其之ニ イド

 母に教わったことはかなり僕の中に残っているけれど、母そのものについての思い出はほとんどない。思い出として認識している記憶も、多くは親父や兄貴が話してくれた思い出を僕の中で再構成したもので、実感には乏しい。


「扉は閉めてくださいね」


 やわらかい声の主が言った。肩のところで髪を切りそろえた、五十歳くらいの細身の女の人だ。僧衣を着ている。この人、尼僧だ。


「どうぞ上がって」


 土間の向こうによく磨かれた廊下が続いている。そこに面した一番近い部屋のふすまが開いていて、綺麗な畳張りの部屋が見えていた。ちょうど、古風な日本家屋をそのまま地下に持ってきたみたいだった。


「あの、僕は――」


「待っていましたよ。あの人の末の息子。大きくなりましたね」


 尼僧は一人で納得して、僕に背を向けた。それから僕を一瞥して、さっさと廊下を歩き出す。


「あ、ちょっと!」


 僕はあわてて靴を脱いで、僧衣の背中を追った。


 母ではなかった。僕の記憶にも、家のアルバムにも、この女性らしい人の姿はない。


「あの、あなたは」


「墓守です。あの人の」


「それって、母のことですか。母は生きていると聞いたんですが」


「同じことです」


 尼僧は冷たく言って、ふすまの一つを引き開けた。どう、と廊下の風が部屋に向かって流れ込む。


 薄暗い部屋の奥に向けて目を眇め、尼僧は言った。


「入って。お話しましょう」


    ◆


 奇妙な部屋だった。旅館の大広間ほどもある空間の真ん中に、布団が一つだけ敷いてある。その周りを医療ドラマで見るみたいな白い機器が囲んで、無機質な音を断続的に立てていた。


「どうぞ」


 異様な雰囲気の中、僕は出された茶を眺めた。部屋の中には一際濃く香が匂っている。そして、そこいら中に貼り付けられたお札……圧迫感の正体はこれだろうか。見かけにはカモフラージュされているけれど、相当強力な術式が使われているのは、なんとなくわかる。


 なんのために?


「ありがとうございます」


 僕は茶には口をつけずに、こわごわと布団の方を眺めた。布団の上には、かけ布団を跳ね除けるようにして、誰かが座っている。


「あの」


「これ以上は明るく出来ないのです。彼女には刺激が強すぎて」


「はあ」


 僕は唇を舐めた。


「あの、母は」


「あなたにとって、意味のあることかはわかりません。ですが、あなたが見たいと言うなら見る権利はあるでしょう」


 尼僧はほとんどとりとめもなく、布団を見やった。


「あなたのお母さんですから」


 ですが、と続ける墓守には構わず、僕は布団に駆け寄った。駆け寄って――足を止めた。


「語らうことは難しいでしょう」


 追い討ちのような言葉が背中に突き刺さる。僕は布団から距離を保ったまま、畳に膝をついて、座っている誰かと視線の高さを合わせた。


 少し角度のついた布団を背もたれにして、少女のような女が座っている。記憶と写真で見たことのある顔。その顔がだらしなく緩んで、口からはよだれを垂らしている。ぼんやり開いた目には何も映っていなかった。


「母さん……?」


 若すぎる、と思った。母は父より年下ではあったけれど、それでも四十代の後半のはずだ。ここにいる女は、どう見ても十代かそこらで、それで――。


「彼女は損傷したのです」


「損傷、って」


「あなたは何を聞いていますか? 知里さんについて」


「なにも……」


「なんと」


 尼僧はふっと息をついた。


「全く、いい加減な。あなたも祓魔をやるなら、自分の母のことくらい知っておかなくては」


「……すいません」


「いえ。達彦くんの怠慢でしょう。いやな話をする役は、私に押し付けたわけね」


 尼僧の台詞は、フォローになっていなかった。身内、それも直接の親がこんな風に言われて、僕の肩身はますます狭くなる。


 それを視て少し微笑むと、尼は言葉を探しながら口を開いた。


「知里さんは、そうですね。なんと言えばいいのか……そうね」


 尼は目を細めた。その目尻にくしゃっと皺が寄る。


「かわいい人でしたよ。祓魔については、そう、天才的だったけれど。反面、日常生活ではぎこちないところの多い人で……一緒に神宮にいたころは、私も随分、世話を焼いたわ」


 僕は母を一瞥した。


「そう、天才だったわ。どこの寺にも神社にも師事しなかったのに、あの子は最強だった。私たちが術式の補助を受けてようやく鎮める相手を、指先一つで破ぁー、ってね。それを妬む子も多かったけれど」


 尼僧の瞳が遠くを見つめた。


「退魔術式の引き方もすごく綺麗でわかりやすくてね。この部屋に施されているのも、知里さんの術式を基にしたものなのよ」


「母とは、仲が良かったんですか」


「ええ。あなたのお父さん……達彦くんと、知里さんと、私でね。良くつるんでた。結婚式の写真とか、見たことないかしら? 私も一緒に写っているのが、あると思うんだけど」


 黙って首を振った。


「そう。じゃあ、この話はまたにしましょうか。あなた達が生まれる前の話をしないのなら、もう、ほとんど話して楽しいことは残っていないけれど……達彦くんは、どのくらい話してるのかしらね」


 少女のように弾んでいた声を歳相応に沈めて、尼が僕を見た。


「さあ――」


 心当たりがあるとすれば、つぐみのことか。自分からはあまり、口にしたくない話だった。特に、初めて会った相手には。それが父と母の友人なのだとしても。


「そう。なら、これは理解しておいて欲しいのだけれど。私から話せるのは、私の言葉だけよ。達彦くんや、そうね、あなたのお兄さんは意見を異にするかも知れない」


「……」


「あなたのお母さんは天才だったわ。そういう人はね、少なからず逸脱した側面があるものよ。社会規範に照らせば、後ろ指を指されるようなことをするかも知れない」


「……妹の話ですか」


「それも含まれるかしら」


 僕は口をつぐんだ。


 部屋にはエアコンがかかって、よく冷えていたけれど、喉を通り過ぎた息はつめた異を通り過ぎて凍てつくようだった。思わず頬が歪んで、僕は口だけで笑う。


「母がこうなったのは、不貞に対する罰ですか」


「その言い方は適切じゃないわ。知里は知里で、自分が後の世代に引き継げるものを引き継ぐために必死だった。その気持ちが少し――ほんの少し、視野を狭めたのは確かでしょうけれど。達彦くん……それから、あなたの家族を裏切る気はなかったのよ」


「どうかな」


「現に、あなたのお母さんは寺に戻って来たでしょう? 知里はあなたを育てるのに一生懸命だったでしょう。会いに行く度に、あなたのことばかり話していたもの」


「そう、ですね」


 母についての記憶が一番濃く残っているのは、その時期だ。僕は何も知らなくて、ただ幸せな子どもだった。母は付きっ切りで多くのことを教えてくれた。今思えば父や兄は決してよい顔はしていなかったはずだけど、僕はそんなこと、全然気づいちゃいなかった。


 皆仲の良い家族の末っ子で、僕は幸せだった――と思う。


「つぐみには、一生懸命じゃなかったみたいですが」


「ああ」


 そうね、と尼僧の声が冷え込んだ。


「でも、それは仕方ないのよ。知里が残したかったのは、経験と血の両方なんだから。前者がいくら記憶できても、濃い血は意図して作れないでしょう。ツイてなかったのよ、つぐみは……」


 尼僧はそう言い放って、にこりと僕を見た。


「こうしているだけでも、あなたに向こう側の力が溢れているのを感じるわ。惜しむらくはその眼鏡だけれど、それもイドでは必要なくなる」


「井戸?」


「知里の行き先よ。あなたが六歳になった頃、大き目の地震があったのを覚えてるかしら」


 覚えている。震度は五弱。直近で最も大きかった地震で、僕らは随分肝を冷やした。何十年も前からこの辺りは“次に揺れる”と言われているけれど、それが来る気配はない。


「あの時、少し、地脈の流れが狂ってね。今のT市みたいに、あちこち締まりが緩んだことがあったのよ。神宮も随分あちこち人をやったけれど、ちっとも沈静しなかった」


 うーっと母がうめいて、心なしか部屋の温度が更に下がった気がした。


「これは、その時に」


「ええ。土地を鎮めるために、知里はイドに身を投じた。そして、帰って来なかった」


 また井戸だ。


「井戸って、どこの井戸です」


「イド、ね。元は心理学の用語……鬼の住処のことを、知里はそう呼んでたわ」


 妙な言い方だった。尼の言ったのは怪異の総称としての“鬼”だろうが、その住処なんてのは、あまり想像がつかない。幽霊だの妖怪だのの類が、一人前の生き物みたいに家を持っているとでも言うのだろうか。


「まあ、呼び方はどうでもいいのよ。彼岸でも鬼界でも、“あちら”でも。神宮でも詳細は把握していないわ。一番研究を進めていたのは知里だけれど……」


 母の体を一瞥する。僕は皮肉をこめて口を開いた。


「記録はないんですか? 母は、僕らに何かを遺そうとしてたんでしょ」


 尼僧は堪えた様子もなく、黙って首を振った。


「残念だけど、記録は間に合わなかったわ。研究を形にする前に、知里はイドに消えたから。イドは名前のない影の世界だと言っていたけれど……今となっては誰も確かめられないわね」


 尼僧は席を立つと、母のよだれを拭った。


「母は、どうやってイドへ?」


「それも、わからない。イドに行く、とだけ書き置いて、知里は姿を消したわ。次に彼女が見つかったときは、もう、知里の心はなくなっていたのよ」


 随分無責任な言い草だ、と思った。あちらこちらで色んなことをほっぽらかして生きていた母の面倒を見るなら、こういう人がお似合いなのかも知れない、とも思った。


「それから、知里は歳を取ってないのよ。あなた達は大人になって、私はお婆さんになっていくのにね」


 尼僧は愛おしそうに、また母のよだれを拭った。言葉にならない小さなうめき声を出して、母は尼僧の胸に頭を寄りかけている。


 僕はお茶を飲み干す気もなくなって、座布団から立ち上がった。ここは、空気が濁っている。霊的手段で閉じられている、というだけじゃない。この人達は、自分の時間を進めようという気がないのだ。


「僕は、そろそろ行きます。兄を待たせてるし」


「そう。そうね。そうよねえ」


 尼僧はゆっくりと我に返って、自分も立ち上がった。来た時と同じように僕を先導してふすまを開け、廊下を歩き出す。


「つぐみも、ここに来たことがありますか」


「ええ。たまに来ていますよ」


 部屋を出た途端、墓守は敬語を取り戻していた。


「いつも、ほんの短い時間だけ。仕事の立て込んでいるときに限って顔を出すのだから、当然ですけれど……何かを確かめて、帰って行かれます」


「何か……」


 種違いの妹が、あの母から何を貰って帰っているのかは、敢えて知ろうとも思わなかった。ただ、僕とは違う気持ちで足を運んでいるのは確かだ。僕はしばらく、ここに来ようとは思わないだろう。


 土間で靴を履きなおして、墓守を見上げた。


「あなたは、ずっとここに居るんですか」


「ええ。もう、ほとんど日の光は見ていませんね」


 僕はせいぜい神宮の中くらいを考えていたのに、彼女の語る“ここ”は、それよりはるかに限定的だった。


「こんなこと聞いていいのか、わかりませんけど……嫌にならないんですか。ほとんど母と、二人きりなんでしょう」


「時には。でも、友達ですから」


 尼僧は存外に屈託なく笑った。


「そうですか」


 母の息子の僕は、ほかに言葉を見つけられないまま立ち上がった。「じゃあ、これで」と煮え切らない別れを告げて、さっき入ってきた扉から外に出る。一本道の向こうで兄貴がいじっているスマホの灯りが見えて、妙に安心する。


「おう、お帰り」


 兄は顔を上げた。それに続いて「どうだった?」と尋ねてきたのは、妹の声だった。暗闇の中にスマホのライトを下から照らして、つぐみはおどろおどろしい表情を作って見せた。


「……何してんだ」


「ちぇ、ノリ悪いなあ。そこで大兄ちゃんと会ったから、お兄を待ってたんじゃん。お母さんに会ってるって言うんだもん」


「ああ」


 それで、どうだった? つぐみは少しだけ首をかしげて、僕を見た。兄貴も興味なさそうに、こっちに視線を向けている。


 僕はそっぽを向いた。


「別に。あんなもんだろ」


 ため息をついて、つぐみはガシガシ頭をかいた。


「……常盤井さんはどうだった? 中に居たでしょ、尼さんの」


「ああ、なんていうか――」


「結構強烈だよね」


 つぐみのこの台詞に、ふっと兄貴が笑う。


「あの人は昔からああなんだよ。母さんとは仲良しなんだ。父さんともな」


「お母さんのこと大好きだよね、あの人。思い出話をさせるとキリが無いから、お兄も気をつけたほうがいいよ」


「そんな気はするな。今日はほとんど……常盤井さんだっけ? あの人の話を聞きに来たみたいだった」


 僕らはほとんど同時に、低く抑えた笑いを爆発させた。共通の知り合いについての陰口をひとしきり叩いた後、おもむろにつぐみが立ち上がって、「そろそろ行くね」と言った。


 それで三人の輪は崩れて、僕らは互いに背を向ける。兄貴に先導されてきた道を戻る時、不意に思い立って後ろを振り向いた。


「つぐみ」


 え? と振り向いた妹に「またな」と声をかけた。


「うん、また」


 つぐみはちょっと笑って、足早に母の許へ駆けて行った。僕は微笑する兄に先導されて、外へと続く階段を、上り始めた。

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