其之五 藤原千方
T市は白くて深い霞の中に沈んだ。病んだ輝きを放つT高の屋上だけが、浮島のように晴れている。
「厭な感じだ」
番頭が帳面をぶら下げるみたいにお札の束を片手にして、兄貴は辺りを見回した。校舎の中に漂う空気は、外のものとはまるで違っている。「静か過ぎる」とつぐみがつぶやいたのが聞こえた。
息をするのが楽だった。身体に粘りつくような重さが消えている。さっき出てきたとき時のそれが嘘のように、陰の気は失せていた。
「厭な感じだ」
教室の中を見やって、兄貴はもう一度言った。空気は平常時に戻っていたけれど、それで学校が平常時に戻ったわけではなかった。どの教室にもびっしりと生徒が入っていたし、教師は芸人が投げ出した操り人形みたいに突っ立っている。
「待った」
屋上に上がりかけた二人を、僕は引き止めた。
「教員室に寄ろう。屋上の鍵を持ってこないと」
「いや」
藤堂定四郎はかぶりを振った。
「俺の推測が正しければ、鍵は必要ないはずだ」
つぐみが黙って鯉口を切った。俗の空気が神剣に断たれ、冷たく張り詰める。
「行くぞ。ここから先は――寺生まれの時間だ」
がちん、と屋上のドアノブが回った。兄貴の言った通り、鍵はかかっていなかった。
「ああ」
外気と一緒に、気の抜けたような、低い声が流れ込んだ。
「来たな、寺生まれ」
がらりとした屋上の真ん中に、少女が立っていた。僕の知っている姿をしていたけれど、それは狛田史ではなかった。僕らの追ってきた少女は、首根っこを捕まれるようにして、真弓千聡がぶら提げている。
兄貴は動じなかった。つぐみは僕をちらりと見ただけで、あとは黙って刀を抜いた。
だから、あからさまに動揺したのは僕だけで――「なんでだ」って台詞を吐いて、思わず後ずさる。身体を覆っていた防護膜が、急に安定を失くしてふわふわしだしたのを感じた。
「うっふ」
真弓は今まで聞いたことないような含み笑いを爆発させて、それを顔に貼り付けたままこちらを見た。
「つまらないな。きちんと反応してくれたのは透君だけか」
真弓じゃない、と思うより先に、天空からものすごい光と音の塊が落ちてきた。
「いいぞ」
兄貴のばら撒いたお札が紙ふぶきよろしく周囲を旋回している。宙に突き上げた切っ先を下ろして、つぐみが苦々しく口を開いた。
「取り損ねた」
「なんてことするんだ! あれが万一……」
「黙れ」
抗議しかけた僕の頭に拳骨を落として、兄貴が低い声を出した。
「敵地だ。――どの道、心配は必要ない。困ったことに」
略式神罰の雷が下った屋上の土煙は、内側から吹き出した風がたちまち消し飛ばした。その中心で、真弓が――少なくとも、真弓千聡の顔をした誰かが、服のほこりを払っている。僕が口を開くより早く、「合わせろ」と兄貴のささやきが耳元で聞こえた。
「破ァー!」
兄貴が号令をかけた瞬間、辺りのお札が一斉に鎌首をもたげた。咄嗟に右手を振り上げる。
「破ぁー!」
お札攻撃の集束点に除霊ビームが弾け飛んで、大爆発を起こした。瞬間、「心配要らない」という言葉の意味が分かる。手応えがまるでなかった。
「取り損ねたか」
「でしょ」
否が応にも臨戦態勢を引き出される。全うな人間なら、お札と除霊ビームのダブルアタックを食らったところでなんということはない。一方、僕が今まで見てきた類の化生なら、原型すら残さないだろう。
「やれやれ」
だから、掌で僕らの攻撃を“防御”して、平然としているコイツは――どう控えめに見積もっても、規格外の人外ということになる。
「この子が舐められているのかな。どれ――」
真弓は狛田史を投げ捨てると、上を向いた。ぱかんと開いたその口に誰かの指がかかって、若い男が顔を出す。
つぐみが息を呑んだ。少女の小さな口からずるりと身体を引き抜いて、男は屋上に降り立った。歴史の資料集で見た平安時代の着物の上に、役に立つのかわからない装飾過多の甲冑を身につけている。懐から取り出して冠を被ると、男は僕の飛ばした除霊ビームを片手間に叩き落とした。
「よせよせ、もうよせ。陰月十四日は深まりきっている。諸君には万に一つも勝ち目はない」
「勝てるさ」
確信に満ちた声で、兄貴が答えた。
「お前みたいなのを退治するために俺たちが居るんだ。第一、お前の手足は既に捥がれてる」
そう話す祓魔師の上着から零れ落ちた札が、ふわふわ浮いているのが眼鏡越しに見えた。ヘタクソな毛筆で“津守つぐみ”と書かれているそれは、おそらくちゃんと視えるヤツには、つぐみの姿に見えているはずだ。
本物の姿は、消えている。
「ほお」
男の顔が面白そうに歪んだ。
「話してみろ、寺生まれ。捥がれた私の手足とは、なんのことだ?」
「四鬼だ。いつ如何なる場所にでも洪水を起こし敵を溺れさせる水鬼。同じく炎を起こし敵を焼き滅ぼす火鬼。あらゆる武器を跳ね返す金鬼。気配を断ち暗殺を為す隠形鬼。かつてこの地に根付いた豪族が使役した式神だ」
男は歯を見せた。
「続けてよいぞ」
「お前の力は小さい――少なくとも、かなり小さかったんだろう。だから、そこのガキ」
兄貴は、狛田史を指差した。
「どうして垂らし込んだか知らないが、そいつを使って式神を放った。それにしたって維持するだけで精一杯だ。水鬼はトモカズキと、火鬼は梅野の振袖と習合させて、ようやく形になった。半端モンを使ってくれたお陰で、弟は生きてるし――あんたの式神は弟に駆除された」
「ははん」
男は鼻を鳴らした。
「では、残りの二鬼は? 貴殿の説明には欠けているようだが」
「金鬼は間に合わなかった。だから、こいつ――」
兄貴は背中に手を回して、ベルトに挟んだ冊子を取り出した。色つきの用紙を表紙にしたそれは、この間製本したばかりの“け”だ。僕の部屋から持ってきたのか、それとも下駄箱近くの山から持ってきたのかは、わからないけれど。
「こいつとネットを使って、話だけこの学校に流したんだ。結界の中に噂があれば同じことだからな。隠形鬼のほうは……」
兄貴は肩をすくめた。
「まあ、温存したんだろう」
抜けたような兄貴の声に、男は笑い声を上げかけたのだろう。軽くのけぞって、息を漏らした。
「カッハ」
その瞬間、男の胸から白刃が生えた。垂直に切り上げられた刃が、男の頭を真っ二つに割った。傷口から黒い煙を吐いて、男はがらがらと声を上げた。
「斬れる……」
ものか、と二つにわかれた唇が動いた。黒い煙が逆回しに傷口に戻って、再生を始める。
「斬れるよ」
答えたのは男の背後で刀を掴んだままのつぐみだ。神宮の祓魔師が再び刀を振りかぶったのを、霧の向こうに僕は見た。
「地獄に帰れ、ふじわらのちかた」
再生した傷口が開いて、今度はどろりとした黒い煙が屋上にこぼれ出した。中身の詰まっていない身体が刀身からずるりと抜けて、名前を呼ばれた男はたたらを踏んだ。
「は」
ローファーの足で男を転がして、つぐみは息をついた。兄貴は懐から煙草の箱を出した。それから「しまった」と呟いて、僕を見た。
「禁煙してたんだった。お前、火持ってないか?」
「持ってるわけ、ないだろ」
そうか、と呟いて兄貴は煙草を咥えるだけ咥えた。
「まあ、名前を握られた陰陽師なんてそんなもんだ。……お前は今じゃ、名が売れすぎてるんだよ、ミスター藤原?」
ふじわらのちかた、とやらが次に上げた声は、もうごぼごぼとしていて、他の雑霊がたてるものと、なんら変わりが無かった。
僕には聞き取れなかったけれど、兄貴には聞こえたらしい。得意げにうなずいて、煙草を口から外した。
「はは。ここでコトを起こした時点で、どうあれお前を倒す算段は着いていた。プロの仕事とはそうしたものだ」
男は――もう人型にしか見えなくなった黒い影は、それでもうっそりと立ち上がって、何事か呟いた。呪詛の言葉が漏れたか、その背後に同じく黒い人型がゆらりと現れた。
「しまッ」
つぐみの声が聞こえるのと、がつん、と空中に火花が散るのが同時だった。影が形を崩しながら屋上を走り出すのに、兄貴がお札を抜くのがワンテンポ遅れた。
影が真弓を掴み上げる。まだぼんやりしている少女の口の前で、朧な影が印を結んだ。
真弓の口から黒い靄が漏れた。一瞬の後、彼女の取材対象に他ならなかった異形が、百鬼夜行の列と化して溢れ出た。除霊ビームが間に合わない。兄貴が一手に僕が一手で、寺生まれは合計二手、遅れを取った。
「破ぁーーー!」
化生の大波が僕の正面でV字に散った。退いていた陰気が屋上に流れ込み、全うな命を持つ者にまとわりついて、思わず膝をついた。
「とおる――」
兄貴の声が背後に流れた。化生にお札がぶつかって、あちこちで小爆発が起きた。つぐみの刀がたてる、金属同士のぶつかるような鋭い音が連続して聞こえてきた。それに混ざって、兄貴ががなるのも。
「分担だ! 一番近くにいる奴を祓い続けろ! 千方は――」
一際大きな爆発が起こって、兄貴の声は最後まで聞こえなかった。くそ、そこが一番大事なところだってのに!
僕は身体を引き起こして、辺りを見回した。辺りを飛び回っているのは小さな龍だか虫だか魚だか、空中を泳ぎまわる雑怪ばかりで、大物らしいのはいない。ただ、存在の重さはそこらの怪とは段違いだった。僕の目でも姿を捉えられるくらいに、現実に近い。
「破ぁー! 破ぁー! 破ぁー!」
ほとんど闇雲に除霊ビームを放った。どこに撃っても当たるけれど、到底一人や二人で捌ききれる数じゃない。雑霊の多くは僕らには目もくれず、霧の濃くなった街に流れ込んでいく。
「まずいな」
やっぱり、出所を叩かなければ。陰陽師はどこだ? 僕が一番近いはずなんだ、陰気に流されなかったから……。
「破ぁーーー! 破ぁーーー!」
屋上の形がわからなくなるほどに雑怪の数が増えている。およその見当だけつけて、怪の壁を祓い除けた。陰陽師を倒し、鬼門を閉じて真弓を救わなければ。それも可及的速やかに!
「破ぁーーーーー!」
何度目かに放った除霊ビームが、奇妙な手応えとともに消失したのを感じた。目の前にうずくまるようにして、時代錯誤の陰陽師がうずくまっているのが見えた。
「いた! いたぞ!」
くぐもった爆発音と、刃交ぜの音が聞こえた。二人とも、まだ戦っている。切り開いた怪の渦は、再び閉じつつあった。
「破ぁーーー!」
ままよ、と飛び込んだ。除霊ビームが効かないのは検証済みだけれど、まだ暴力は残されている。相手が甲冑を着けているところが問題といえば問題だけれど、今の僕に立ち止まる選択肢は無い。
「来るか、寺生まれ」
真弓を狙った除霊ビームを弾き飛ばして、陰陽師は短い刀を抜いた。意識の無い真弓は、まだ鬼界の瘴気を吐き出していた。
「これが気になるか、藤堂透」
含み笑いをして、陰陽師は空中に五芒星を書いた。星の中心からぶわ、と吹き出した人型の紙を急ごしらえの結界で受け止めて、僕は再びたたらを踏んだ。信じられないほどの圧力がこもっている。
「僕を知ってるのか」
時間を稼ぐ必要があった。兄貴やつぐみも、おっつけここに来るはずだ。僕がこいつをひきつけてさえいれば、また奇襲のチャンスがある。
「おお」
ありがたいことに、かつての豪族は話に乗ってきた。
「聞いているとも。含福寺の末息子、努力不足の天才だとな。なるほど、こうして見るとようわかる。無尽蔵に近い力を持っているのだろうが、術者がこれでは話にならんな。扱える力の分量が低すぎる。正しく宝の持ち腐れと言うものだ」
豪族は空中に腰掛け、真弓をかき抱くように構えた。会話に本腰を入れる姿勢を見せたのだ。口元が新しいおもちゃを見つけたときの子どもみたいに緩んでいる。
「力というのはなんでも、過不足の無い出力手段が伴わねば意味が無い。折角恵まれた才を持って生まれてきたのだから、それを十全に活かせる技術を身につけるよう勤めるのが、お前の役目ではないのか。たった今、式を防ぐにしても、本来ならもっと効率よく出来たはずだ」
「お前」
僕は顔をしかめた。
「どういうつもりなんだ。敵に塩を送るつもりなのか。それとも、戦意喪失ってわけか?」
「才能は見出し難く、天才は稀だ。金の山が――金などに興味は無いが――塵のように打ち捨てられる姿を座視するのは、どうにも寝覚めが悪い」
息をついて、藤原千方は僕を見た。
「ものは相談だが、お前、俺を見逃さんか。悪い話ではないぞ。鬼界では霊体の強度が存在の強さよ。ここが鬼界に沈めば、お前はすぐに俺より強くなれるぞ。あの方の子なのだ、あまり積極的に敵対したいというわけでもない」
「……どういうことだ」
「鬼界はつまらんところよ。名前を覚えておらねば、形を保てぬ。だが、形を保てなければ、名前を覚えていることは出来んのだ。この俺ですら、形を保つためにくだらぬ化生に身を落とさねばならん。俺は再び身体を持ち、少しばかり生きなおしたいだけなのよ」
「生きなおして、どうする」
「京に攻め上るのよ。最早それしかない故に」
「馬鹿な」
「ここで十分力を蓄えられれば、鬼門は閉じてやってもよいぞ。あと一刻か二刻でよい」
「どうやって閉じる」
「簡単よ」
豪族は真弓のポニーテールを掴んで、白目を向いたままの少女をぶら提げた。再び刀を抜いて、切っ先を僕の後輩に向ける。
「喉をこう、突けばよい。お前には出来まい。ここにいるお前の係累にもできる者はいまい。俺が泥を被ってやろう」
どうだ? と陰陽師はこちらを見上げた。
どうだ、もへったくれもあったものではない。兄貴もつぐみも手が空かないようだったけれど、時間稼ぎの時間は終わりだ。
「考えるまでもない」
「そのようだな?」
右手の指先に、火傷寸前の熱が集まってきたのを感じた。陰陽師が刀を引いて、防御の姿勢を取った。
「――論外だ!」
解き放たれたエネルギーが手元で爆発し、立ちはだかるように飛び出してきた人型和紙を散り散りに破壊した。捻るように身をかわした藤原千方の手から真弓が零れ落ち、屋上に倒れた。
「おの」
陰陽師のわき腹から、黒い煙がものすごい勢いで吹き出していた。ぶっ飛ばされた刀の切っ先が転がって、軽い音を立てた。
「れ」
どっと膝をついた敵に、僕は再び右手を構えた。再生する様子はなかった。
「鬼門を閉じろ。真弓は殺すな」
陰陽師は、口から大きな煙の塊を吐いた。
「真弓は殺すな、鬼門を閉じろ!」
カッ、と辺りが昼のように照らし出された。本尊砲だ、と思うより先に、僕の心臓はびっくりしてでんぐり返った。
陰陽師の動きは早かった。ひらりと射線から身をかわすと、出て来た時と同じように、真弓の口の中に――鬼界に、飛び込むようにして消えた。
「待て――」
僕が除霊ビームを放った時、もう一度本尊砲が炸裂した。屋上に集結していた雑怪が吹き散らされて、視界が真っ白に染まる。再び目が見えるようになったとき、藤原千方の姿は消えていた。
「ちくしょう!」
僕は屋上の床を蹴りつけた。また、一手遅れた。
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