其之三 製本! 怪奇探索部!

 I市から帰った次の月曜日は、体も気も重くて仕方なかった。


「あんまりこういうことは言いたくないけどな。常盤井さんの言うことを鵜呑みにするなよ。あれは完全に、母さんの味方なんだ」


 ビジネスホテルのベッドに寝転がった兄貴の言葉が、まだ鼓膜に張り付いているようだった。


「お前は覚えてないかも知れないけどな」


 兄はじとりと付け加える。母が含福寺を“捨てた”頃、兄は九歳かそこら、戻ってきた頃には中学生になるかならないかのはずだ。僕よりも、はるかに事情を理解できていたに違いない。生臭い男女関係の縺れのほうはともかく。


「覚えてるよ」


「嘘つけ。お前、ガキだったじゃないか」


「覚えてるよ。あの頃、みんな僕を構ってくれなくなったから」


「俺が面倒を見たろ? 随分苦労したんだぞ」


 それも覚えていた。置いてけぼりにされて、僕は泣いてばかりいた。面倒を見たという兄貴は、おろおろしているだけだった。


「そうだったかな」


 すっとぼけて、僕はドライヤーをつけた。ち、と舌打ちして、兄貴が寝返りを打ったのがわかった……。




 思わず眼鏡に触れた。知らない振りをしていた昔の話が追いかけて来ているみたいだった。嫌な感じだ。


「よお」


 写真部室の前で、玲二とすれ違った。手には六月号の“晴嵐”が抱えられている。


「お疲れだな」


「お前は元気だな。月曜日だってのに」


「月曜日だからだろ」


 この様子だと、まだ文芸部はお取り潰しというわけではないらしい。笹軌先生が入院して、部活再編の動きは頓挫しているのかも知れない。


 中庭で、ジャグリング部が一際高くディアボロのベアリングを打ち上げた。


 僕らにとってはありがたい話だが、彼らにとっては――。


「あまり素敵な話じゃないな」


「何がですか?」


 からりと部室の扉を開けて、真弓が顔を出した。


「……なんでもない」


「だったら、製本を手伝ってください。透先輩、最近サボり過ぎですよ!」


「ああ、悪ィ」


「だったら、もっと悪そうな顔をしなよ」


 こっちは面白そうな顔をして僕に声をかけたのは、生徒会長の狛田史だ。写真部から遠ざかっている間に、僕の代わりに部室に入り浸るようになったらしい。


「じゃあ、全然悪いと思ってない」


「ちょっとは思ってください」


 真弓の声が飛んできて、僕は教科書の詰まったリュックを降ろした。


 部室の隅では年代物の印刷機がかしょかしょと音を立てて、真弓が仕立てた原稿を吐き出している。印刷の済んだページが交差するように積み上げられて、その気になれば順に製本が出来る手筈になっていた。


「今度は何だ」


 コピー用紙には黒い活字と、写真が並んでいる。白黒で印刷された写真は、ほとんど潰れて何が写っているのかわからない。


「金鬼ですよ」


「なんだって?」


「史先輩が持ってきてくれたネタです。コンビニ強盗が変身して、駆けつけた警官の銃弾を跳ね返したとか。もともとは藤原の――」


 真弓を手で制した。


「今、読んでるから」


「なら、熟読してくださいね。今回も会心の出来ですから」


 狛田さんが小さく手を挙げた。


「私も寄稿したよん。後半の、ほら、これ!」


 言われるままにページをめくる。“陰月十四日に何かが起こる!? 六月五日に要注意”の見出しが躍る。いかがわしいことこの上ない。


「カストリ雑誌みたいだな」


「ちょっと、酷いな! 藤堂くんの代わりに紙面を埋めたのに!」


「そうですよ、先輩がサボってるから! それに、そのネタも史先輩が持ってきてくれたんです。最近、全然現場に行けてないから」


 そうだろう、と思う。神宮から派遣された祓魔師を大量に受け容れて、T市には厳戒態勢が敷かれている。普通の高校生が噂を耳にするような怪異は、その頃にはもう駆除されているはずだ。


「へえ。こういう方面に造詣があったんだ」


 振り向いた狛田さんは、歯を見せてピースを二つ作った。


「まあね。こんな所で役に立つなんて、思ってなかったけど」


「役に立ってるかな。まあ、いいけどね……」


 僕はページを戻して、組んであった紙の束を崩して並べた。いろ紙に印刷された表紙から順番にページを拾っていく。部数だけなら百部を越えるが、表裏に見開き二ページずつ印刷してみれば、紙の枚数は見かけの数字ほどにはならない。


 何度かページの束を往復して、ホッチキス留めするだけになった“け”を、さっきみたいに交差させて積み上げる。


「先輩、何してたんですか」


 作業台の前を往復する僕のリズムに合わせて、真弓が製本作業に加わる。


「何って、生活してたよ」


「そうじゃなくて。最近、全然来なかったじゃないですか。結構、暇してたんですよ」


 本当に? という顔をして、僕は僕の知らない“け”のバックナンバーを掬い取った。二週間のうちに二冊。ボリューム大したことないけれど、これは相当なペースだ。


「それは、つぐみんと一緒に」


「つぐみん、ね」


 いつの間に仲良くなったんだろう。つぐみは、僕が思っているよりずっと、上手くやっていけているらしい。


「で、つぐみんに聞いたんですけど。透先輩も、その」


 真弓はちらりと狛田さんを見て、言葉を濁した。


「お寺の仕事に関わるようになったから、忙しいんだろうって。そうなんですか?」


「まあ、それなりには」


「じゃあ、面白いものもたくさん見たんですよね。今度はそれで、一冊作りましょうよ」


「どうかなあ」


 僕はページを組む手を止めて、ホッチキスを手に取った。


「僕がやったのはしょぼい仕事ばかりだよ。稟議の上げ方とか、報告書の書き方とか教わって……正式な祓魔師じゃないからってさ。“け”に載せたヤマの方がよっぽどやばかったぜ」


 事実だった。僕がこの半月でやったのは、研修と称して兄貴や親父の書類仕事を代行した以外は、雑霊をちょっと祓った程度。神宮の眼方に、増員で手の空いた兄貴も一緒で、まるきり見習いといった様子だった。


「そおですか」


 真弓はちょっと得意げに笑って、机で紙束を整えた。


「じゃ、今度は病院行きましょうよ。こないだ、よさげな廃病院を見つけたんです」


 すごいデートの誘い方ね、と狛田さんが呟いた。


「デートじゃないですよ」


 意味ありげな含み笑いを残して、生徒会長は席を立った。


「じゃ、後はお若い二人だけでね」


 これ見よがしに手を振って、狛田史は部室から出て行く。


 最初の一部を綴じて、僕と真弓は目を見合わせた。


「何勘違いしてるんですかね、あの人」


「さあな」


 僕は肩をすくめて、次の一部を閉じた。真弓が最後の一部を組み終えて、山に積み足す。


「それで、どうしますか」


「え?」


「病院」


「ああ。まあ、そのうちな」


「そのうちって、いつです」


 やけに食い下がるな、と思った。僕は眉根を寄せて、少し考える。


「……あと一ヶ月しないうちに、状況は収束するはずだ。そしたら、廃病院でもリゾートバイトでも行ってやる」


「言質、取りましたからね」


 低い声でそう言って、真弓は自分もホッチキスを手に取る。彼女の手元で、バチン! と最初の一冊が製本された。




 バチンと鳴ったのは、電気のスイッチだった。お父さんと兄ちゃんが“お仕置き部屋”と呼んでいる部屋がうちの寺にはある。お母さんが消したのはそこの電気だった。


「透、入りなさい」


 お母さんの声は、ぼくに有無を言わせなかった。お仕置きされるようなことをした覚えはない。わけがわからなかった。


「入りなさい」


 やさしい声で、お母さんはちょっと笑っている。少し開いたふすまの間から、真っ暗闇が顔を出していた。


「怖がっちゃだめよ。教えたでしょう、ほら――」


「暗いとこは、暗いだけ……」


「そう。暗闇は決して怖くない。中に入って、私の数珠を取ってきてちょうだいね。お母さんは、台所にいるから」


 そう言って、お母さんはぼくを通り過ぎた。後には、暗い部屋と半開きのふすまと、ぼくが一人だけ残される。


「怖くない、怖くない……」


 ぼくは――僕は、何事か呟いて、“お仕置き部屋”に足を踏み入れた。足元で白い火花が散ったのは、その時は気づきもしなかった。


 でも、部屋の異様な雰囲気には、すぐ気がついた。気配すら感じさせなかったのは、母の張った結界のせいだ。火花を散らせたのは、その結界である。


 ざわり。


 空気が震えた。遮光カーテンの閉まった部屋は、中から電灯を点けなければ真の闇だ。入ってきたふすまの隙間から差し込む光を頼りに、部屋を歩く。その度に、忍び笑いのようなそこら中から聞こえてきた。


「誰か」


 声変わり前の声が、更に上ずった。


「いるのか?」


 忍び笑いが止まった。無数の視線が、僕に集中したのがわかった。


「かるのいかれだ」


 仕置き部屋は、せいぜい十畳かそこらの部屋だ。あの頃、普段は母の書斎に鳴っていたと記憶している。その部屋に、男とも女ともつかぬ声がうつろに響いた。


 僕は石化したように立ちつくした。すり足で下がって、背中が何かにぶつかる。母の机だ、とわかるのに、時間はかからなかった。机の上には数珠がある。言いつけは終わりだ。じゃらりと数珠と手にとって、僕は踵を返した。


 バチリ。


灯りが点った。


「!」


 いた。いや、詰め込まれていた、と表現した方が正しい。赤子の顔のついたかぶとむし、蜘蛛の足の生えた兎、猫ほどもある鼠、あちこちが欠けた人。人、人、人。その全てが、人間にしか浮かべられない悪意のこもった表情で、まるきり水族館の魚を見るようにこちらを見ていた。ずっと、そうしていたのだ。


 そしてこの瞬間、僕が気づいたことに、全てが気づいた。


 周囲の空気が、僕一人をめがけて殺到してくる。きゃあ、頭を抱えて、めくらめっぽうに除霊ビームを撃った。


 詰め込まれていた怪が半分方祓われた頃、母が来て、ガタガタ震えている僕を連れ出した。




 あの頃の僕は、眼鏡をかけていなかった。六歳かそこらまで、僕の目はよく視えていた。今の真弓と同じか、もっと。


「お兄、聞いてるの?」


 赤いパッケージからポテトをつまんで、つぐみが口を尖らせた。僕は自分の芋を飲み込んで、片手でコピー用紙の束を振った。


「聞いてるよ。この噂を洗えばいいんだろ」


「講義のほうは――」


「広まった噂は怪異に転ずる」


「こともある、ね」


「そうだった。で、それらしい噂がどの程度広まっているのか、実際怪異を生じているのかを調べるのも、神宮預かりの祓い屋の役目ってわけだ」


「よくできました。渡した案件はかなり胡乱な手合いなんだけど、誰かが広めてる臭いんだよね。コピペ化狙いの素人小説家が投下してるっぽいけど、今のT市じゃこの程度の噂でも、馬鹿にできないから」


「僕も聞いたことあるな」


 つぐみから受け取った資料の中身は、先ほど印刷してきた“け”に載っていたのと、ほとんど同じ内容だった。コンビニ強盗に発砲した警官の銃弾が、強盗の腹に跳ね返されたという話。どこぞの女子高生の知り合いの不良が、殴りかかったオッサンの腹で拳を壊したとか。


「この辺でコンビニ強盗なんて聞いたことないけど。それに、今どき親父狩りもないだろ」


「それはまあ、噂だから」


 ずごご、と自分のオレンジジュースを吸い上げて、つぐみはスマホで時間を確かめた。


「じゃ、私はそろそろ行かないと」


「どこへ?」


「し・ご・と。もう小者しか残ってないから、心配要らないよん」


 席を立って、つぐみはひらひら手を振った。


「またね」


「うん、また」


 僕もつぐみにちょっと手を振って見送ると、資料を眺めながらポテトを片付け始めた。読めば読むほど、“け”とよく似た話だ。


 おかしい……ような、気がする。“け”は実録冊子だ。真弓は足で記事を書く。だから、今回の“け”の中身は、いつもと一緒のようで少し毛色が違う。狛田さんからネタをもらったと言ってたっけ?


「はて」


 明日、話を聞いてみないと。備え付けのナプキンにそれだけメモして、僕は最後のポテトを口に放り込んだ。




 しかし次の日、狛田史は学校に来なかった。真弓千聡さえも、そうだった。

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