Case5:藤原千方

其之一 母

 終わってしまえばあっという間のゴールデンウィークははるか遠くに過ぎ去って、昼の空気はもう、夏に片足を突っ込んでいた。


「エアコン切れよ。俺は寒い」


 そうは言っても、夏はまだ少し遠かった。梅雨の控えた五月の終わりに日が傾けば、まだ冷房を全開にするには肌寒い。僕は兄貴の言葉に従って、空調のつまみを少し暖房側にひねった。


 勢いよく風を吐き出していたエアコンが静かになって、低いエンジンの唸りが車内を支配する。週の終わりの国道は、家に帰る車の群れであふれ返っている。I市までは、まだ時間がかかりそうだった。


「寝ててもいいかな」


 運転席の兄貴は真面目に前を向いたままだった。


「好きにしろ。でも、お前が思ってるほど時間はかからないぞ。もうすぐこの渋滞は終わる」


「未来予知か。すごいや」


「ただの経験則だ。普段なら渋滞そのものを避けるんだが」


 お前を連れて来ようってんならな、と、これは呟くように言ってから、兄貴は口をつぐんだ。硬い雰囲気が車内に流れる。僕は黄色い街灯の点ったバイパスの景色を眺めながら、窓に向かって口を開いた。


「兄貴、緊張してんの?」


「いや」


「僕は少し緊張してるよ」


「大したものじゃない。普通の寝たきり中婆さんだ」


 兄貴は心底つまらなさそうに言い放って、アクセルを浅く踏み込んだ。さっき聞いたとおりに、滞っていた車の流れは、徐々に軽快さを取り戻しつつあった。


「そりゃ、兄貴にとってはそうだろうけど。僕には違う」


「そうだな」


 藤堂定四郎は重い口を開いて、またつぐんだ。暗いバイパスに、“I市”の看板が浮かび上がって、フロントガラスの上辺から頭上に流れる。


「母さんは――」


 車が順調に走っている以上、時間が過ぎれば過ぎるほど、神宮が近づく。予定があるのは明日の朝で、まだ一晩も時間があるというのに、僕の口の中はからからに乾いていた。


「生きてたんだな」


 兄貴が「ああ」と言って、親父がしたと合わせると何度目になるのかわからない肯定をくれた。


「やっぱり、怒ってるか」


「もう怒ってない」


 なんてね、と肩をすくめて僕は続けた。


「びっくりの方が大きかった。多少はムカついたけど」


「そうか」


 兄貴の言葉が少しだけ緩んで、車内の雰囲気も少しだけマシになる。張り詰めていた気持ちに余裕が出て、僕はまた、あの時のことを思い出した。手のひらで暖かい除霊ビームの欠片をくすぶらせて、目を閉じる。


 一週間前の食卓がまぶたの裏に再生されて、真面目腐ってこちらに向き直った親父の面が話し始めた。


「いずれ、お前にも話しておかなければならないとは思っていたんだが――」


 家族会議の画が今一つ決まらないのは、それがどうしてもいつもの生活空間で行われるせいだろうな、と思う。酒も飲まずに僕を覗き込む父の表情は、食べかけのカレーがほったらかされている食卓からは、あまりに浮いていた。


「最近じゃ、T市はかなりおかしくなってきたよな。お前に祓魔をさせるのは、俺としてはかなり不本意なんだが、それでも手が足りない」


「うん」


 親父は、このニ、三週間でめっきり老け込んだようだった。薄々感じてはいたけれど、こうして蛍光灯に照らされているのを見ると、その顔に刻まれている皺は記憶より深かったし、白髪もずっと増えていた。


「だが、明日から、また神宮の連中が来る。これで俺達にも、少し余裕が出来るはずだ」


「そうなんだ」


 疲れたため息をついて、中年の終わりに差し掛かった男は前髪をかきあげた。


「お前を駆り出す必要はもうなくなる。ないんだが……」


 父は再び、僕の目を覗き込んだ。眼鏡越しに、僕は父の視線を見返す。


「自分の進路について、考えたことがあるか。大学を出た後の話だが」


「まあ、少しは」


 僕は、それから父も、直接の言及は避けた。これは「就職先はどうするのか?」という漠然とした問いじゃなくて「祓魔師になる気があるのか?」というかなり切り込んだ質問だ。


「そうだろうな」


 父は僕の返事の意味を咀嚼しようとしているみたいに口を押さえた。


「どちらにせよ、お前ももう十分デカくなった。話しておくことがある」


 親父はそれから、黙々と飯を口に運んでいた兄貴に声をかけた。


「来週、神宮まで行くんだったな」


「ああ」


「その時、透を一緒に連れて行ってやってくれ」


「了解」


 僕の意志は一つも確認しないで、二人は週末の予定を決めた。かすかな反感を抱きながら、僕は父が口を開くのを待った――。


 車は高速道路を降りて、市街に入った。この時間までやっているショッピングセンターやファミレスの、代わり映えしないきらめきに目蓋を貫かれて、僕は現実に引き戻される。


「もう着くぞ」


 兄貴の声がエンジン音の向こうで遠くに聞こえた。神宮が、神宮の金でビジネスホテルの部屋を取ってくれているらしい。ゴールデンウィークの連休は外しているにしても、県内ではそれなりの観光地で通っている街にあっさり部屋を用意できる辺り、神道の総締めというのは伊達じゃないんだろう。


 鬱屈した感情を覚えた。


 その半分くらいは、鈍い不満だ。そりゃ、僕だって毎日「お前の母さんは死んだんだよ」と言い聞かされて育ったわけじゃない。言わなかったというだけで、親父も兄貴も、敢えて隠し立てしたのとは違うのかも知れない。しかし――。


「フェアじゃないよな」


 エンジンの唸りに隠して、低く呟いた。そのはずなのに、兄貴は辛抱強い答えを口にした。


「仕方ないだろう。お前は子ども過ぎたんだ。母さんに起こったことを、どう説明したらわかるのか、わからなかったんだよ」


「兄貴はその時、子どもじゃなかったってのかよ」


「お前よりはな」


 偉そうに言いやがって。その頃兄貴は、せいぜい中学生になったかならなかったかくらいの年齢だったはずだ。すると僕は六歳かそこらだから、兄貴の言にはそれなりの分があることになる。くそ。


「それに、あの頃のお前は俺から見ても不安定極まりなかった。母さんの状態を理解したら、何をするかわからなかったんだ」


「今は?」


「少なくとも、後を追ったりはしないだろう」


「そうかも」


 僕は肩をすくめて、また窓の外に顔を向けた。街の明かりと夜の闇の他に、ガラスに映った自分の顔がこちらを見返している。思わず、眼鏡のつるに手を触れて、思わず泣きそうになった。


「……母さんの状態は、まだ教えてくれないんだ」


 兄貴はハンドルを切って、短く答えた。


「現地で確認しろ」




 I市には夏が来ていた。蝉はまだ鳴いていなかったけれど、空はからりと晴れて、照りつける太陽は、昇りたてだというのに容赦が無かった。


「いい天気だな」


 外宮の駐車場にチェロキーを停めて、兄貴は空を見上げた。


「どうする。やっぱりやめて、遊んで帰るか? 今日は赤福氷が美味いぞ」


「馬鹿言うな」


 思わず言葉に棘が生えた。


「僕はもう十分待ったよ。早く行こう」


 どこへ行くのかも知らないけど、僕は兄貴を先導するようにズカズカ歩いた。外宮の外だ。神宮の管理部は神宮の敷地内には無くて、もっと目立たないオフィスの中にあることくらいは僕も知っている。


「そっちじゃない」


 振り向いた僕を見ながら、兄貴は神宮の奥へと続く砂利道を指差した。


「こっちだ」


「でも、運営は――」


「母さんは奥にいる。オフィスじゃない」


「ああ」


 母のことは知りたいけれど、神宮の奥に足を踏み入れたくはなかった。周囲の空気から伝わってくる清らかさは、息が詰まるようだった。それに、この先にはきっと井戸がある――。


 父も兄も、僕に注意ばかりする人だけど、母はもっとずっと色んな注意を僕にした。気をつけて横断しなさい。何か上げると言われても知らない人には絶対についていってはいけません。クレーンの下を通ってはいけません。黒い影を見たら用心しなさい。どこから聞こえてきているのかわからない声には返事をしないように。


 それから、井戸には近づくな。


 僕がまだ、寺生まれらしい教育を受けていた頃のことだ。そのうち半分近くは忘れてしまったけれど、残りの半分のおかげで、僕はまだ生きている。


「そうなんだ」


 兄貴に向かって手を広げて、異論がないことを示す。僕は砂利道を歩き出した。




 I神宮と一口に言うけれど、そのI神宮とされる空間には相当数の神が祀られている。順路をストレートに進んで内宮に行くだけならそれ程時間がかかるわけでもないけれど、そういう大小の社を一つずつ回ろうと思うと相当時間を使うことを覚悟しなければならない。


「ここだ」


 中でも目立たない社の前で、兄貴は立ち止まった。さっと辺りを盗み見て、留年生は賽銭箱をまたぎ越し、社の扉を引き開ける。


「なにしてる。早く来い!」


 小さい声で鋭く僕に強制して、兄貴は社の中に消えた。


「……」


 辺りを盗み見た。順路から外れているせいなのか、空隙が生じたみたいに観光客の姿はない。社は二人以上入れるようには見えなかったけれど、兄貴に倣って、僕は賽銭箱を乗り越えた。


「扉を閉めろ」


兄貴の声が下から聞こえる。僕が扉を閉めたのと同時に、スマホのライトが仰向けに僕の目を射た。


 狭い社の中には、何もなかった。小さな床のすぐ向こうに、長くて暗い階段が続いている。


「降りるぞ」


「……下に、母さんが居るの?」


 扉を閉めたというのに、地下へ続く道は風を吸い込んでいた。外の清らかな雰囲気は打って変わって、じめじめした圧迫感のあるものに変わる。


「そうだ」


 兄貴はうなずいた。僕と違って、兄貴はもっとはっきり、色んなものを感じ取れるはずだった。


 僕でしかない僕には、彼が何を視て、何を聞いているのか、想像することしか出来ない。


「嫌か?」


 僕はかぶりを振った。


「いや。行くよ」


 一緒に居るのが兄でなければ、僕は背後の扉を蹴っ飛ばして、気楽なI市観光を始めていたはずだ。階段に足をかけたときも、そうしたいのはやまやまだったけれど、二段目を降りたときには、もう腹は決まっていた。


 もともと僕は、母に会うためにここに来たのだ。


 自分も点けたスマホのライトと、片手で探るじめじめした壁の感触を頼りに、急な階段を降る。不意に階段が終わって、底についたのがわかる。


「ほれ」


 あれだ、と言って兄貴はまっすぐ前を指した。先に伸びた廊下の奥に、取ってつけたような障子戸があった。木枠に張られた障子紙からは、やわらかな光がこぼれている。


 僕は息を吐いた。灯りと言うことではこの廊下はさっきの階段よりもずっと明るかったけれど、息の詰まるような圧迫感はさっきとは比べ物にならなかった。


「先に行けよ。終点だ」


 ふうっと息を吐いて、兄貴は力の入った肩を上下させた。


「……」


 僕は黙ってうなずいた。つばを飲み込もうとして、乾いた喉だけがごろごろと動いた。視界の端に荒削りな岩の壁が流れて、自分が足を動かして、ふすまに歩み寄っているのが他人事のように理解できた。


 手が宙に上がって、ふすまにかかる。最後に、兄貴を振り向いた。


 廊下の向こうで腕を組んだ兄貴がゆっくりうなずいて、その口が「がんばれ」と動くのが見えた。


「がんばるよ」


 声に出してそう答えて、僕は一息にふすまを引き開けた。


 開いた木の枠から、存外に現代的な灯りがこぼれた。人工的に焚き染められた神聖な香りが溢れて、僕の体にまとわりつく。


「どうぞ、お入りなさい」


 柔らかな声に招き入れられ、僕は母の居室に、足を踏み入れた。

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