其之五 真弓千聡の日記 #8
5月2日 あめのちはれ(承前)
ええと、どこまで書いたんだっけ。この日はいろんなことが起こりすぎて、一日で……っていうか、一日分の日記を書くのに当ててる時間じゃ、全部書き切れてない。今数えてみたら、これで五日くらい、5月2日の記録を書いていることになっている。
もうすぐゴールデンウィークもおしまいだし、走り書きのままになってる日の日記を清書しなくちゃならない。そう思って今日はメモ書きを見返してみたけど、あんなに休みがあったはずなのに何にも大したことをしてなくてガックリきた。
でも、どんなに予定を立ててそう思うものなのかも知れない。休みの間に中学で使ってた教科書を処分した時も「もう少し勉強しておけばよかったかな」なんて気持ちになった。中学のころは、今よりがんばってたくらいだったのに。
それに、2日のことを「何にもしてない」にカテゴライズするのは、ちょっと無理がある。とりあえずは昨日の続き、つぐみちゃんが「全部斬る」って言った後の話を書いてしまおう。
「全部斬る」っていうのは全部斬るって意味なんだけど、実際につぐみちゃんは私が伝えた土蜘蛛の接近方向に忠実に刀を振るって、片っ端から大きな節足動物を斬り祓った。周囲には蜘蛛の青黒い体液と身体が散乱していて、初夏のKヶ峰はめちゃくちゃだった。
「うっぷ」
口を押さえたのは私でも狛田先輩でもなくて、土蜘蛛を右に左に避けながら漂っている彰さんだった。ものを食べてないのに吐けるものがあるはずもなくて、彰さんはエクトプラズムを空中に吐き出した。
「じゅうに……うわっ!」
白い煙みたいなのが視界を塞いで、指示が途切れる。
「おい!」
殺気だった声が煙の向こうから飛んで、心がぎゅっと萎縮する。喧嘩するのは嫌いだった。怒られるのは、もっと嫌いだった。怒られるときは、引っ叩かれる時だ。
心臓の動悸が激しくなって、全身の血液の流れを感じた。本当に焦ったときとか、想定外の出来事に出会ったときに出るいつものやつ。でも、この時は少しだけ、いつもとは違った。
「ちさ――」
彰さんの声が遠くに聞こえた。眼球の奥で何かがぶちぶちとちぎれる感じがあって、視界がガタガタ揺れた。
「――ん!」
ほんのわずかな痛みも無しに私は決定的な一線を踏み越えて、その後には全てが視えるようになっていた。
すぐそばで私を案じてくれている彰さんの息遣いがわかった。斜面の上にわだかまっていた土蜘蛛の一団が、五月雨式に下ってくるのがわかった。麓にたむろしていた雑霊たちのひとつひとつの形が捉えられた。はるか彼方に、脈打つ力の塊が身じろぎしたのを感じた。
「あなた、今」
幽霊の張り詰めた声が私を現実に引き戻す。散大していた意識がすうっと目の前に収束して、私は叫んだ。
「真っ向!」
つぐみちゃんが一直線に刀を振り下ろして、蜘蛛の姿がぱっと二つに裂けた。
「次いで二時! 三、二……今です!」
不意に、土蜘蛛が知らない動きを見せた。八本の足を止めて、体を持ち上げる。知らないけどわかった。
「い」
と、の音は喉からかすれた息になって漏れた。狛田先輩を捕まえていたのと同じ糸を吐いて、つぐみちゃんの足が浮いた。その口から「うわっ」と、あまりに日常に寄った声が漏れる。
「やらかしたな」
つぐみちゃんが冷めた台詞を吐いた瞬間、私の目も覚めた。まだへたり込んでいる狛田先輩の首根っこを掴んで、ハイキングコースを麓に向かって後ずさる。
「ちょ、ちょっと! どういうつもりよ!」
「先輩を逃がすんですよ!」
あわよくば私も逃げたい、と言うのは我慢して「失敗したみたいですから」と付け足す。
「ねえ、説明してよ! さっきのは何? あの子が浮いてるのと同じなの? ここ、何かいるわけ?」
「黙って。立ち上がれるなら足を動かしてください!」
ざざざ、と八本足の怪物が周囲から迫ってくるのがわかる。ぶら下がったつぐみちゃんには目もくれず、一直線に私たちを目指しているのがわかる。こんな怖い思いをするなら何もわからないほうがよかったのに!
「ねえ、あなた達ってなんなの!?」
うるさいうるさい! 今はそれどころじゃないんだって、どうしてそれくらいわからないんだろう。視えない人達はいつだってそうだ。私がどんなに真剣になったって、まともに取り合っちゃくれない。
お母さんがそうだ。お父さんがそうだった。
つるつるした登山着の襟から手が滑って、私はつんのめった。緩慢すぎる動きで、狛田先輩が立ち上がるのが、見てもいないのにわかった。
振り向いてから、やっぱりやめとけばよかった、と思う。無数の土蜘蛛が斜面を覆っていた。頼光様の土蜘蛛退治では、斬った土蜘蛛の腹の中から、千九百九十の首が出てきたって話だから、こいつらもそういうつもりでいるんだろう。
全部投げ出して帰っちゃおうかな、と思う。死んじゃったらバイト代もくそもないんだし。狛田先輩をほっぽらかして、私は下山して、駅まで歩いて。それで、お母さんとおばあちゃんしかいない家に帰るんだ。
最悪。
最後の最後に考えるのがこんなにつまらないことだっていうのもそうだし、最後に見るのが殺到する大きい節足動物っていうのもそうだった。
助けの声は上げなかった。そんな余裕はなかったし、高く上げた声を誰からも無視されることほど惨めなことってない。
覚悟を決めたのとは違う。どちらかというとこれは、諦めに近かった。どこにも逃げられない現実を受け入れる、いつもの――。
「破ぁーーーーー!」
一番近くにいた土蜘蛛がぼん、と爆ぜた。清らかさの塊が猛烈な速度を相殺して、八本足の怪物はべしょんと潰れる。
「破ぁーーーーーー!」
立て続けに除霊ビームが飛んで、土蜘蛛の群れに大きな穴を空けた。見慣れた薄いブルーの膜が私たちを包んで、そこでようやく「助かったのかも知れない」って思った。
「生きてるな」
ぜえぜえ息をしているせいで、それだけのことを言うのに、声の主はかなり時間をかけた。振り返ってみると、やっぱり、見慣れた黒ずくめの高校生が膝に手をついて立っていた。
「先輩!」
「ざけ……」
透先輩は咳き込んでから、肩から提げた水筒の中身をがぶ飲みした。口からびたびたこぼしたお茶を、手の甲で拭う。
「ふざけ……やがって。二日連続だぞ。除霊ビームも元気も打ち止めだ」
その声があんまりいつも通りで、思わず肩から力が抜ける。私は狛田先輩を離して、空中の糸玉を指差した。
「つぐみちゃんが」
「あいつなら自分でなんとかするさ。腐っても神宮のプロなんだ」
それより、と透先輩は膝をついた。しりもちを着いたまま放心している狛田先輩の肩を叩く。
「おい……おいってば」
二回、かなり強めに肩を叩かれて、ようやく狛田先輩はこっちに視線をくれた。
「よし、もう大丈夫。意味わからないだろうけど、とりあえずは安全だ」
「藤堂くん」
「そうだ。まあ、落ち着いて、これでも食べて」
先輩はリュックから板チョコを出して、バキバキに割ってから封を切った。適当な声をかけながら、狛田先輩の口に次々塊を押し込む。
「私にはないんですか」
「……」
ちょっと考えてから、透先輩はあまりのチョコをおまけみたい私にくれた。少しやわらかくなり始めているチョコの欠片を持ったまま、結界の向こう側で膜を引っかいている土蜘蛛をおっかなびっくり眺める。
糸玉はまだ、つぐみちゃんを飲み込んだままだった。
「あの、つぐみちゃんは」
「さあ……」
「さあ、じゃないですよ! 助けに行かなくちゃ!」
「まあ、ちょっと落ち着け」
先輩はまたお茶をがぶ飲みして、大きく息をついた。
「あいつは僕と違って一人前の祓魔師なんだ。ほっとけば自分でなんとかする。どの道、僕が打ち止めってのはマジだから、麓の応援が追いついてくるのを待つか、やっぱりあいつが自分でなんとかするのを待つかしないと――」
「それは」
先輩がそう言うならそうなのかも知れないけど、と思って宙吊りの糸玉に視線をやった。
「あっ」
狛田先輩が声を上げた。不意に白い塊の表面に、光の筋が走ったように見えた。
いきなり、くす玉みたいに糸玉が割れた。刀を真下に突き出したつぐみちゃんが落下して、土蜘蛛の一匹を貫かれた土蜘蛛が爆発する。
「兄さん」
つぐみちゃんの口が兄を見つけた妹の形に歪むのを、私は見た。地面から得物を引き抜いた剣士が、刃を地に垂らす。
「やばいぞ」
「なんですか、あれ」
そう尋ねた時、奇妙な空気の流れを感じた。背後から、柔らかな風が吹いてくる。背後からだけじゃない、周囲を取り囲む木々がめちゃくちゃな方向に揺れている。
残っていた土蜘蛛の動きが、止まった。その全てが訝しげに首を巡らせている。無数の視線が宙を彷徨う様子は、彼らが懸命に何かを探しているようにも見えたし、何かに怯えているようにも見えた。
「風を吸い込んでる……」
狛田先輩が呟いた。そうだ。風はつぐみちゃんを中心にして、渦を描くように集まってきている。
妙だな、と思った。
「あの剣、なんなの」
透先輩はこの質問には答えずに、ちょっと手を動かして、結界を縮小した。代わりに、私は思ったところを口にする。
「天叢雲剣……」
寺生まれが、私の言葉に少しだけ眉を動かした。
「伊勢神宮で剣と言ったら、そうですよね」
「……あれは、熱田神宮のご神体でしょう」
私はちょっと目を丸くして、狛田先輩を見た。
「良くご存知ですね。でも、勉強不足ですよ。天叢雲剣の多くは、伊勢神宮に出自があるんです」
「多く?」
「神道には御霊遷しと言って……とにかく、レプリカを神器に準ずる形代に昇華するための儀式があるんです。現在皇居にある剣も、伊勢神宮の神庫にあった剣に御霊遷しを行ったものなんですよ」
「よく、知ってるのね」
「ええ、まあ」
少し語りすぎたかな、と思った。なんだか恥ずかしくなって、顔をうつむける。
「水泳部の……いつもの奴は、近くにいるの? 結界の中に避難させるなら、今しかないぞ」
私の見ている地面に滑り込んで、幽霊が親指を立てた。お気楽な人だ。
「彰さんなら、大丈――」
言いかけた時、世界が光に包まれた。剣から力の奔流が迸り、斜面を登り、降るのがわかった。土蜘蛛たちの実体が吹き散らかされて、光の中に溶けるのがわかった。
天叢雲剣。あるいは草薙剣。つぐみちゃんの持っているのが本当にそれなら、まつろわぬ民を斬り払い、持ち主の障害を排除する本物の神剣だ。どんなに数がいたところで、土蜘蛛なんかじゃ、敵いっこないのに。
「……?」
ほっぺたをぬるい感覚が伝った。彰さんの体をすり抜けて、涙がハイキングコースを濡らす。
「千聡、ちゃん」
彰さんが目を丸くした。
「どうしたの? どこか、怪我を――」
一拍遅れて、透先輩がこっちを振り向いた。
「どした」
どっか痛いのか、と似たようなことを口にして、先輩はベルトに提げたポーチを探った。
「大丈夫です。だいじょうぶ」
泣きたい気持ちが喉につっかえて、情けない声が出た。全然大丈夫じゃなかったのはバレバレで、先輩も彰さんも、妙な顔をして私を眺めた。
ちくしょう。なんだか、無闇に悔しかった。こんなものが視たかったんじゃない。こんなものを取材したかったんじゃない。これまで“け”に載せたり載せなかったりした怪異譚は、私が……先輩もだけど、怪異と対等に向き合って手に入れたものだったはずだ。
でもこれは、これは――。
「来てたんだ」
「ああ」
つぐみちゃんの声は、私と話すときよりも幾分強張っていた。先輩の言葉も、聞いたことのない奇妙な含みを伴っていた。
「親父も兄貴も、下に来てる。まだしばらくは、上がって来ないと思うけど」
「そうかあー。早く降りた方がいいね、それじゃあ」
「そうしな」
私は涙を拭った。立てますか、と狛田先輩の手を取って、引っ張り上げる。本当ならこれからどうするのか聞きたかったけど、和やかに話す二人はなんだか近寄り難い雰囲気を出しいて、口を挟むのははばかられた。
「ねえ、お兄」
「ああー、駄目だ」
一歩踏み出しかけたつぐみちゃんを、先輩は手で制した。
「寄るな。親父どもと鉢合わせる前に下山してくれ」
先輩は私の方を一瞥した。
「今回は僕もかなり頭に来てる。ただでさえカリカリしてるのに、執行者の親父が知ったらブチ切れるぞ。仕事は済んだんだから、また喧嘩する前に帰るんだ」
「ひどい言い方だよねえ」
つぐみちゃんは他人事みたいに言った。
「鎮守の手が回ってないところを私たちが代わりにやってあげてるのに。感謝の言葉はないんだ?」
「その鎮守に雑霊掃除を押し付けて良くも言うな。僕らは神宮の使い走りじゃないぞ」
先輩が舌打ちして、つぐみちゃんのローファーが地面を蹴った。
「……本部には文書で出すよ」
「気の効かない捨て台詞だな」
話は終わりとばかりに先輩が道を開ける。不機嫌そのものの顔をして、つぐみちゃんは花道を下った。
「千聡っち、行こう」
「あ、はい」
後ろ髪を引かれる思いで麓に足を向けたとき、先輩が話しているのが聞こえてきた。
「狛田さんも」
「なんだか知らないけど……もう終わったんでしょ。なら、私は頂上まで登るわ」
「まだ、安全の確認が済んでないから。同級生じゃなくて、寺生まれの藤堂透が言ってることだと思って聞いてよ」
くっ、と生徒会長が返答に詰まるのが聞こえた。
「寺生まれがそう言うなら、仕方ないわね……」
そう言えば、彰さんの家に行った時も、含福寺の和袈裟でノーアポオーケーだった。この街にはどこまで寺生まれの力が及んでいるんだろう。改めて空恐ろしく思った。
狛田先輩と微妙な距離を保ちながら下山してみると、私たちが乗ってきたのとは別に、黒いジープが停まっていた。
ここまで運転してきたスーツの人は、運転席のドアに寄りかかって煙草を吸っているところだった。つぐみちゃんを認めるや否や、煙草をもみ消して頭を下げる。
「お疲れ様です。鎮守の連中と、鉢合わせませんでしたか」
「平気。こっちは大丈夫だった?」
「ええ。運転席の窓を叩かれた時は、面倒くさいことになったと思いましたが。そこの禰宜が、仲裁に入ってくれたんです」
スーツの人が、すぐ脇にある(本当は駐車場の方が脇にあるんだろうけど)白い鳥居を指した。
「そこに禰宜なんていたかな」
「祓魔師の登録はありませんでしたが。一般の神職の方かと」
「ふーん。まあ、何事もなかったなら良いや。車出して、帰ろうよ。私も疲れちゃった」
ドアを開いたつぐみちゃんに倣って、私も車に乗り込む。ドアを閉める時、ちょうど白い鳥居をくぐる狛田先輩と目が会った。
「……」
まあ、じろじろ見られてもしょうがない。ピカピカに磨かれた黒塗りのクラウンに、親や親戚には見えない運転手がついている。
私は申し訳程度に会釈する。ドアを閉めるのとほとんど同時にエンジンをかけて、すぐに車は高速に乗った。
「ヤなとこ、見られちゃったね」
運転席と後部座席の間には、カーテンが降りていた。シートに身を沈めて、つぐみちゃんは息をつく。
「お兄とは……うーん、含福寺の人達とは仲が悪くてさ。一応、お兄やお兄のお兄とは、血が繋がってるんだけど」
つぐみちゃんは、話に突っ込まれるのをまってるみたいだった。その程度の期待なら、応えたって全然、罰は当たらないと思う。
「じゃあ、透先輩のお父さんとは」
「あれは、母の夫ってトコ。嫌なオヤジ」
少し首を振って、先輩の妹は顔をしかめた。
「こんなこと言うから、お兄には仲良く出来ないなんて言われるんだよね。私も……」
うまくいかないなあ、とこぼして、つぐみちゃんは顔を伏せた。私は窓の外になにか素敵な看板を見つけた振りをして、顔を背けた。
こういう時に知った風な口を効かれるのはむかつくものだし、このまま彼女を見ていたら、知った風な口を効いて慰めたくなる気持ちに抗える自信はなかったから。
車で最寄り駅まで送ってもらった後、私はだらだら家に続く道を歩いた。
「類は友を呼ぶ、なんて言いますけど。私のそばに、全うな家族のいる人はいませんね」
遠ざかる車の尻を見送りながら、黙りこくっていた彰さんが振り向いた。
「それ、私に言ってる?」
「他に誰がいるんですか」
冬柴家の娘は肩をすくめた。
「完璧に幸せな家庭なんてのは、どこにもないのよ。私たちが聞かれてるだけで」
夕焼けの朱が半透明の体に透けて、彰さんはガラス細工みたいに綺麗だった。その姿と同じくらい、その言葉は現実的じゃなかった。
私は「そんな割り切りは死人にしか出来ませんよ」って台詞を飲み込んで、「そうですね」ってうなずいた。それからは、服についた泥の落とし方とか、夢中で撮った写真が上手に現像できるかどうかとか、透先輩の私服のセンスとか、どうでもいい話をたくさんしながら、帰った。
この日の晩御飯はから揚げと大学芋と、山盛りのキャベツ。味噌汁は大根とわかめを入れた。なんだかすごく揚げ物がしたい気分だったけど、おばあちゃんにはちょっと酷だったかも知れない。
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