其之七 痛撃! 怪奇探索部!

 イドの世界は、いつも夕焼けが差している。僕は冬柴彰の背中を見上げながら、住宅街をだらだら進む。僕が自分の名前を取り戻してから、逆に周囲の住宅街は存在をおぼつかなくしたようだった。


「なんだか不思議な感じね」


 しっかりした足取りで歩いていた冬柴彰が、かかとを支点にくるりと振り向いた。


「透くんと同じ地面を踏んで歩く日が来るなんて、思ってもみなかったな」


 僕はちょっと言葉を選んでから、口を開くことにする。正体不明の黒い煙を相手にするのと、まともな人の形をしている誰かを前にするのでは、まるで対応が変わってしまう。その本質が所詮、寺生まれの退治しなきゃならない死者の残滓なのだとしても。


「冬柴――さんは、いつも浮いてるから」


「そうそう」


 はるかな過去の“先輩”は、クラスメイトと一緒に下校する時みたいに屈託なく笑った。


「僕は――」


 話題はのんびりしていたけれど、僕らが足を止めることはなかった。


「また、幽霊と話すことがあるとは――だから、冬柴さんには、ぞんざいにしてて。もっと嫌われてるとばっかり」


「ああ」


 ため息をついて、冬柴さんは少し自嘲気味に鼻を鳴らした。


「いいのよ。今はもう。私も、周りの黒い奴らと同じなんだから」


「そんなこと」


「ここに来て……私の意志じゃないけどね。ここに来て思い出したんだ――っと!」


 咄嗟に、冬柴さんの手を取った。人間の体温と特有のやわらかさが手のひらに伝わる。一瞬後、コンクリートの地面がかき消えて、白い靄の渦に変わった。身体が空中に放り出されて、そわりとした浮遊感に包まれる。


「しまった!」


 冬柴さんがそう言うと同時に、ぽん、と鼓を打ったような音がして、世界が描き換わる。ととん、と二重の足音を立てて、僕らは階段の上に着地した。冬柴さんが上段に、僕が下段に。


「見つかった、かな」


「見つかるって、誰に?」


「あの陰陽師。透くんも、戦ったんでしょ? 千聡ちゃんがいれば、また鬼門を開ける。私たちと同じく、あの子を探し回ってるはずだから」


「あいつ、まだやる気があるのか」


 冬柴さんは首を巡らせて、辺りを見回した。さっきの住宅街と違って、殺風景な世界だ。目の前には、長い長い、石造りの上り階段。背後には、やはり長大な、石造りの下り階段。周囲は真っ暗で、遠くには街の明かりが点々と見えている。辺りの様子が分かるのは、ぼんやりと光を放つ灯篭が設置されているお陰だ。


「やる気があるかは……ここからは慎重に行かないと。戦いになるならともかく、千聡ちゃんを連れて逃げられたら」


「かなりまずいな、それは」

 僕は臨戦態勢を整える。深呼吸すると、いつもやるように、身体の内側に手を伸ばした。力の源泉を掴んで、鼓動のリズムに合わせるように引っ張り出す。


「わ」


 僕は思わず目を丸くして、冬柴さんは声を上げた。身体の内側から、今まで感じたことのないほど強い力が汲み上げられている。


「なんだ、これ」


「ここでは、肉体が霊能の行使を阻害しないから。生身の時に無駄遣いしてる分の力が、全部顕在化したみたいね」


「詳しいな」


 冬柴さんは「まあ、ちょっとね」と肩をすくめて、目を細めた。


「行きましょ。上から強い気配がする」


「あいつ?」


「わからない。人の形はしてるみたいだけど……さっき見た影がちょっと力を付けると、人の形を真似するようになるのよ。ここからじゃ、区別はつかないの」


 冬柴さんは、もう階段を上り始めていた。普段なら、絶対こんなところを上る気はしないけれど、今は全身に力が溢れている。千方が言ったように、ここでは霊力の多寡がそのまま霊体の力に反映されるらしかった。


「もし、上にいるのが人型の影だったら……」


「だったら?」


「関わり合いにならないように」


「仮にそうなっても、今の僕なら蹴散らせる。心配要らないよ」


「それでも、やめといたほうがいいわ。あいつら、仲間を呼ぶから。その内また、名前をなくしてしまうわ。取り込まれるまで、間はないわ。そしたら影仲間を増やしたい気持ちだけで存在するようになるわよ」


    ◆


 お祭は最高潮を迎えていた。夕闇の神社に無数の出店が並んで、それぞれに滲んだような灯りを点している。ソースの焼けるいい匂いが方々から漂って、周りを歩く人達は皆、自分が心地よいと感じる速度で歩いていた。


 お腹空いた。


 結局チョコがあるのを確認して、それきり何も食べてない。買い食い……行儀はあまり良くないけど、背に腹は変えられないってこういうときにも使える言葉なんじゃない?


「お嬢ちゃん、一つどうだい!」


 テキ屋のおじさんが、威勢よく言って、思わず私は足を止めた。突き出たひさしの下に、りんご飴が並んで、きらきら光っている。


「それじゃあ、一つ……」


 ポケットから小銭入れを取り出した。りんご飴なんて、特別美味しいものじゃないってことは、私だって良く知ってる。それでも手を出してしまうのは、お祭りがまだ、抗い難いきらめきを宿しているからだ。


「あ」


 小銭入れの中で、五円玉と一円玉ばかりが、悲しげに音をたてた。そういえば、あまり現金は持ち歩いてないんだった。通学するだけなら、定期があれば事足りるから。


 私は若干気まずい形に歪んだ顔を上げて、テキ屋のおじさんに謝った。


「すいません、やっぱいいです。お金が足りなくて」


「御代はいいから、お食べ」


 おじさんの声は柔らかかったけれど、私は首を振った。謂れもないのに施されるのは、好きじゃなかった。お祭の売り物は、お祭価格で提供される。無駄遣いできるお金は、一銭もなかった。


 代わりに、銀紙に包んだチョコレートを、今度こそ齧った。


「まず……」


 解けかけていたチョコの欠片は、冷えて固まったせいで変な味がした。


「だが、それが本物よ」


 振り返った。


 本殿の前、きちんと閉じられた引き戸の前に、一人の男が座り込んでいた。教科書でみた狩衣を身につけて、戦国時代よりもいくらか時代の古い、明るい色の鎧を身につけていた。


 人だと思っていた周囲の何かが、ゆらゆら揺れるだけの黒い影に変わる。男は酷く疲れた様子で、腰を上げた。


「つまらんだろう」


「まあ、時には」


 おかしいな、と頭では思ったけど、危機感はなかった。目の前の男の人は、知り合いに似ている。ずっと気配は弱かったけれど、この人は何か、不思議な力を持っている。私はそう言う人を何人も知っているみたいだった……。


「思い出しかけているな。大した力もないくせに、信じ難いことよ」


 男の人は首を振って、さっと印を結んだ。すとんと身体から力が抜けて、「眠っておれ」という声を遠くに聞いた。私――私は――私の意識は、途切れた。


    ◆


「随分、色んなことを知ってるんだな」


 階段の横に広がる闇を隔てて、古風な街並みが広がっている。その中を人型の影が行き来しているのが、ここからでも見えた。あれが冬柴さんの言っていた、“人の真似をする影”なのかも知れない。


「思い出したんだよ。私も昔は、ここにいたの」


「ここに?」


「あいつに名前を貰って、私は冬柴彰になったのよ。それより前は、あそこの影と同じだったわ」


「それって――」


「左様」


 聞き返しかけたとき、耳元で男の声が聞こえた。直後、胸倉をつかまれる感じがあって身体が宙に浮かぶ。あ、と冬柴さんが声を上げたのが聞こえた。


 ごう!


 ものすごい風が吹いて、足元の階段が一時に流れ去った。見えない腕を振り払って再び着地したとき、僕らは見覚えのない神社の境内に連れて来られていた。


「まさか鬼界まで追ってくるとはな」


 藤原千方が、本殿のすぐ下、賽銭箱の前に腰を下ろしていた。その足元の石畳に、真弓千聡がぐったりと寝転んでいる。


「どうあれ鬼門を開いたのだぞ。現世の混乱はこの短時間に収まるものではあるまい。お前ほどの術者を遊ばせておく余裕は、ないと思ったのだがな」


 僕は黙って、除霊ビームを放った。冬柴さんを捕まえていた見えない腕が弾けて、世代違いのT高生は地面に崩れ落ちる。彼女が咳き込むのを聞きながら、僕は陰陽師を睨め付けた。


「お前が思っているより含福寺の層は厚い。僕がいなくても、なんともないさ」


 藤原千方は肩をすくめた。


「まあ、そう思いたいなら好きにすれば良いがな。私の見立てではそこまで甘くはないぞ。私とやりあった時、お前の家族は相当の消耗を強いられたはずだ。妹はともかく兄の方な、あれの術は媒介を消費する類であろう。霊力はともかく、形代の補充には時間がかかろうな」


「仮にそうだとして――」


 僕は纏った霊力の渦から、こぶし大の塊を次々切り離した。本尊の後光よろしく、背後で大きな輪を描くように巡回させる。周囲の空気がビリビリ震え出した。


「何も問題はない。お前を倒してさっさと帰る」


「よせよせ――よさんか!」


 殺到させた除霊ビームの連打は、しかし一つもそれらしい手応えを返してこなかった。代わりに神社の本堂がめちゃくちゃになって、たちまち廃墟が出来あがる。逸らされた除霊ビームが、物理的な破壊をもたらしたらしい。


「おい、もっと慎重に行動せよ! ここでは全てが霊子によって構成されておるのだぞ。お前の力は刀や鉄砲の代わりに振り回すには強大すぎる。見ろ、私が守ってやらねば依代の娘も粉みじんであった!」


「……次はこの程度では済まさない」


 僕は冬柴さんに下がっているよう示すと、再び除霊ビームの巡回を開始した。


「待て待て、待て! 藤堂透、良く聞けよ。お前の望みはこの娘であろうが。私は何としてもこの娘を返すつもりはない。即刻立ち去り、全てを忘れて祓魔の本分を果たせ。良いか、お前の才を断つには惜しいと言ったは本心よ。お前が諦めさえすれば、全て丸く収まる」


「これが祓魔の本分だ。ぶちのめされたくないなら、真弓をこっちに渡せ!」


「馬鹿を申すな」


 藤原千方はつま先で肩を突いて、真弓をひっくり返した。


「私が何故、これを鬼門の依代に選んだか分かるか。強い霊能だけが理由ではないぞ。こやつは本質的に、秩序に反する心の形をしておるのだ。まつろわぬ心を持っておる」


「だからどうした」


「どうしたもこうしたも、それ故この娘は鬼門を開いたのよ。鬼門を封じ、制御せんとする力の反対側に、我等は属しておるのだ。お前が祓魔に圧倒的な才を持つように、この娘には鬼界のものどもを惹き付ける才を持ち合わせておる」


 除霊ビームのチャージを進める僕を前に、ごくごく落ち着いた調子で陰陽師は続けた。


「才には自ずから輝く場所と言うものがある。お前は祓魔、娘は鬼門開き。本当にこやつを思うなら、ここで見逃してやらんか」


「お前……」


「馬鹿なの?」


 冬柴さんが僕の台詞を引き取った。


「よくまあそこまで手前勝手な理屈を並べられたものね。千聡ちゃんの気持ちが、一つも考えられてないじゃないの」


「なんだ、その口の効き方は」


 藤原千方は、初めて不快そうに顔を歪めた。黄色い歯をむき出しにして、目が血走っている。整った顔のパーツがそれぞれに自己主張を強め、途端にバランスが崩れた。


「よもや、私に牙を向こうと言うのではあるまいな? お前に名前を与え、己を与え、姿を与えたのが誰だか、忘れたわけではなかろう」


「まあね」


「では命ずる。藤堂透を殺せ。もはや交渉は決裂した」


「嫌よ」


 ぱん、と小気味良い音が響いて、冬柴彰の頬が張られた。


「水鬼よ、私はお前の主人ぞ。藤堂透を殺すのだ」


 僕は背後の女子高生を一瞥した。僕の敵は、依然として目の前の陰陽師一人だった。


「私は水鬼じゃない。ましてや、名無しでもトモカズキでもないわ。知ってる? 私は今ね、真弓千聡に憑いてるのよ。千聡ちゃんは私のこと、彰さんって呼ぶわ」


「抜かせ。その名はお前のものではない。自我も記憶も器も、死者の借り物に過ぎん! お前は影より生まれた水鬼のまがい物よ」


「違う!」


「違わぬ」


「違うわ!」


 みしり、と世界が軋んだ。陰陽師は、平静を欠いている。冬柴彰に気を取られていた。今なら、真弓をさらって、逃げられるかも知れない。


「私の全てが借り物だと言うなら、あなたもそうよ。陰陽師藤原千方は、とっくの昔に死んでる。今のあなたは、都への憎悪が主人を名乗ってるだけじゃないの。私に指図するなんて、ちゃんちゃらおかしいわ」


「黙れ」


「黙らない。あんたが藤原千方なら、私だって冬柴彰よ。誰にも文句は言わせない!」


 世界の軋みは、巨大なうねりと揺れに代わりつつあった。僕は真弓を一瞥した。藤原千方は、傍目からも明らかに狼狽している。今なら――。


 薄目を開けた後輩と、目があった。


 真弓千聡は片目をぱちりと閉じて僕に目配せすると、また目を閉じた。僕が考えを巡らせるより先に、狼狽しきった陰陽師が吼えた。


「黙れ黙れ黙れ! 私は藤原千方、お前は水鬼だ! 私が使い、お前が使われる! それが正しき形、正しき姿だ!」


「違いますよ!」


 足元で叫んだ真弓に、ぎょっ、と男の目が見開かれた。寺生まれの目に、一瞬の隙がありありと映った。


「破ぁーーーーー!」


 背後をぐるぐる回っていた力の塊が、待ってましたとばかりに殺到した。それらは全て正確に藤原千方に命中し、それぞれにその霊体を削り取った。確かな手応えが吹き上げた土ぼこりの中を、真弓千聡が駆けて来る……。


「ちょ――」


 その両手が、がしりとシャツを捕まえた。


「ちょっと! 加減するとかないんですか!? 千方さんの話、聞いてましたよね! 今の私は除霊ビームがかすっただけでも、大惨事なんですよ!」


「や、死なないだろ……なんか……」


「なんかじゃないですってば!」


「わかったわかった。後で聞いてやるから、今はちょっと下がってろ。かすっただけでも大惨事なんだからな」


 真弓を背中に押し込んで、僕は砂埃の向こうを眺めた。じっとりした真弓の声が、背後から僕を詰る。


「仕留められてないですからね。私の身を危険に晒したくせに」


「うるさいぞ。もうちょっと危機感を――」


 がらり、と瓦礫が音を立てて、何者かが身じろぎしたのを、僕も感じた。


「どこに、そんな力が」


 ハアァ、と息をついて、藤原千方が姿を見せた。着物はあちこちが破れ、全身が煤にまみれている。がばり、と前髪をかきあげて、男は口を開いた。


「残っていたのだ」


 僕の後ろで、真弓が声を上げる。


「まつろわぬ心。あなたが言ったんじゃないですか。私は家にも学校にも気に食わないことがたくさんありますけど、あなたのことは格段に気に食わないですよ! 好き勝手なことばっかり言って。透先輩の才能に溺れて、そのまま退治されてください!」


 ふ、と冬柴さんが笑った。


「振られたみたいね。おんぎょうき」


 そう呼ばれた男は、俯いて肩を震わせた。空間の崩壊は、いや増して激しくなっている。


「違う」


「違わない。往生際が悪いわよ」


「違う! 私にはまだここがある。鬼界に存在の或る限り、機会はいくらでも巡ってくるわ! 私は、私は必ず、京に――!」


 陰陽師は腕を振り上げた。瞬間、空が破れて、百鬼夜行が押し寄せる。T高校の屋上で見たものとは比べ物にならない、本物の化生の群れが、どろりと迫った。真弓を取り戻して緩んだ気持ちが、ぐっと萎縮する。結界の展開が――。


「!」


 不意に、辺りが静かになった。足が木の床を踏みしめて、鼻が現像液のつんとしたにおいを嗅ぐ。見慣れた、T高写真部の部室だった。


「ここは」


 真弓が、恐る恐る僕の背中から離れて、大きな作業机に触れる。


「へへ、上手くいったね」


 まだ状況を掴めていない僕らの前で、冬柴彰は照れくさそうに頬をかいた。眉毛いっぱいに困惑を表しながら、真弓が顔を上げる。


「彰さん、これって」


「すごいでしょ。私がやったのよ! 慣れれば式神の力も、なんてことないわね」


 そう言った冬柴さんの身体は、燃え滓のように焦げて、崩れ始めていた。


「そうじゃなくて」


 冬柴彰は人差し指を真弓の前に突き出して、その話をさえぎった。


「手短に説明するから、良く聞いて。いい? 思ったよりも丈夫に出来たけど、ここは長持ちしないわ。二人の記憶を借りても、十五分くらいで崩壊すると思う。ううん、もっと早いかも――」


 かぶりを振って、藤原千方の式神は真弓が何か言おうとするのを妨げるように続けた。


「その間に、あいつを倒しなさい。無事に現世に帰ろうとするなら、それしかないわ。ここはあなた達の本拠地だから、外より有利に戦えるはずよ」


「彰さん!」


 真弓が声を上げた。ふ、と笑った冬柴彰の身体は、もう九割方、黒い煙になって崩れかかっていた。


「まあ、こんなとこね。質問があれば受け付けるわ。無茶したせいで、あんまり時間はないけど」


 真弓は冬柴さんに駆け寄ったけれど、もう、掴みかかれそうな部分はほとんど残っていなかった。やり場をなくした手をぱたりと落として、真弓は搾り出すような声を出した。


「こんな……何が式神の力ですか! し――死んじゃうじゃないですか! ばか!」


 冬柴さんはまた、ちょっと笑った。


「人間、二度は死ねないわ。大体、私は冬柴彰本人じゃないし……だから、そんなに泣かないで。まだ何にも、解決していないのよ」


 僕らの先輩は、朧に残った片手で、真弓の頭を撫でた。それから、僕を一瞥すると、


「後はお願いね」


 とだけ、言った。


 その後、あっさりと彼女は消えた。部室の中には僕ら二人と、それから、冬柴彰の黒い欠片が、まだ残っていた。

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