其之ニ 真弓千聡の日記 #5
5月2日 あめのちはれ
また、嫌な夢を見た。お父さんに怒られてる時の夢だ。顔は真っ黒で見えなかったけど、私にはお父さんだってわかった。小さい頃の記憶そのままだったから。
それからお父さんは私を不出来な部下になぞらえて、また何度か私の頬を叩いた。お父さんは昔のままだったけど、私は今の私で、お父さんはろくでなしだってことを知っている。夢の中で、私は痛みの無い暴力を受け続けていた。
お父さんは「なんでお前はいつまで経っても馬鹿なんだ」って言いながら私を叩いて、泣き出した。目と鼻と口から黒いどろっとした液体が流れ出して、白い床にボタボタ垂れた。
それから首がぐるりとねじ切れて、地面に落ちた。
崩れ落ちたお父さんの首から下を受け止めたとき、目が覚めた。暑くもないのに、身体中にびっしょり、汗をかいていた。
あり得ない話だ。お父さんは首を吊って死んだ。最初に見つけたのは、小学校から帰ってきた私だった。
「大丈夫?」
って声をかけてきたのは、彰さんだった。幽霊は眠らない。うなされてるのを聞いて、来てくれたんだって。死人の夢で飛び起きたのに、死人の姿を見て私はすごく安心した。
「大丈夫です」
これは本当にそう答えて、机の電気だけ点けて、とりあえずこのことだけは書いておくことにした。明日……っていうかもう今日になっていたからこのページに書いたけど、今日は津守さんと山に登るから、しっかりめに眠っておかないといけない。
二度寝の時は夢を見ませんように。もしくは、いい夢が見られますように。
今日は七時に起きた。結局あの後、夢は見なかった。
八時半にT駅まで出て、津守さんと合流した。ここまでは予定通り……っていうか、普段の撮影会と変わらなかったんだけど、黒塗りのクラウンから
「よ」
って津守さんが現れたときはかなりびっくりした。おまけに私にも乗れって言うんだから、よっぽど帰ろうかと思った。
「やっぱり帰らない?」
怪しすぎるってば、って言ったのは彰さんだったけど、そう思ったのは私も一緒だった。
「言いたいことはわかるけどさ、仕方ないんだよねえ」
見かねた津守さんがそう言って、説明してくれた。これから向かうKヶ峰は、ここからだとかなり距離がある。そうでなくても交通の便が悪くて、電車で行こうとするとかなり歩かなきゃならなくなる……らしい。
「そうなんですか?」
「っていうか、千聡ちゃんはこの辺の子じゃんか? 小学校の頃とか、遠足で行くんじゃないの?」
「私の代は無かったです」
「ああー、そうなんだ。ま、いいから乗ってよ。取って喰おうって話じゃないんだからさあ」
津守さんがドアを開けて、私は結局、ためらいながらも車に乗った。座った途端にシートがふかっと沈んだ。足元も広くて、うちの軽自動車とはまるで桁違いなんだってわかった。
昨日と同じに黒ずくめの男の人が運転席に座っていて、すぐに車を発進させる。
いつも歩いて通っている通学路が、車窓の向こうに流れていって、ちょっと不思議な気持ちになった。車道から見る風景は、歩きで見る景色とほとんど変わらないはずなのに、全然別物みたいだった。
「でさあ」
心底だるそうに体をシートに沈めて、津守さんが口を開いた。開いたまま固まって、女の人は……先輩の妹だから私と同じくらいのはずなんだけど、あんまりそういう感じはしない……髪の先をちょっといじった。
「どこから話したらいいのかなあ。ああ、まだ部外者なんだよねえ」
一人で納得して、津守さんはドアのところについているスイッチをいじった。左右と後ろの窓にカーテンが下りて、小学校の修学旅行で乗った新幹線みたいに助手席の背の板が倒れた。
「神風タレント並でしょ。神宮でも結構すごいんだよ、これ」
そう言いながら、津守さんは運転席の背からファイルを出して、私にプリントを渡した。
「これ、契約書ね。ここにサインと、はんこ。こっちには給料の振込口座、書いて」
変なことは書いてないと思うけど、と津守さんは言ってたけど、私はぺらぺらの契約書を何度も読んだ。でも、何が変なことなのかわかるものでもなかった。何しろこんなの、初めてだから。
「……まあ、所詮は一日アルバイトの契約だから。昔は無しでもいけたくらいだし」
「今は、駄目なんですか」
「うるさいんだよね、最近は。時間かかるなら、明日でも明後日でもいいよ。持ち帰ったっていいし」
津守さんはこう言ったけど、私には持ち帰る気なんてなかった。お母さんに見つかったら、何を言われるかわからないし。結局、
「どう思いますか?」
って彰さんに聞いてみたけど、返ってきたのは
「別にいいんじゃない、サインしちゃえば」
なんて、ろくでもない答えだった。
「だって、本当に普通のことしか書いてないもの。ここで一番重要そうなのって、振込口座でしょう。ここの番号は神宮の人が振るみたいだし」
津守さんが「そおだよ」とうなずく。
「バイトなんて、どれも同じようなモンなんだから。最悪、私とお兄たちから物言いすれば、なんとでもなるし」
ボールペンを持ち上げて、急に足元がおぼつかない気分になった。みんながみんな、私を騙そうとしている気がする。でも、確かに変なことが書いてあるようには見えなかったし、思い切ってサインを書いて、『印』のところには『真弓』とだけ書いて丸をつけた。
「はい、どーも。長くかかったお陰で、もうすぐ着くよ」
クラウンはインターチェンジを降りて、のどかな……悪く言えば何も無い田舎の道に出た。『Kヶ峰登山口』の標識を片目に、運転席で男の人がハンドルを切る。
「今日は、他の人は来ないんですか」
窓の外を眺めていた津守さんは、一瞬遅れて顔を上げた。。
「え?」
「昨日は、たくさんスーツの人がいましたよね」
「ああ。みんな、他所に行ってるよ。思ったよりあちこち、ガタが来てるみたいでさ。ほんとは、もっと応援を呼びたいところなんだけど、あんまり良い顔しないから」
「……それは、含福寺の人たちが、ってことですか」
まあね、と津守さんはため息をついて、カップホルダーの水をがぽんと煽った。
「だから、あなたみたいな一般人の手も借りたい状況ってわけ。悪いけど」
それは別に、悪い話じゃなかった。ちょっと視て、写真を撮って、お金にもなるなら私には言うことがない。
「まあ、そんなに身構えなくても大丈夫。私がちゃんと守ってあげるから」
津守さんは座席の下から、細長い包みをこれ見よがしに取り出した。昨日振り回していた日本刀が入っているに違いない。
「そこは心配してませんよ。先輩の妹さんなんでしょ」
「……まあね」
津守さんは始めてちょっと嫌そうな表情になって、私はなにかまずいことを言ってしまったのかな、と思った。
「車酔い、平気なほう? ブリーフィングするから、これ見てね」
でも、津守さんは切り替えが早かった。すぐに元の眠たそうな顔になって、新たなプリントを取り出した。ほんとは、ペンを握った辺りからちょっと気持ち悪かったけど、自分と津守さんに嘘をついて「大丈夫です」って言った。
プリントには……あ、レジュメって書いたほうがかっこよかったかもしれない。レジュメには、虎柄の大きな胴体に、虎の頭とばったの足がついたような生き物と、平安時代みたいな格好をした武者の姿が描かれた絵が載っていた。
「土蜘蛛ですね」
「お、詳しいね。ほんとに好きなんだ」
「まあ……そうです」
思わず声が小さくなった。
「知ってるなら、改めて説明するまでも無いかもだけど……今日の相手、私は土蜘蛛だと思ってる。担当の眼方から目撃情報がいくつかあって、こないだ入山規制を敷いたとこ。まあ、ここまではフツーの対応ね」
「普通の対応ですか」
津守さんは横目で私を見て、付け加えた。
「ウチの基準なら、ってことだけど。ページめくって」
次のページは、文ばかりだった。ざっと読んだところ、八束脛の話がまとめてある。
「やつかはぎ、って言うのは――」
「土蜘蛛の別名、ですよね。それで、津守さんが呼ばれたんですか」
八束脛は、八束……とにかく、長い脛を持っているという意味だ。かつて大和朝廷への基準を拒んだ人々を指した言葉。今でこそ妖怪扱いだけれど、かつては土蜘蛛も八束脛と同じに、そういう地方勢力を指した呼び名だった。
「鋭いね。まつろわぬ民の末路は、斬殺刑と決まっている。頼光さまの土蜘蛛退治でも刀を使ってるしね」
ふふ、と笑って、津守さんはレジュメを置いた。
「説明しなくていいなら話は早い。私と土蜘蛛は相性ばつぐん、まともに当たれば負けはない。あなたにやってもらいたいのは、
さっきも聞いた言葉だった。
「なんですか、それ」
「そのまんま。いつも通りに視て、私に伝えてくれればいいよ。お兄とやってるときみたいさ。余裕があれば、記録もやっちゃって」
津守さんは運転席の背から、フィルムを一本取り出した。
「これも報酬だったかな。神宮で使ってる、記録用のフィルムね。フツーのやつを使うより、ずっと上手に撮れる」
「どうも」
「それ、ブラックバードでしょ。いいもん使ってるね」
私も特撮は好きなんだ、と続けたのはよくわからなかったけど、自分の持ち物を誉められて悪い気はしなかった。
「部室で埃被ってるのを見つけたんです。こないだ、ちょっと溶けちゃったんですけど」
「まあ、それも個性じゃないの。たぶん、規格は合うと思うけど」
再びシートに身を沈めて、津守さんはうめいた。
「ああ」
白い鳥居が見えて、運転手さんがハンドルを切る。広めの路肩に後ろっかわを突っ込むようにして、車が停まった。
「もう一休みできそうだったのに。着いちゃったね」
軽い足取りで車を降りて、津守さんは私の側のドアを開けてくれた。それから包みを方に引っ掛けて、鳥居に向かって歩き出す。私はちょっと広いだけの路肩に停まったクラウンを振り返った。
「あの、あの人は?」
「うん?」
「運転してた人は、一緒に来ないんですか?」
「うん。彼はここまでで限界だって。お陰で、かなり歩くことになるけど……運動できる靴でって言ったでしょ?」
「限界って……」
それまで黙っていた彰さんが、青い顔で私を覗き込んだ。幽霊だから血色が良くても困るんだけど、それを抜きにしても、顔色は悪い。
「千聡ちゃん、本当に何も感じてないの?」
「何もって?」
「気にならないなら、気にしすぎないほうがいいよ」
「いい加減なこと言わないで!」
彰さんが噛み付いた。
「私だって幽霊が長いわけじゃないけれど、危ないところとそうでないところの区別くらいつくわ。ここは最悪よ。千聡ちゃんを危険に巻き込もうとするなら、今すぐやめなさい。この子は人より良く視えるだけで、普通の女の子なんだから」
幽霊の声は気にも留めずに、懐から小箱を取り出して、津守さんは蓋を開けた。「ここもか」と呟いて、ぱちんと箱を閉じる。
「じゃー、お参りしてから行こうか。二時間くらいかな」
「ちょっと、聞こえてるんでしょ?」
のど渇いたら言ってね、と林道に向けて歩き始めた津守さんと、なおも食い下がる彰さんを、私はおろおろ見比べた。けんかの匂いがした。嫌な感じだった。
少し津守さんの雰囲気が変わったような気がした。立ち止まって、カーブした髪が揺れる。
「……うるさいなあ」
津守さんが振り向いた。祓魔師の視線が、T高水泳部の幽霊を射た。半透明の身体ごしに私も射られて、思わず身がすくむ。
「死人があんまり調子に乗るなよ。お前なんか、いつ斬ったっていいんだ。兄さんが祓ってないから放置してるに過ぎない」
ぱん! と包みが弾けて、落下した刀を津守さんが掴み取った。
「私なら、幽霊の一人や二人、斬っても文句は言われない。兄さんも寺生まれなんだから」
「わ」
私は文句を言うぞ! と言いかけて、やめた。代わりに彰さんの体を突き抜ける形で、二人の間に割り込む。
「津守さ――や、やめてください」
「千聡ちゃん」
押し殺した声で「やめて」と聞こえた。津守さんの顔は、うつむき加減に垂れた前髪で、良く見えない。
まんじりともしない時間が、数秒過ぎた。不意に目の前の祓魔師が顔を上げる。
「その――」
私たちは後ずさった。
「津守さん、って言うの。やめようよ」
せめてさあ、と言った声の調子は、さっきまでの津守さんだった。
「敬語はもういいや。でも、津守さんは遠すぎるって。タメなんだしさあ……つぐみちゃんって呼んで欲しいなあ」
彰さんと一瞬目をあわせる。嵐のような敵意は、既に去っていた。
「……つぐみ」
「ちゃんね。私も千聡ちゃんって呼びたいから」
「それは……いいですけど」
「やった、決まり! じゃ、さっきの続きね。お参りしてから行こうよ、千聡ちゃん」
「はあ……」
私はまだ緊張の覚めないまま、津守さん……じゃなかった、つぐみちゃんに続いた。
先輩がこの人を苦手だって言った理由がわかった。私もこの人が、おっかなくて仕方が無い。
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