが変わった。硬質プラスチックみたいな軽い素材を感じていた靴底が、今は下のほうまで詰まった重たいアスファルトの道路を踏みしめている。


 次いで、ぱっと視界が開けた。また、夕焼けの差し込む住宅地だ。


「え、あれ」


 真弓があたりを見回した。


「急に外に出ましたね」


「外かどうかは、まだわからんが」


 スマホを引っ張り出して、時間を確認する。


「真弓、腕時計してたよな。今、何時かわかるか?」


「十二時前です。あ、お昼の方です」


「僕のスマホもそうだって言ってる。夕焼けにはちょっと早いな」


「まだ、鬼界ですか? そんな感じ、しませんけど」


 それは、真弓の言う通りではある。今差しているのは、何かが現れるとき特有の毒々しい夕日とは違って、穏やかそのものだった。


「家の中に、何かいますね」


「刺激するなよ


「今、お祓いするのはきついですか」


 真弓の声が低く沈んだ。僕はかぶりを振って返す。


「万に一つ、ここが現実だったら困る」


「こんな時だってのに、よくそんなことに気が回りますね……」


「こんな時だからな」


 交差点に差し掛かって、僕は左右を確認した。右手に大きなガレージのある家、左手には鍼灸院が見えている。


「あれ?」


「どうかしましたか?」


「いや。この道、見覚えがあるぞ」


 振り返って、今まで歩いてきた道を確認する。そう思って見ると、確かに知っている道だ。歩道を歩いたのは初めてだけど、車に乗って通ったことが何度かある。


「と、すると――」


 この交差点を鍼灸院の方に曲がって、次の次の交差点で右に曲がる。それから、二つブロックをやり過ごすと、クリーム色の家が見えてくる。


「ちょっと! 家には入らないんじゃなかったんですか?」


「ここはいいんだよ。僕の家だ」


「先輩の……」


 真弓は顔をしかめた。


「こんがらがってきました。ってことは、やっぱり現実なんですか?」


「いや、違うだろう。さっきの神社や部室と同じで、ただのまやかしだ」


 確証はなかった。ざっと見た感じ、家はまるきり僕の記憶と同じだ。外壁の小汚いところまで、完璧に。しかし、しかし――。


「とりあえず、寺のほうに行こう」


 家の裏に回って、木の塀に後から開けた通用口の鍵を外す。現実と同じに立て付けの悪い扉を無理やり押し込んで、僕らは含福寺の敷地に足を踏み入れた。


「ここが、先輩のお寺ですか」


 真弓は落ち着かなさそうに胸の辺りをさすった。


「お前も感じるか」


「先輩も調子、悪いんですか?」


「身体の内側が突っ張ってる。ちゃんと帰り道を辿れてるんだろう。ここが現世と同じなら、本堂の中には僕らの身体が置いてあるはずだ……」


「そうなんですか?」


「そういえば真弓は寝てたな、ずっと。鬼界開きはここでやったんだよ」


 表にはチェロキーが停めてあった。僕らが真弓を運び込むのに、いい加減に駐車したときのままだ。断続的な本尊砲の閃きが消えているのだけが、あの時と違っている。


「それにしては妙というか……このお寺、いつもこんな感じなんですか? 人の家にあんまりこんなこと言いたくないんですけど、その」


「いや、僕も感じる」


 どうにも、静か過ぎる。耳の奥がキンキンいっていた。


「さっきの話だと、私たちは帰り道を選んでるはずなんですよね。これも現世に近づいてるって事なんでしょうか」


 真弓の視線が不安げに彷徨った。言いたいことはわからないでもない。僕も、現世に帰れば、それなりに嫌なことや、悩みの種が待っている。


 しかし、この感覚はそれが具現化したものとは違う。この圧力はテスト前に感じるそれよりは、怪異と対峙した時に感じるものに近い。


 僕は首筋に浮かんだ痛い汗を拭った。


「千方を祓い損ねて、ここまで追ってきたのかな」


「二人とも気づかないこと、あります?」


「わからん」


 正式に含福寺の祓魔師として登録されてから、神宮で探知についてもざっとした研修を受けたけれど、自分にはその方面に才能がないことを再確認しただけだった。僕が気づかなくて真弓が気づかなかったとなれば、よっぽど上手く隠れていたのか、それとも先回りされていたのか?


 僕は本堂の扉に手をかけた。真弓が泣きそうな顔になる。


「そこ、どうしても開けるんですか?」


「どの道、本堂を確かめないことには話にならん」


 本堂に近づくごとに、身体の内側を引っ張られるような感覚は強くなる。これは周囲から感じるプレッシャーとは違って、それほど不快なものではなかった。少なくとも進む方向については、正しいものを選んでいるという確信がある。


「いくぞ――」


 息を吸って吐きかけた時、内側から扉が引き開けられた。


「せんぱッ」


 ものすごい力と速さだった。開いた本堂の闇から突き出した腕に、反応する間もなかった。僕は顔を両側から掴まれて、光に照らされて尚晴れない無限の暗黒と、一人向かい合う。


 かつっ。


 僕を捕まえた掌が、強く顔を握り締める。若い女の親指が眼鏡にぶつかって、軽い音を立てた。みしみしと軋みを上げて、眼鏡のフレームが歪んでいく。


「――あ」


 ああ。


 ――ごめんね。ごめんね――。


 その瞬間、泣き崩れる母の姿を幻視した。いや、違う。ただの記憶だ、これは。六歳になったころの僕と、イドに消える前の母さん。


 ――何をしている――!


 幻なのは、怒り狂って飛び込んで来た父のほうだ。この時僕は、父の姿を見ていない。


 見ているわけがないんだ。その時にはもう、僕の目は潰されていたんだから。


 ――透から離れろ! 定四郎、すぐに救急車を呼べ――。


 震える手を引っ張り上げて、眼鏡を触った。ゆっくりと、しかし全ての忘れていた記憶が戻りつつあった。


 そうだ、小学校に上がる前、僕は眼鏡をしていなかったはずだ。僕は母について色んな怪異の祓い方と力の使い方を習って、いつか一緒に祓魔の仕事に就くことを夢見ていた。


 僕らにしか視えない湧き水を汲んだことがある。病院に佇む黒い影に触れぬよう諭されたことがある。それに、鬼を視たことがある。


 それなりに整備された登山道の脇は、一歩踏み外せばそのまま滑り落ちていくしかない、なだらかな斜面が広がっていて、その一番底に、鬼がいた。鬼は子どもみたいな無邪気さで狐を追いかけていたのを、覚えている。あれも、Kヶ峰だった。


 そうだ。僕は昔、真弓と同じくらいには物が視えていた。


 ――透、こっちへ来なさい――。


 母さんに呼ばれるまま、僕は台所についていった。その時にはもう、母さんは泣いていて、僕がどうにかしなくちゃ、と思った。


「あなたは優しすぎるの。顔さえ見えなければ、きっとなんだって祓えるわ」


 そうして、僕の顔を捕まえた。僕は「母さん」とかなんとか、言ったんだったか、言わなかったんだったか。それはもう、本当に覚えていなかった。


 直後、僕はものすごい痛みに襲われたから。その五分後には、救急車の中にいた。


 退院したとき、僕は視力を補うために眼鏡をかけて、何が起こったのか、全部忘れてしまっていた。含福寺からは母さんが消えて、僕は祓魔の仕事に関わらせてもらえなくなった――。


 眼鏡がぎしぎし音を立てた。やめてよ、母さん。もう幽霊なんかに情けをかけたりしない。だから、だから。


「もう、やめて」


 そう言ったのは、僕の声じゃなかった。


「やめてください」


 真弓千聡がそこにいた。虚空から突き出た腕を捕まえている生身の腕が、がたがた震えている。


「やめて、ください」


 次の声は、蚊が鳴くような小ささだったけれど、逃げ出そうとはしていなかった。


「先輩を放して」


 現れたときと同じくらい突然に、腕の力が緩んだ。ずるり、と真弓の手を振りほどいて、腕は暗闇に消える。僕らは腰を抜かすようにして後ずさり、へたりこんだ。


 暗闇の中に、白い人間の顔だけが、ぬるりと浮かび上がって――消えた。それを最後にして、“それ”は闇の中に引っ込んで、本堂の中に広がっていた暗黒は消失した。


 僕らはプレッシャーから解放されても、まだしばらくへたりこんでいたけれど、やがて立ち上がった。


「今、今のって」


 一瞬迷って、結局僕は答えた。


「母だ」


「は、え?」


「また、助けられちゃったな」


 僕は息をついて、立ち上がった。女の顔は奥に向かって引っ込んだけれど、本堂の中に隠れたわけではないらしい。相変わらず静かだったけれど、中には普通に夕焼けが差し込んでいた。


「入っても大丈夫、なんでしょうか」


「たぶんな。……待て、土足でいい」


 どかどか靴の音を立てて、僕らは本堂に入った。脇の小部屋の扉は、堅く閉じられている。


「ここですね」


 真弓の声は、確信に満ちていた。僕も、身体の内側の感覚が強まっている。


「ああ」


 一気に扉を引き開ける。


「あ」


 眠っている僕らの姿があった、と思った瞬間、後頭部を殴られたような衝撃が走る。視界が真っ黒に染まった。




「――お、起きたか」


「げ」


 起き抜けに兄貴のアップかよ、と憎まれ口を叩こうとしたのに、声が出なかった。何度か咳き込んで、身を起こす。


「何か飲むか」


「みず」


 隣でもぞもぞと何かが動いて、「ううん」と唸った。次いで真弓は薄目を開けて、がばっと起き上がる。僕は兄貴から水のコップを受け取って、思い切り煽った。


「あれっ!? 今何時です!?」


「寝坊じゃない」


「あ、先輩!? じゃあ、あれは夢じゃなかったんですね?」


「これも夢じゃなきゃな。とりあえず、現世に戻ってきたみたいだ」


 その証拠に、さっきまで感じていた万能感は失せている。無限にすら感じられた霊力の泉は、再び肉体の奥底で眠りについていた。


「真弓もなんか飲む? 水とお茶くらいしかないけど」


 立ち上がってみる。まだ頭は重い感じがしたけれど、身体のほうはごろごろしていたせいか、思ったほどの疲労感はなかった。


「水でいいです」


「兄貴、水もう一つ」


「そこまで元気なら自分でやれ」


 本堂のほうからそう言われて、僕はため息をつく。


「ちょっと待ってろ」


「そこまでしないでいいですよ。水くらい……」


 真弓はそう言ったけれど、僕は席を立った。本堂には兄貴が残っているだけで、父はいなかった。もちろん、本尊砲も静かになっている。


「親父は?」


「疲れ果てて寝てる。つぐみは神宮からの増援を迎えに行って、俺は霊脈の精査中。現場には神宮の奴らが行ってるな」


 言ってるうちにも電話が鳴って、兄貴はそっちに釘付けになった。僕は鬼界で入った本堂の扉を開けて、外に出た。


 空はすっかり晴れて、寺の門から見下ろせる街からは、靄は完全に消えていた。身体に纏いつくような重さもない。耳を澄ますと、あちこちで車が走ったり、掃除機をかけたりする尋常の生活音が聞こえてきているのがわかった。すっかり、状況は収束したらしい。


 家の鍵を開けて、台所で水を汲む。ふと思いついて、時計を見た。すでにお昼を回って、午後の授業が始まっている時間だ。


 新しいコップを片手に本堂に戻って、大きな古地図にピンを立てている兄貴に声をかける。


「兄貴、学校に電話した?」


「してない。休むんなら、お前、しとけ」


「あいよ」


「この時間なら、まだ授業だろ」


「今日は行く気にならねえよ」


「じゃ、お前、あの子送ってってやれ」


「ん」




 真弓は「いいですよ」って言ったけど、結局僕が送っていくことになった。何しろ、今日はサボりだ。家にいたって仕方がない。


「ここです」


 真弓のお母さんは、僕を見て眉をひそめたけど、輪袈裟をはめて「含福寺の藤堂です」って名乗ると「寺生まれの言うことなら仕方ないか」って顔をして、一応は引っ込んでくれた。


「じゃあ、また」


 玄関の扉を閉める直前に、真弓はちょっと振り返った。


「ああ、また。学校で」


 真弓千聡は手を振って、扉を閉めた。僕は道に戻って、輪袈裟を丸めて、ポケットにしまった。


 駅に向かって歩きながら、次は病院だっけ? なんて考え始めている自分がいて、僕は少し笑って……ようやく違和感を覚えた。どうにも視界が悪い。眼鏡をかけたまま眠っていたせいか、レンズが汚れてしまったらしい。


 愉快な気持ちのまま、眼鏡を外す。瞬間、思わず表情が強張った。


 眼鏡のレンズには、左右に一つずつ、べたりと指紋が残っていた。母が僕を捕まえたときについたものに、相違いなかった。

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