其之三 真弓千聡の日記 #6
5月2日 あめのちはれ(承前)
「さっきの話だけど」
すっかり機嫌を直したつぐみちゃんは、のんびり言った。
「確かに今、ちょっとこの街はおかしいんだよね」
「そう……なんですか」
思わず返事が遅れた。彰さんに向かって刀を抜こうとしていた印象は、一分や二分で拭えるものじゃない。名前で呼ぶようになったのに、返って私たちの距離は開いたみたいだった。
「これ見て」
つぐみちゃんはさっき見ていた桐の小箱を突き出した。蓋の開いた中には丸いガラスがはまって、その向こうでコンパスの針みたいなのがくるくる回っている。
「なんですか、これ」
「霊位計。この針が敵の位置を教えてくれる。かなり近くまで寄って来てるやつ限定だけど、斬るには結構重宝するんだよね」
私は彰さんのほうを見て、それからコンパスの針を見た。彰さんは私の後ろ、一メートルも離れてない。コンパスは狂ったように回っている。かなり近くって、どのくらいなんだろう?
「……まあ、お察しの通り、今は使い物にならないんだよね。こっちに来てからずっとこれで、そこら中に反応してる」
「今は何も、視えませんけど」
「私にも聞こえてないよ。雰囲気とか空気とか、気づく人なら気づくかな、ってレベル。それがT市じゃ、あり得ないほどに濃い。特にこの辺はやばいね、まだ山には入ってないのに」
耳を澄ましてみなよ。つぐみちゃんが霊位計をしまって、面白そうに言った。
私は彰さんと目を見合わせた。彰さんはふるふると頭を振ったけど、私はつぐみちゃんの刀のことを思って、目を閉じた。
ひそひそとした声が聞こえる。のどかな田んぼに風が吹きすぎていく爽やかな音の向こうに、こちらを見ている誰かの噂話。
少しずつ、耳のピントがあっていく。不意に、囁き声から意味のある言葉を捉える。
――――――んでわかったの」
カラカラに乾いた喉から、絞り出されたような声だった。
バケツいっぱいの氷水がぶちまけられたような冷たさが体を走り抜けた。目を閉じて少しうつむいた私のつむじを覗き込むようにして、誰かがすぐそばに立っている。
「来たね」
浮き立つような声で、つぐみちゃんが言った。私は、嫌なものに見初められた時のいつもの対応……それ以上の反応を返さないように、ただ身を固くしていたと思う。
「思ったよりごっついのが来たね……目は開けないで。でも、シャッターを切るなら今だよ」
手ががたがた震えて、でも私は突き動かされるように首からかけたカメラを探った。レンズのキャップを外して、シャッターを巻く。
暗闇の中で、何かの息遣いを聞く。私はシャッターを切った。
「やるね。じゃ、一歩下がって」
つぐみちゃんの言葉に従った直後、一陣の風が吹いた。
「もう大丈夫。目、開けてもいいよ」
すでに気配は消えていた。つぐみちゃんが微笑しながら立っているのが見えた。片手には抜き身の刀を提げている。
「……斬ったんですか」
「そうだよ。この辺で呼ばれてくるようなやつは雑魚だからね。一人でも十分やれる」
怖気づいた? とつぐみちゃんが言った。私に尋ねたんだとわかるまで、一瞬間が空いた。
「千聡ちゃん」
彰さんがまた、心配そうな声を出した。私はそれで、二重にムカついて、ちょっとつぐみちゃんを睨み付けた。
「こんなのでびびるわけ、ないじゃないですか。『け』は実録冊子ですよ」
つぐみちゃんがふっ、と笑った。
「頼もしいなあ。千聡ちゃんみたいなのが何人か眼方にいればねえ~」
刀を納めて、つぐみちゃんは私を促した。今度は、つぐみちゃんの数歩後ろをついていくことにする。
正直なところ、この時、私は内心かなりびびっていた。つぐみちゃんは同じ祓魔師でも先輩とはまるで違う。先輩なら、間違ってもこんな“遊び”はしなかっただろうし、私がやろうとしたら全力で止めたはずだ。良くも悪くも、つぐみちゃんは場慣れしているということなんだろうか。
もちろん、今のは私を試す意味もあったのかも知れないけど。つぐみちゃんの話が本当なら、今回“目”の果たす役割はめちゃくちゃ大きい……。
「大丈夫、疲れてない? そろそろKヶ峰に入るし、一休みしようか」
返事を待たずに、つぐみちゃんは林道の端にどかんと腰を下ろしていた。朝からの雨で、道は少なからず湿っている。
「千聡ちゃんは、こっちに座りなよ。ハンカチ敷いたげたから」
「……どうも」
私のぶんはー? とぶつくさ言う彰さんには「その辺にしておいてください」と言って、地面に腰を下ろす。あんまりつぐみちゃんを刺激しても、またどうなるかわからない。
けど、当のつぐみちゃんは気にしてない風で、腰の脇にぶら下げたポーチからおにぎりを出してムシャムシャ食べていた。口の周りにご飯粒をくっつけたまま、私にもいくつか、おにぎりのパッケージを渡してくれる。
「これ、千聡ちゃんの分ね」
コンビニで売っている、梅干と昆布のおにぎりだった。嫌いじゃないけど、選ぶ権利は無いのか、と思う。
「ごめん、こっちに来た時まとめて買ったやつだから。苦手ならどっちか、取り替えられるよん」
つぐみちゃんはソーセージマヨにぎりと納豆マヨにぎりを出して、ついでにパックのお茶も出した。
「……いいです、これで」
私はそれ以上勧められるより先に、おにぎりを口に押し込んだ。どうしても腹ごしらえしないとならないなら、無難なものをお腹に入れたい。
「おかわり、要る? 終わったらチョコがあるけど」
「今は、いいです」
「そお? 腹ごしらえは今のうちにしといたほうがいいよ。無理強いはしないけど。山に入ったら、余裕があるかわからないから」
私はパックのお茶を飲み干して、もう一つパックのお茶を貰う。日差しは結構強いけれど、朝まで降っていた雨と茂った木の葉のお陰で、そんなに暑くない。それに、Kヶ峰は小学生が遠足で来られる程度の山だ。
だから余裕がなくなるというのは、体力だとかそういう話ではなくて……。
私は行く手の山の中を見やった。一応は車が通れそうだった林道は、最後の駐車場を越えてからぷつりと途切れて、かなり険しい山道に取って代わっていた。麓からずっと着いてきていた囁き声は、その時も遠巻きに存在を主張してきているけれど、これから進む山道の方にはそれすらない。
不自然なほど静かな道が、これから行く先に広がっている。
「ヤな感じ。まともじゃない幽霊ばっかりよ、ここは」
所在なさげにぶらぶらしていた彰さんが戻ってきて耳打ちした。おにぎりを流し込んだ喉に、ぐっとしこりが生まれたようだった。
「ああー、ゴミはこっちで集めるからね。帰ってから捨てるから、その辺に置いてっちゃ駄目だよん」
ゴミ袋代わりのレジ袋を縛って、つぐみちゃんは「行くよ」と立ち上がった。正直これまで足を踏み入れた危ない場所の中では一番行きたくない感じが強かったけど、ここまで来ちゃったからには仕方なかった。
「少し冷えるなあ」
山道を歩き始めて、すぐにつぐみちゃんが言った。最近の気温は五月にしては暑すぎるくらいだけど、山の気温は五月にしてはどう考えても寒すぎた。
「千聡ちゃんは何か感じる? 私は何にも聞こえないんだよねえ」
コンパスも駄目だし、と半ばぼやくように付け加えたつぐみちゃんに、私はかぶりを振って見せた。
「何も視えないし、聞こえません。さっきまでは」
「ああ、結構着いてきてたよね。山には入って来たくないみたいだ」
もしかして、君もそう? と、つぐみちゃんが珍しく彰さんに水を向けた。水泳部の幽霊は露骨に顔をしかめて見せたけど、つぐみちゃんの言うとおりならその顔は私にしか見えてなかった。
「……さっきまでと、随分違うじゃない。どういう風の吹き回しかしら」
「今、雑魚にかまけてる余裕ないから。色んなやつの所感が欲しいんだよね。この辺じゃ、幽霊は調子よさそうじゃないの」
「まあ、過ごしやすいのは確かだけど」
「幽霊の調子が良い場所って、どういうことです?」
幽霊の周囲の環境なんて、一番どうでも良さそうな話だった。彰さんは雨でも晴れでも暑くても寒くても、傘を差したり着替えたりしないで平気そうにしている。
前を歩いていたつぐみちゃんが、ちらりと私を見た。
「幽霊には身体が無いの、わかるよね」
「それは、まあ」
「千聡ちゃんのオトモダチはかなりハッキリ自分の形を持ってるけど、そうゆーやつは少ないんだよね。意識だけの幽霊が、生きてたときと同じ形を保つのは難しい……」
「わかります」
動物霊だと思った相手が、人間の言葉を話しているのを何度か見たことがある。あるいはもっとわかりやすく、ヒトの特徴を残しながら姿を変えてしまった手合いも。
「ああ、そりゃ私より良く知ってるよね。釈迦に説法だったかなあ」
つぐみちゃんはよいしょ、と木の根っこをまたぎ越した。
「まあ、とにかく。幽霊連中の存在はひどくいい加減なわけ。意識が彼らの本質だけど、それも不確かなものだし……あいつらは自分の存在を感じられる外界からの刺激に、総じて飢えてる。特に、他人とのコミュニケーションと、触覚かな」
「そうなんですか」
彰さんは首を捻った。
「自覚したことはないけれど」
「そりゃ、こんだけ強力な霊視者がそばにいりゃ自覚する間もないだろうけど」
ちょっと気勢を削がれたみたいに言って、つぐみちゃんは私が根っこを越えるのを手伝ってくれる。それからえへん、とわざとらしい咳払いをして、続けた。
「で……幽霊にとっての強い刺激ってのは、生者とのお話の他にも色々あってね。霊体への干渉もその一つ」
「れいたい?」
「幽霊の身体。肉体と違って現世の感覚には鈍いけど、エネルギーの流れには敏感なんだ」
「へえー」
うなずいてから気づいたけど、こういう場所で説明を聞く側になるのは初めてだった。
「所謂パワースポットだとか“出る”って噂のある場所は、人の念が集まって幽霊の大好きな力の流れが渦巻いてる。今のKヶ峰もね」
だから、この辺にだって妙なのがうろついてておかしくないんだけど――。
つぐみちゃんが不意に口を閉じて、私の手を離した。どん、と土を蹴る音がして、ほこりっぽい風が巻き起こる。
「何をしている!」
耳元で大声が聞こえて、ブレザーとスカートの下に長ジャージを履いたつぐみちゃんの姿が消えた。
「千聡ちゃん、あっち!」
彰さんの指差す方に首をめぐらせて、再出現したつぐみちゃんを見つけた。斜面の下、私がいるのとは違う登山道に、淡いパステルカラーの登山着を身につけた人がいる。
……今は、つぐみちゃんに首根っこを掴まれて、中空に持ち上げられていた。
「ちょ」
つぐみちゃんを止めなくちゃ、と思った。でも、走って行くには斜面は険しすぎるし、茂みは深すぎた。大体隣の登山道と言ったって、普通ならそう簡単に飛び移れるような距離じゃない。頭がくらくらしてきた。
「千聡ちゃん、ちょっと登りましょう。途中の合流地点から引き返せば、あっちの道に入れるから」
「詳しいですね!」
「生きてたときに、何度か登ってるからね。ほら、頑張って」
持つべきものは人生の先輩で、こういう時はいつだって頼りになる。頼りにならないのは自分の体力だけで、この時にはもう、私の息はすっかり上がっていた。
それらしい合流地点から、来たのとは違う道を選んで麓に向かって引き返す。
ぜえぜえ言いながらつぐみちゃんの背中を視界に捕らえたのは、彼女が登山客を地面に放り出すのと同時だった。
「その、人」
「ん。フツーの人間だね」
遠目にはわからなかったけど、捕まえられていたのは私やつぐみちゃんと同じ年頃の、女の子だった。派手に咳き込んで顔を上げた目には、涙が滲んでいる。
「なんなんですか、あなた達! いきなりこんなことして、ただじゃ済みませんよ!」
しりもちをついた姿勢から後ずさって、女の子は立ち上がりかけた。斜面の上からそれを見下ろして、つぐみちゃんは刀を持ち上げる。
「つぐみちゃん……ちょっ、と」
「慎重に言葉を選んだ方がいいよ。どうやって山に入った? 入山規制が敷かれてるはずなんだけど」
女の子は泣きそうな顔になった。
「ええ? 知らない、そんなの! 表示も何にも、なかったわ!」
「どこから登ってきた」
刀はまだ鞘に収まっていたけれど、つぐみちゃんの手はもう、柄にかかっていた。
「どこから」
地獄の底から響くような声だった。生身の人間が殺されるかも知れないのに、私も彰さんも、つぐみちゃんの後ろから飛び出せなかった。
女の子の視線が私のそれとかち合った。次に彼女が口を開いたときには、声にふてぶてしさが宿っていた。
「なんの遊びよ、これは。私は古墳のほうから全うにCルートで登ってきたの。あなたたちなんかに咎められる謂れは無いわ」
「入山禁止の札は?」
「知らない。ねえ、そっちのあなたはT高の子でしょう。オモチャを持って山を登るのも、活動の一環ってわけ?」
「あ、え……」
「藤堂くんの後輩でしょ、写真部の。ちょっと悪ふざけが過ぎるわよ」
つぐみちゃんが私を一瞥した。
「知り合い?」
ええと、向こうは私のことをそう思ってるみたいだけど、私には全く心当たりが無かった。先輩の名前が出てきたってことは、その関連で会った人の、ような。
「あ」
不意に、全校集会の記憶が蘇った。体育館のステージの下で、司会と進行をやっている声。それから、思い出したくも無い、ジャグリング部に部室を乗っ取られかけた時に助けてくれた先輩……透先輩じゃない、女の先輩の顔。
メガネを外した女の子の顔が、記憶の中の顔と重なって、私は顔をしかめた登山客の名前を思い出した。
「狛田史、先輩……でしたっけ。生徒会長の」
ふうっ、と息をついて、狛田先輩は汗を拭った。
「一発で思い出してよ。部室の件じゃ、ちょっとは骨を折ったんだから」
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