其之四 真弓千聡の日記 #7
5月2日 あめのちはれ(承前)
私の知り合いだってことで身元が確かになって、狛田先輩が本当にただの登山客だと分かると、つぐみちゃんは刀を鞘に納めた。「不手際だな」と呟いて、狛田先輩に向き直る。
「あんたは、登山?」
「そうだって言ってるでしょ」
「一人で?」
「悪い? 私が誰と遊ぼうと遊ぶまいと、関係ないでしょう」
大体そう言うあなたは誰よ、と最もな台詞を吐いて、狛田先輩は下からつぐみちゃんを睨めつける。斜面の上と下から二人に挟まれた私は剣呑な雰囲気を両手で押しのける。
「まあまあまあまあ……」
ギシリと私を見て、狛田先輩は舌打ちした。
「もういいわ。さっさと行けば」
「え?」
「私はここで一休みしてから行くつもりだから。あなた達と一緒に登るつもり、無いのよ」
「やめときなよ」
つぐみちゃんが底冷えする声で言った。顔を歪めて、狛田先輩が応じる。
「はあ?」
「下山しなよ。悪いこと言わないから」
「……別に、一緒に行こうなんて言ってないでしょう。それぞれ勝手にすればいいじゃない」
「そうも行かない。危ないんだよ、この山は」
つぐみちゃんの歯切れは悪かった。幽霊がどうだ土蜘蛛だどうだなんて話、存在を知らない相手に話したところでまともに取り合ってもらえるわけがない。
それに――。
「なら、あなた達は降りれば。私は頂上を拝んで帰る」
山にいて危ないと言うなら、危ないと言うヤツが山にいるのはおかしいのだ。専門家でもなんでもない学生なんだから。
「やめとけって言ってるだろ。純粋に心配して言ってやってるんだぞ」
つぐみちゃんの口調があからさまに苛立って、声は高圧的な響きを帯びる。狛田先輩は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「あっそう。気持ちだけ貰っておくわ」
じゃあ、私はもう行くから。狛田先輩はそう吐き捨てて、つぐみちゃんの横をすり抜けた。「待ちなよ」と肩に置かれた手を振りほどいて、づかづか山道を進んでいく。ハイキングコースとは言えソロ登山をするだけあって、その足取りは私よりずっと軽快だった。
「ったく、くそ」
狛田先輩の後姿を一瞥してつぐみちゃんは舌打ちし、さらに舌打ちした。怖い。
「どうしますか」
「……どうもしない。このままコースを進みながら、敵を探す」
「狛田先輩の後をついていくことになりますけど」
「仕方ないね。癪だけど」
つぐみちゃんは肩をすくめた。
「今の私たちにはあの馬鹿を納得させられるだけの説明は出来ないし、下山を強要させられるだけの力もない」
思わず、つぐみちゃんの携えた刀に目をやった。
「力がない?」
「……まあ、あるけど。人一人運んで下山するパワーはないんじゃないかなあ」
「あ、そういうことですか」
「それに、私も神宮の執行官だからね。本当に何も知らないパンピーなら、ちゃんと守ってやらなくちゃ」
へえ、と思った。彰さんは実際に「へえー」と声を出したので、私はまた身構える。喧嘩はあんまり、好きじゃない。喧嘩にならなくたって、秒読みみたいにギスギスしているのも嫌いだ。
「思ったよりマトモな神経してるのね」
「別に」
彰さんに話しかけられてるのに、存外つぐみちゃんは軽い調子で返した。
「お兄ならこうすると思っただけだよ。わかるでしょ」
そうなの? と言いたげな彰さんにうなずいて見せる。
「そーですね」
先輩ならもっと理屈をこねたり、やりたくなさそうなポーズをとりそうだった。でもなんだかんだ言ったところで、最終的には「破ぁー!」するはずだ。そうじゃなきゃ、私は三回か四回は死んでいる。
そう言うと、つぐみちゃんはちょっと寂しそうな顔になって、何か呟いたようだった。思い返せば、あれは「いいなあ」だったのかも知れない。
思い返せば、っていうのは、聞き直す前につぐみちゃんが走りだしてしまったからだ。視線を前に振り向けてみると、さっきまでいた狛田先輩の姿が無い。
立ち止まったつぐみちゃんが刀を抜いて、地面を蹴った。枝をしならせて立ち木に踏ん張ると、葉の中に向けて刃を振りぬく。
暑い五月の陽気に茂った葉を突き抜けて、白い塊が落下してきた。
「千聡ちゃん、こっち来て。離れすぎると、よくない」
勝手に走り出したつぐみちゃんはすとんと着地して、私を呼んだ。私の背中に隠れていた彰さんが、肩から顔を出して目を細めた。
「何かしら、あれ」
「雪だるまみたいですけど」
つぐみちゃんは雪だるまに向けて、何度か刀を抜き差しして、それから切っ先で空中を指した。
「きみ……きみ!」
「彰さんならこっちですよ」
「あ、そう。じゃ、ちょっと手伝って。これを引っぺがさないと」
「私、物を動かす系はちょっと――」
「あ、私も手伝いますよ」
つぐみちゃんは私を手で制して、「千聡ちゃんは触らないで」と釘を刺した。
「どの道触れないけどね。用心用心。幽霊のあんたは、そっち抑えてね」
抜き身を水平に構えて、つぐみちゃんが腰を落とした。私が思わず後ずさりするのと同時に、慎重な切っ先が季節はずれの雪だるまを貫いた。
「うわっ!」
雪だるまはぶちりと音をたてて、たちどころに割れた。釈然としない顔で白い塊を引っ張っていた彰さんが、空中にひっくり返る。同時に生暖かい湯気を上げる液体が地面にこぼれて、色鮮やかな“中身”が桃太郎よろしく転がり出た。
「狛田先輩!」
「まあ、予想通りだねえ」
つぐみちゃんは軽くうなずいて、刀を納めた。地面に膝をついて、咳き込んでいる狛田先輩の背中をさする。それから腰に吊るしたポーチを探って、パックのお茶を取り出した。
「ゆっくり息を吸って。落ち着いたらこれ飲んでね。そしたら――」
狛田先輩は口からぬるぬるした透明な液体を吐いた。つぐみちゃんはさりげなく足を動かして、スカートを避ける。私はさらに一歩後ずさった。
「……吐くからね。千聡ちゃんと……千聡ちゃんたちは、触らないように気をつけて。普通の水じゃないから」
「何か、手伝いますか」
「警戒しといて」
つぐみちゃんは短く言って、ポーチから取り出したお札を狛田先輩の背中に貼り付けた。
「警戒って」
私は彰さんに視線を向けた。顔を見合わせることになると思ったのに、水泳部の幽霊はさっき自分が引き剥がした白い塊を夢中で触っている。
「何してるんですか」
「すごいわ、これ! 私でもちゃんと触れる!」
彰さんは新しいおもちゃを買ってもらった子どもみたいな顔をして、白い塊をばりばり引き裂いた。細かい繊維の欠片が宙を舞って、私はようやく雪だるまが糸の塊だったことに気づいた。
「ああ、壊れちゃった」
どこか満足げにそう言って、彰さんはがちがちに固まった糸玉の欠片で腕の皮膚を引っかいた。本人は気づいてないみたいだったけど、つぐみちゃんが言ってた幽霊論は彰さんにも当てはまるらしい。
彼らは、触覚に飢えている。
「すごい糸ね。これ、蜘蛛が吐き出したのかしら?」
血なんて流れてないくせに頬を上気させて、彰さんが他人事みたいに言った。
「だとしたら、とんでもないでかさですね……」
心の警戒レベルが勝手に引き上げられた。特に蜘蛛がどうってわけじゃないけど、大きい節足動物は好きじゃない。シャコとかザリガニとか、もちろん虫もそうだ。
昔住んでいた家は、海に近かったから、フナ虫を見かけることも多かった。見かけで言えば海に住んでる“G”みたいなもので、寝床にいると一気にテンションが下がる生き物だった。
「布団に入ってくるの?」
「時には。あいつらも私たちの知らない所で勝手に生きててくれればいいんですけど。いつもは気にも留めてないような壁に、不意に視線を向けた瞬間、あいつらはいるんですよ。ちょうど――」
ごそり、と茂みが動いた。真っ黒な八つの目と、私の二つの目が合う。
頭から血の気が引いた。でかい。小さめのトラックくらいの大きさの蜘蛛が、目の前に顔を出している。殺虫剤を探して首をめぐらせて、彰さんが私と同じ顔で固まっているのを見つけた。
「つぐみちゃん……」
「わかってる。刺激しないで」
視界の端で、祓魔師が消えた。一陣の風が吹いて、視界の反対側に少女が着地する。
「ち」
つぐみちゃんが舌打ちしたのがかすかに聞こえた時、目の前で巨大な蜘蛛が崩れ落ちた。
「くそ、雑な太刀筋! ねえ、ちゃんと斬れてる!?」
「ばっちりですよ、全くもう!」
「そう!」
つぐみちゃんは満足げにうなずいた。
「まあ手ごたえはあったからねえ、もちろん。何しろ見えないもんだから……千聡ちゃんが頼りなの、本当なんだよ。警戒してって言ったんだから、視えるもの全てを報告してくれないと」
「無茶言わないでください」
「無茶じゃないって。もっと、こう……化け物だけを視る目にするんだよ。網膜が光を捉えるより先に、感覚の眼で敵を捉えるわけ。きのこ目ってわかる?」
私はかぶりを振った。
「そう。じゃこの話はやめにしよう。部屋の掃除をする時のことを考えてみて」
「きのこ?」
「時のこと、ね。ふと思い立って掃除を始めると、それまで気にならなかったゴミがメチャクチャ気になって見える経験、ない?」
うーん。正直、あまり釈然としない例えだった。でも、つぐみちゃんの顔は「あります」っていう答えを期待していたし、別にわからない話ってわけじゃない。
これだけのことを一瞬で考えてから、私は力強くうなずいた。
「あります」
「いいね。それと一緒なんだ。概念にピントを合わせるんだよ」
つぐみちゃんは指をピシリと立てた。
「さあ、理論はわかったかな? 悪いけど、あとは実践で覚えてね」
「他の人も、こんな風にやってるんですか……?」
私は困惑して、思わず辺りを見回した。斜面の上で黒い液体まみれの刀を提げたつぐみちゃんに言われるがままにレッスンを受ける私を、彰さんと狛田先輩がおっかなびっくり見上げている。
つぐみちゃんはそれを全部、冷めた表情で見下ろした。
「生きて帰ろうとするなら、本気でやらなくちゃ。特に、千聡ちゃんみたいに力が強いだけの手合いはね。自分の能力を把握して、制御するんだよ」
目の前、山頂の方から、巨大な何かが地を這う気配が伝わってきた。つぐみちゃんが微笑を浮かべる。
「さあ、寄って来るぞ。今ので私たちの位置がばれたんだ」
「今の、って」
「そこに転がってるヤツだよ。まだ転がってるかなあ」
つぐみちゃんが派手に切り裂いた土蜘蛛の死体なら、まだすぐそこに転がっていた。黒に近い青の地を流して、長い足をまだ痙攣させている。ガラス玉のような八つの目には、顔をしかめる私自身が映っていた。
「まさか、わざとやったんですか!?」
「ひどいなあ、そこまで悪辣じゃないよ。寄ってくるかもしれない、とは思ってたけど」
「わざとじゃないですか! すごい数が来ますよ、逃げないと!」
まだへたり込んでいる狛田先輩のところに駆け寄りかけて、白刃に行く手を遮られる。つぐみちゃんが立てたままの指を振って、ちっちっち、と舌を鳴らした。
「その“すごい数”の解像度を上げるんだ。どの道こうなりゃ、向こうも逃がしちゃくれない。観念して、どこから何がどれだけ来てるか報告してよ」
お兄とも、そうやってるんでしょ?
「それは――」
別に、透先輩とはそんな風な役割分担をしたことはない。なんとなくぶつかった怪異を撮影して、いざとなったら先輩が「破ぁー!」して……なんとなく切り抜けてきたんだから。
だから、いきなり霊視者としての私を期待されたって、そんなの――。
「千聡ちゃん」
私の背後で、今の状況には不釣合いなほど落ち着いた声が響いた。
「彰さん」
「大丈夫。これまでも何とかなってきたじゃない。それに、無茶振りはあなたの得意技でしょう?」
指先でまだ蜘蛛の糸をいじっている彰さんに、思わず絶叫した。
「私が得意なのは振るほうですよ!」
ほとんど同時に藪を突き破って、最初の土蜘蛛が姿を見せた。
「十時、十時半です!」
く、とつぐみちゃんが笑った。きら、きらと二回、空中に光が走った。
見えない壁にぶち当たったみたいに大質量がつんのめって、青黒い爆発を引き起こした。あっという間に二匹、まつろわぬ民の化身が砕け散る。
「いいじゃんいいじゃん! その調子で行こう!」
耳を澄ませて、敵の接近を感じる。
「九時、十時、三時です。同時に来ます」
「……気合入れてね。私たちの安全は千聡ちゃんの双肩にかかっている!」
ばっばっ、と刀が振るわれて、土蜘蛛の死体が私たちの横を滑り落ちていく。「なんなのよ……」と呟いたのは狛田先輩だった。
「大丈夫。なんとかなります、なんとか……」
不意につぐみちゃんが振り向いて、例の微笑を浮かべた。
「“なんとか”はしないでいいからね。千聡ちゃんは、視るところまででいい。見つけてくれさえすれば――」
つぐみちゃんは、三時方向から飛び出してきた蜘蛛をノールックで斬って捨てた。
「あとは私が、全部斬る」
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