其之八 迫撃! 怪奇探索部!
二人だけになった部室の景色は、いつも通りに戻っただけのはずなのに、がらんとして見えた。
「……陰陽師をここに閉じ込めたって?」
僕は強いて声を絞り出した。
「そう言ってましたね」
真弓は「外があるのかな」と言って、止める間もなく部室の扉を開けた。真弓の肩越しに、見慣れた廊下の景色が広がる。窓には部室から見えるのと同じ、橙色の光が差し込んでいる。
「いつもの学校……みたいですけど」
「“外”があって良かったな。そろそろ“待て”を覚えてもいいんじゃないか」
「犬じゃないですよ!」
僕は真弓に倣って、扉から顔を出した。真弓の目で視ていつもの学校と言うなら、それを疑う余地はあまりない。
「待て」
「だからあ!」
振り向きかけた真弓も、僕が見ているのと同じものを捉えたらしい。一拍置いて目を合わせた時には、苛立ちよりも訝しさが表情に表れていた。
「先輩、廊下が、その――」
「わかる」
見覚えがあった。イドの世界に足を踏み入れた直後、僕の身体がそうなったのと同じように、廊下の壁が黒い粒子になって虚空に溶け出している。
僕らは同時に後じさって引っ込むと、部室の扉を閉めた。
「思ったより時間がないみたいですね。十五分って言ってましたけど――」
真弓が腕時計を確かめた。さっきからもう、二、三分は経っている。
「打って出ますか? 部室棟がどこまで再現されているかはわかりませんけど、本丸はすぐ近くなんですよね。ふじわらの」
「ちかた」
「ええ、藤原千方。今なら――やれます?」
僕は掌を見つめて、少し考えてから、正直に答えた。
「わからん」
「なんでですか? さっきはぶちのめしてたじゃないですか」
「問題なのはそこだ」
さっき陰陽師に放った除霊ビーム、あれは絶対必殺の出力だったはずだ。霊体を吹き散らかした手応えが、確かにあった。
「僕は、っていうか含福寺は、間違いなく何度かあいつを追い詰めたはずだ。兄貴とつぐみで一度ずつ。それから僕だ。訓練された寺生まれと、天叢雲の一撃だぞ。常識で考えれば今頃、藤原千方は原形を留めてるわけがないんだ」
「でも、あいつはぴんしゃんしてますよ」
「だから、問題なんだ。倒されるたび、復活してる……何か手を考えないと、僕らは負ける」
焦りがしこりになって、腹の底を冷やかした。
「先輩……」
「今考えてる」
僕が祓魔師として受けた教育は、母さんに師事した遥かな数年間がほとんど全てだ。何か逆転の一手があるとすれば、そこから引っ張り出してくるしかない。現にこれまでだって、僕はそうやって助かってきたんだから――。
「先輩!」
ぱっと顔を上げた。
「なんだよ!」
「こういう時は、まず落ち着くことですよ! ちょっと座って、深呼吸してください」
背もたれのない椅子をがたんと引いて、真弓が笑顔を作った。
「ああ……」
怒鳴り返しかねなかった僕は、それで少し冷静さを取り戻した。僕一人だけならともかく、ここには真弓がいる。あまりみっともないところばかり晒しているわけにはいかなかった。
僕はちょっと息を吸った。
「藤原千方っていうのは」
僕が言い終わるのを待たずに、真弓が話し始めた。
「――太平記の第十六巻、『日本朝敵事』に出てくる陰陽師です。朝廷に反旗を翻した豪族の一人で、四種の鬼を従えていたとか。鬼の内訳は」
「金鬼、水鬼、火鬼……と」
後一つは、戦った覚えがない。
「彰さんの話を総合するに、もう一鬼は隠形鬼ですね」
「おんぎょうき?」
「ええ。四鬼には色々バリエーションがあって、他にも風鬼や土鬼なんかがいるんですが、その内の一鬼ですね。形を隠す鬼と書いて隠形鬼。名前の通り、身を隠して奇襲をかけるのが能力です」
「地味だな」
「ですから最近の研究では、四鬼は千方の擁した特殊部隊が表現されたものだと言われてます。伊賀忍者のはしり……と言っていいのかは、わかりませんけど」
「へえー」
「今回の四鬼は、結構レアなんですよね! 太平記に出てくる四鬼は、金鬼、水鬼、風鬼、隠形鬼で、坂上田村麻呂が戦ったのは風鬼、水鬼、火鬼、隠形鬼なので。金鬼、水鬼、火鬼が並んでいるっていうのは、聞いたことないですね」
「坂上田村麻呂っていうと……」
「征夷大将軍で有名ですね。後々有名無実化するんで忘れがちですけど、征夷大将軍の役目は読んで字のごとく夷荻の征伐ですから。この時代のこういう伝承には、しばしば顔を出すんですよ」
「その時は、どうやって倒したんだ?」
「えーとですね」
それまで、立て板に水でまくし立てていた真弓が言いよどんだ。
「鬼の倒し方は、色々あるんです。太平記によれば、討伐に派遣された紀朝雄は、和歌を詠んで四鬼を退散させたそうです」
「和歌」
「“草も木もわが大君の國なればいづくか鬼のすみかなるべき”と。草木の一本一本に至るまで、全ては我が大君のものなのだから、この世界のどこにも鬼の居場所などない、という……結果的には大和朝廷が政権を握ったとは言え、大概高慢ちきですよね」
「それで、藤原千方は?」
「鬼が退散した後、普通に倒されてます。話のクライマックスは四鬼を倒すシーンなので、具体的な描写すらないです。時代を考えるに、刀か槍か、弓で仕留められたんでしょう」
「ええー……」
「ちなみに、坂上田村麻呂の時はもっとひどいです。奥州達谷窟の岩屋――これは岩手県ですけど――で、先祖である藤原千方の無念を晴らそうと、四鬼を加えた悪路王と大武丸が謀を巡らせていてですね」
「藤原千方死んでるじゃないか!」
「そうなんですよ」
あっけからんと真弓は言い放って、僕は机に突っ伏した。なんてこった、それなりの時間を使ったのに、なんら有益な情報が得られていない。
「あとは熊野に――」
「いや、もういい。分析が必要なのは、目の前の敵だ! 僕らの相手は、どの伝承の千方とも違うみたいだし。第一、四鬼と言う割に、姿を見せたのは水と火と金だけだ」
「順当に考えて、残りの一鬼は隠形鬼ですが」
「戦いで使うなら、一番使い勝手が良さそうなんだけどな。そもそも前提が違うのか……あの陰陽師は藤原千方じゃない、とか」
「そこまで疑うとしたら、もう対策の立てようがないですよ。式神を使う陰陽師ってだけじゃあ、範囲が広すぎます。大体、あの人は自分で千方を名乗って――」
不意に、真弓が止まって、顎の下に拳を持っていった。
「何か思いついたか」
「いえ。彰さんも、冬柴彰を名乗ってましたよね。名前を変えて、水鬼としての性質を変質させたって」
僕の中にも、電撃的に閃くものがあった。藤原千方の言葉。
――この俺ですら、形を保つためにくだらぬ化生に身を落とさねばならん――。
「先輩」
真弓千聡と、目があった。
「同じことを考えてますか?」
「たぶんな」
小さな地震がきたときみたいに、空間が揺れた。すぱん、と部室の引き戸が吹き飛んで、狭い部屋の中に冷たい風が吹き込む。僕は椅子を蹴っ飛ばして、立ち上がった。
「先輩、藤原千方は――」
部室の外の景色は、すっかり失せてしまっている。扉のこちら側には、大風こそ吹いているけれどまだ夕日が差し込んでいるのに、扉の向こう側にはどろりとした暗闇と、薄明かりに照らされた細い通路しか存在していなかった。
ごとり、と足音を立てて白い服の男が通路の向こうに現れる。
「鬼か」
長い通路を隔てているはずなのに、男の目が見開かれるのがわかった。腹芸が下手なのか……いや、あれは暴かれたくなかった秘密を暴かれた人間の表情だ。いずれにせよ、僕たちの推測は、それなりに的を射たものだったに違いない。
「なら、やりようはある」
僕は懐に手を突っ込んで、真弓を振り返った。
「ここで待ってろ。軽く捻ってきてやる」
「何言ってんですか」
写真部期待の一年生は、棚から愛用のカメラを掴み取ったところだった。マゼンタのブラックバード。レンズが二つ、縦に並んで、明暦の炎に炙られた外装は少し溶けている。
阿用郷で切れたのを補修したストラップで首から提げて、準備完了とばかりに真弓は腰に手を当てた。
「行きますよ! 使える写真を撮って帰らなくっちゃ!」
「この状況だぜ」
「転んでもただでは起きないのが私ですよ」
は、と短く笑って、僕は扉の枠に手をかけた。どの道、この部室は長持ちしそうにない。
「近づきすぎるなよ」
「離れすぎないようにしますね」
僕らは一瞬顔を見合わせて、同時に足を踏み出した。振り返った真弓が、暗闇の中に浮かんでいる部室の扉に向けてシャッターを切ったのが聞こえた。
僕は振り向かなかった。背後の部室がぐずりと崩れる気配を感じた。真弓がちゃんと付いてきている気配を感じた。懐から巾着袋を取り出して、真弓に押し付ける。
「持っとけ」
「なんですか、これ」
「保険だ。いざって時はこれを投げつけてやれ」
真弓はまだ何か聞きたそうだったけれど、すでに藤原千方との距離は、戦いのためのそれに詰まってきていた。
「調子が悪そうだな」
男の表情が慣れないマラソン中のインドア学生みたいに歪んでいる。彼を守るように、巨大な、しかしおぼろげな影が立ち上がった。見覚えがある。三ヶ月前、初めて祓った相手だ。
「いまならわかるぞ。阿用郷の鬼は、お前――“鬼”に呼ばれてきたんだ」
「左様」
陰陽師は苦しげに笑った。
「嘲笑うがいい、寺生まれ。式神にしがみ付いてまで存続しようとした見苦しい男の残滓、それが俺よ。鬼界で力を蓄えるどころか鬼界の圧力に存在を歪め、姿を隠すことも京への怨念で塗りつぶした。そうして、今日まで永らえてきたのだ」
阿用郷の人喰い鬼が、腕を振りかぶった。激突の瞬間、防御膜がびりっと震えたけれど、それだけだった。
「最早見逃せとは言うまい。ただ、お前はここで終われ」
暗くてだだっ広いだけの空間に、殺意が満ちた。陰陽師の姿をした男が、静かに印を結ぶ。次の瞬間、人型の紙がありったけの呪いをこめられて、殺到した。
「!」
暗闇から殺到した人型の紙を、一つ残らず撃ち落す。使ったのは防御膜ではなく、無数に分割して放った除霊ビームだ。簡易の式神とは言え、継続して触れるのはまずいと、寺生まれの勘が告げている。
「先輩!」
「大丈夫だ」
ごぼん、と音を立てて式神が溶けた。全身に特有の圧迫感と浮遊感が来て、僕らは口から大きな気泡を吐いた。
(破ぁー!)
ぱん! 乾いた音と共に虚空の水面が消失して、僕らは再び尋常の空気と重力に従う。崩れ落ちる水の壁の向こうで、鬼の顔が恐怖の形を取った。
「まずい、寄れ!」
返事を待たず、真弓を背中に押し込む。空中に待機していた式神が一斉に燃え上がり、あたり一面が真っ赤に照らし出された。だけど――。
「破ぁーーーーー!」
今の僕には、なんてことなかった。
炎の中を進む無数の土蜘蛛を、次々に撃ち落した。全身が目になったみたいに、何がどこからやってきているのかが感じられる。
「どうしたんだ、お前」
でも、この優勢は僕が急に強くなったせいじゃない。トモカズキにしろ梅乃の小袖にしろ、もっとやる気があったはずだ。
「おのれ」
陰陽師は、明らかに消耗していた。印を結ぶ動きにキレがない。地面に膝をついて、片で息をしている。
「おのれ……」
呟くようにそう言って、鬼は動かなくなった。短い沈黙が降りる。
「先輩……」
真弓が僕の袖を引いた。
「とどめを」
「ああ、うん」
あまり、気は進まなかった。顔を伏せた藤原千方の姿は、敵というよりは挫折者のそれで、僕の目には哀れに映った。
とどめの一撃のため、僕は一歩を踏み出す。陰陽師がぜえぜえと声を出した。
「なに?」
「聞け……藤堂、透」
僕は更に歩み寄った。藤原千方は、光のない目で僕を見つめている。
「最早……最早、見逃せとは……言うまい」
あ、と思った。言語化するには至らなかったけれど、何かまずいという予感だ。こいつはまだ――。
鬼の身体が、踊るように動いた。僕が折り飛ばして、更に短くなった刀が視界の端で一瞬光って、ひやりとした死を首の付け根に感じた。あられが降ったようなばらりとした音がして、最後に鬼は口を開いた。
「お前、だけは」
その声は、ほとんど息に近かった。僕の肩を掴んだ腕がぼそりと崩れて、藤原千方の身体が前にのめった。僕の首は繋がっていて、代わりに鬼の身体にはスイスチーズみたいな無数の穴が開いていた。
「先輩!」
「真弓、お前」
「油断しすぎですよ! 人の形をしても怪なんです、どんな悪意を持ってるか、知れたもんじゃないんですから! 実際、死ぬところだったじゃないですか!」
真弓は正しい。T高の屋上で刀の先を吹き飛ばしていなければ、一瞬早く僕の頚動脈はぶち切れていただろう。完全に黒い煤になった鬼の手元から、折れた刀が落ちた。その隣に、小さな豆が一つ、転がっている。僕が巾着袋に入れて、携帯していたものだ。
「投げろって言ったのは先輩でしょ。何が入ってるのかと思ったんですけど」
「いつだか行ってたじゃないか。鬼退治といえば豆だってさ……」
少しずつ、状況が飲み込めてきた。どうやら命を救われたらしい。
「ショットガンみたいな威力が出たな。お守りのつもりで持ってたんだが」
「福豆は、炒り豆を投げて鬼の芽を潰した鞍馬山の伝承が縁起ですからね。どんなに変質しても鬼と言うならこのくらいは効きますよ」
「なるほど……」
腹の底から息を吐き出して、僕はその場に崩れ落ちた。隠形鬼は、もう欠片も残っていない。辺りにはただ白っぽい通路と、無限の暗闇だけが広がっている。
「で?」
「で、とは?」
「これで帰れるんじゃないのか?」
「彰さんの話しぶりでは、そんな感じでしたけど」
真弓は辺りを見回して、肩をすくめた。
「そんな気配は、まるでありませんね。とりあえず、差し迫った危機はないみたいですけど」
それは僕も感じていた。だからこそ、じっとりした不安が拭えない。イドの世界に来てから見た風景は、どこも一応、現実のどこかに近い姿をしていた。
「あいつの最後っ屁で、閉じ込められたのと違うか」
「そうかも知れませんし、そうじゃないかも知れません。どの道、私たちには確かめようがないですよ」
真弓は僕の隣で、地面に胡坐をかいた。
「でも、私は全然心配してないんです。先輩と一緒ですから」
「……僕は不安だぜ。真弓がいるからかな」
「ちょっと、冷たくないですか?」
「そう思うなら、あんまり心配かけさせるなよな」
さて、とばかりに僕は立ち上がった。ここはどこより現実離れしているけれど、他の空間と違って崩壊する様子はない。
「どこかに行くんですか?」
「ぼんやりするには早いだろ。この通路がどこに続いているのかくらい、確かめておいてもいい」
「どこにも続いてないかも、知れませんよ」
「それも含めて、確認しといて損はないだろ」
そうですね、とうなずいて、真弓は立ち上がった。僕らは鬼と対峙した時より、いくらか緩やかな足取りで、イドの世界を歩き始めた。
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