其之六 出撃! 怪奇探索部!
おなかすいたな、と思った。身体の真ん中に、穴が空いたみたいな虚脱感がある。それから、ここはどこだろう? って疑問が来た。
けっこう長いこと、眠っちゃっていたらしい。いつの間にか日はかなり西に傾いて、綺麗な夕焼けが差していた。
「あ」
ここ、知ってる。見上げた家の感じに見覚えがあった。アスファルトの道路から身を起こして、辺りを見回した。やっぱり。昔住んでた団地だ。ずっと前に引越して、それから一度も足を踏み入れなかった街……。
「確か、ここに――」
自販機があって。缶入りのプリンが売ってて、それはスーパーで見るものよりずっと美味しそうに見えていた。今ならプリンぐらい、いくつでも買える。
着たきりのセーラーワンピースの、一つしかないポケットに手を入れた。財布はかばんの中に置いてきてしまったけれど、小銭入れはいつでも入ってる。
かさり。
代わりに指に触れたのは、ぬるくなった銀紙だった。小銭入れと一緒に、チョコレートの包みが入っていた。
◆
「おい……おい!」
倒れた真弓を抱き起こしかけて、やめた。彼女に何が起こっているのか、僕にはわからないのだ。
「兄貴!」
兄貴は屋上に座り込んで、今度は本当に煙草をふかしながらお札をあちこちに飛ばしていた。
状況は、少なくともT高校の屋上については、収束しつつある。真弓の口から飛び出した雑怪はほとんど本尊砲に跡形もなく焼き消された。藤原千方が呼び出した金鬼は、かろうじてまだつぐみとチャンバラを続けていたけれど、その動きはままごとのように覚束なかった。完全に、つぐみに甚振られている。
「遊びすぎるなよ」
兄貴は妹にそう声をかけて、僕のほうに顔を向けた。
「どうした」
「真弓が目覚めないんだ」
「鬼門の依代に使われんだ、すぐには元気にならん」
「そりゃ、そうだろうけど」
兄貴は懐から、薄緑色のお札を取り出した。
「本尊砲を撃ち込んだんだぞ。薬師如来の加護はその子にも及んでいる。霊障は愚か、下手をすると昨日までより健康体になっているはずだ、が……」
僕をちらりと見て、兄貴はちょっと笑った。
「まあ、弟の頼みだ。診るだけ診てやろう」
兄貴は真弓を中心にして、タロットカードよろしくお札を並べた。チョークでお札同士を繋いで、いくつか記号を書き入れる。
「どれ……」
と言った声は弛緩していたけれど、次に「ふむ」と言った声は祓魔師のそれだった。それだけで、ありとあらゆる不吉な想像が頭の中を駆け巡る。
「まずいな」
「なにが」
「肉体と霊体の座標が一致しない。心が失せている」
「もっとわかりやすく言ってくれる?」
「このままだとこの子が目覚めることはない。植物人間ってやつだ。千方の野郎は鬼門を閉じて行ったのに……いや、閉じるときに引っかけて行ったのか。向こうがその気なら、もっと効率よく殺せたはずだからな……」
説明を始めた兄貴の台詞は、尻切れトンボに独り言になって消えた。
「ちょっと、どういうことだよ。どうすれば真弓は助かる?」
「この子の心はここにはない。鬼門を開いたときに、鬼界に弾き出されて、そのまま戻ってきてないんだろう。本来なら、依代でなくなった時のゆり戻しで身体に戻ってくるはずなんだが、鬼門は陰陽師がいち早く閉じてしまった」
「解決方法は」
「藤原千方の鬼門封じは、突貫工事でやった分、かなりいい加減だ。本人に戻ってくる気があれば、戻ってこれる」
「じゃあ、真弓には戻ってくる気がないって言うのか?」
「わからん。鬼界で霊体が迷子になってるのかも知れん」
兄貴は真弓の脈を静かに取った。僕はいらいらと頭を振って、真弓の周りをうろうろ歩く。
「何かないの? 何か手は」
「あるにはあるが……とにかく、ここでは無理だ。一度寺に戻ろう」
僕らの背後でつぐみが音を立てて金鬼の首を落とした。それを一瞥してポケットに手を突っ込むと、兄貴はお札の代わりにチェロキーの鍵を取り出した。
「車を出すぞ。鬼界開きが必要だ」
敷地内に突っ込むようにして止まったチェロキーを降りた途端、異様な雰囲気が僕らを出迎えた。本堂から発される断続的な閃光もそうだけれど、それ以上に、空気がささくれ立っている。
「手が空いてるなら、足を持って」
つぐみに言われるまま、真弓の足を捕まえて、僕は本堂に足を踏み入れた。
「あまり見るな。目をやられる」
兄貴がそう言ったきり、僕らは静かに部屋の中を横切って、ふすまで仕切られた小部屋に飛び込んだ。本尊の前で地図を広げて、父さんが一心不乱に経を読んでいる。邪魔するわけには行かなかった。
「降ろして。ゆっくり」
つぐみの指図を受けて、真弓を畳の上に寝かせた。捕まえていた足首が冷たい。
「状況は悪い」
ふすまを閉めた兄貴が、畳にお札を並べた。
「もっと余裕があると思ったんだが。身体の方がまず死にかけている」
「……なんとかできるんだろ? 鬼界開きってので」
兄貴はくちびるを口の内側に巻き込んだ。がしゃん、と音を立てたのは、つぐみが掴んだ神剣だ。
「じゃ、私は行くから」
「おい!」
振り向いた僕に、つぐみは肩をすくめた。
「私にできることはもうないし。今は手が足りないんだから……大兄ちゃんも、あんまりこの子にかまけすぎないようにね」
「お前、真弓の友達じゃなかったのか」
思わず噛み付いた。つぐみは鳩のような目でこちらを見返した。
「友達は友達。仕事は仕事だよ。素人みたいなこと言わないで」
すたん、とふすまが閉じてしまうと、小部屋の中には重苦しい沈黙が降りた。兄貴が黙々と手を動かすのを、僕は黙って眺める。
「兄」
き、まで言うより先に、当の兄貴が口を開いた。
「つぐみの言うことは正しい。俺達に採れる選択肢はあまりなく、その選択肢は危険極まりない」
「じゃあ」
「現実的には鬼界開きをやる他なかろう。この子を放っておくわけにもいかん」
兄貴は僕にお札を手渡した。いつから懐に入っていたのか、かなり古い。
「やる気があるならそいつを貼れ」
「これ、なに?」
「
「だが?」
「縁の深い者でなければ個人の意識を追うのは難しい。中でも生還できる見込みがあるとすれば、それなり以上に強力な術者だけだ。ここではお前が一番この子に近しい」
服にお札を留めるための待ち針を取り出して、兄貴は僕の瞳を覗き込んだ。
「今回、実際に動くのはお前だ。やるかやらないか、今お前が決めろ。言っておくが――」
「いいから」
兄貴の手から針を奪い取って、僕は札を服の胸に留めた。
「かなり危険だぞ。鬼界は母さんの言う、イドの世界だ。母さんは帰って来てない」
「……やばそうだったら引き返すけど。やれるだけ、やるよ。兄貴はつぐみと一緒に、街のほうに行ってくれていいから」
「抜かせ」
兄貴はぎこちなく笑った。それから僕を畳の上に座らせて、いくつか祝詞を唱えた。目を閉じているのに、額の辺りから光が入ってくるのがわかった。
「いくぞ。真実の縁があるなら、それが鬼界でもお前を導いてくれるはずだ――」
兄貴の力が、周囲に並べられたお札と、胸に貼り付けたお札を通じて僕に干渉した。
「い――か――イ――では――油断――」
不意に身体が軽くなって、兄貴の、そして周囲の気配が遠ざかって、遠くに消えていく。あぐらを組んでいたはずの足が、靴越しに固い地面を踏みしめたのを感じた。
「もういい?」
返事はない。
「兄貴?」
やっぱり、返事はなかった。僕はちょっと躊躇ってから、目を開く。毒々しい橙色の世界が、僕の視界を焼いた。
僕はもはや、含福寺の本堂に座ってはいなかった。屋内ですらない。周囲はブロック塀に囲まれた家の立ち並ぶ住宅街だ。それぞれの家からは、夕暮れ時を過ごす人々の生活音が、暖かく聞こえてきている。
ここが鬼界? 考えていたものとは随分違う。兄貴は間違えて、テレポートの術式を使ったんじゃないのか?
もし、ここが鬼界だと言うのなら――。僕はこうべを巡らせてから、遠慮がちに声を出した。
「……真弓?」
ざあっ、と数百の視線が僕に集まった。全ての音が止まり、息を殺す数百の気配が、突然濃厚に立ち上って、周囲の生活がまやかしだったことを知る。
こいつら。最初から、こちらを視ていたのか。
しかし、仕掛けてくる様子はなかった。ただ、遠巻きに僕を見つめているだけだ。僕はおっかなびっくり、でも今度は腹の底から、もう一度声を出した。
「真弓!」
まゆみ、まゆみ、まゆみ……気配たちに、漣のような残響が広がった。
「どこだ!」
どこだ、どこだ、どこだ……。
「破ぁーーー!」
振り向きざま、出し抜けに除霊ビームを放った。自分でも信じられない熱量と光が迸り、量産型の住宅が大爆発を起こす。おおお、と声を上げながら、黒い塊がいくつかまろび出る。
「なんだ……」
思わず顔に手をやった。眼鏡がない。完全に視えている。いや、それよりもこいつらは。
黒い塊はどろどろと煙を撒き散らしながら、逃げ込むようにして手近な家に駆け込む……というのが正しいのか、とにかく入っていく。
崩れた家の塀や、壁や、家具も同じだった。どろりと形を崩すと、のろのろと動いてあたりに散っていく。どうする。見たところ、大した相手ではなさそうだけれど、とにかく数が多い。
掌に熱が集まる。抜群に調子は良かった。その気になれば、こいつらなんて……。
「やめときなよ」
女の声が、僕を制止した。
「あいつらには何にも出来ないんだから。ああ見えて、かわいそうな連中なんだよ」
塀に寄りかかるようにして、背の高い女が立っていた。見覚えのあるブレザーを着て、長い髪を腰まで伸ばしている。
「誰だ、あんた。“かわいそうな連中”とは違うみたいだけど」
「覚えてないの? ひどいなあ」
女というより少女の彼女は唇を尖らせて、しばらく顔をしかめていたけれど、やがて、にわかに相好を崩した。
「まあ、私も覚えてないんだよね。きみと知り合いなのは、わかるんだけど……私が誰か、知らないかな」
「知らないな」
僕は後ずさった。心当たりもないのに親しげに話しかけてくるヤツには、用心したほうがいい。鬼界で会った相手なら、なおさらだった。
「じゃあ、きみは覚えてる? 自分が誰なのか、自信を持って言えるのかしら」
「覚えてるさ。お前に言うかは別だ」
即答して、足元の地面が崩れ始めたような不安を味わう。自分が誰か、なんてのはあまりに自明のことすぎて、わざわざ自問するような話じゃない。だから――。
「ほら、忘れてる」
「忘れてない」
「忘れてるよ。ほら、もっと頑張って思い出さなきゃ。名前を忘れたら、ここでは生きていけないよ」
背中を冷や汗が伝った。骨の奥がギシギシ言って、じわりとした焦燥感が身体の内から湧き上がる。構えたままの右手に除霊ビームをホールドしながら、僕は少女の顔を見つめた。
自分の名前が出てこない。
「あ」
代わりに出てきたのは、少女の名前だった。ぼんやり微笑んでいる表情に、見覚えがある。僕が見たのは確か、部屋に飾られていた遺影だ。
「あんた――冬柴彰か」
少女は大きな目を丸くした。それから、いくぶんくっきりした笑顔を見せた。
「思い出してくれたんだ」
やっぱりそうだった。僕の目には、黒い煙にしか見えていなかった、水泳部の幽霊。僕が探している女の子としか話せなかった、視えない友達。
「こうして話すのは初めてだね。ずっと、私からは見えてたんだけど」
「僕の目は、あの子みたいに良くないからな」
「千聡ちゃんのこと? やっぱり、探しに来たんだ」
夢見るような口調で、冬柴彰は続けた。
「だったら、もっとしっかりしなくちゃ。ここは、見かけほどのんびりした場所じゃないのよ」
ほら、と冬柴彰の示した僕の腕は、輪郭から少しずつ黒い煙を吹き出していた。
「この世界で名前を無くしたら、すぐにあいつらの仲間入りよ。自分で思い出せないなら、誰かに名前を思い出してもらわなくちゃならないし……だからきみが来てくれて、ほんとによかった」
僕の中に情報が降り積もり、ぼんやりしていた自己がはっきりする。
「名前」
「え?」
「教えてくれないかな。まだ少し、自信がないんだ」
ああ、とうなずいて、冬柴彰は斜めに僕を見下ろした。
「知ってるんだ、私。藤堂透くん、だよね」
驚きはなかった。やっぱりそうか、という深い納得感と、染み込むような安心感が足元まで伝って、僕は僕を取り戻す。
身体から吹き出す煙が止まった。めいっぱい空気を吸い込んで、肺の形を感じる。
「そうなんだ。僕は藤堂透で――ここには、真弓千聡を探しに来たんだよ」
いつ以来だろうか、祓魔師の出番を予感して、心が浮き立つのを感じた。
「じゃ、行こうか。千聡ちゃんも待ってるよ」
「そうだろうな」
やっぱり、あいつがいなくちゃ始まらなかった。確信を持った足取りで歩く冬柴彰に先導されて、僕はイドの世界に、初めて前向きな一歩を踏み出した。
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