其之六 炎

 大火傷の右腕が鈍い痛みを訴え始めたころ、後頭部に出来たらしいたんこぶもズキズキし始めていた。暑さにうかされていた僕に向けて、真弓が投げつけた一眼レフのせいでできた傷だ。


「……傷がつきました」


 真弓は心底残念そうに、一眼レフを袖で拭った。


「先輩のせいですよ」


「人に向けて投げたやつが悪い。当たり所が悪かったら、死んでたよ」


「投げなきゃ、先輩は全身焼かれてましたよ。病院の心配なんか、できないんですから」


 こっちです、と言って真弓は廊下の分岐を指した。


「それ、本当に合ってるんだろうな?」


「もちろんです。炎の足跡で一目瞭然ですよ。廊下の真ん中を歩かないように、気をつけてください」


 “この橋渡るべからず”と言われたときの一休さんみたいに、僕らは廊下の端に寄った。


「次、右です」


 M大サークル棟の内部は、朝方見かけた外観からはありえないほどの広さを持つに至っている。迷路のような分岐を、真弓はほとんど間を置かずに選びまくった。


「しばらくまっすぐ。その後――」


 真弓は口をつぐんだ。


「先輩、わかりますか」


「わかる」


「足跡はここで途切れて、部屋の中に入ってます。振袖のあった、最初の部屋です」


 中にいるかはわかりませんけど、と自信なさげな言葉を続ける。僕は後輩を背中に押し込めて、引き戸に手をかけた。


 いる。


 戸に触った瞬間、ピリッとした感覚が走った。反射的に、戸袋に向かって扉を叩きつける。


「うわ!」


 服の焦げる匂い。熱風にしか感じられない業火が僕の肌を再び舐めて、今度は僕らは無傷で済んだ。めちゃくちゃに揺れる陽炎の向こうで、山崎翔子が僕らに忌々しげな顔を向けていた。傍らには、見覚えのあるセーターの女性が倒れている。


「先輩、世古一葉さんですよ」


 ……名前を忘れてたわけじゃない。顔が見えなかっただけだ。


「燃えてるか?」


「部屋中火の海です。でも、世古さんはまだ」


「ついてるな」


 間一髪。


「行こう。着いて来る気があるなら、離れすぎずにいてくれると助かるな」


「言われなくてもそうしますよ」


 真弓はこわごわ辺りを見回した。僕らを包むようにして球状に張った結界が、危なっかしく揺れているのが見えているのだろう。


 もうしばらく、持ってくれよな。


 祈りの言葉は誰にも聞こえないように口の中で呟いて、僕らは最初の一歩を踏み出した。山崎翔子の顔が歪み、笑いの形をとった。


「もし」


 喋った。思わず、と言った様子で真弓が顔を上げる。僕は顔を捻じ曲げて、低い声で言った。


「無視しろ」


「ひょっとして、互いに何か、思い違いがあるのではありませんか? 私は、そちらに危害を加えるつもりはございませんよ?」


 僕は顔をしかめて、世古さんにあごをしゃくって見せる。


「……そっちの、その人は?」


「無視するんじゃなかったんですか!?」


 驚愕する真弓を他所に、山崎翔子は微笑んだ。


「もちろん、焼き尽くしますわ。そのためにこの空間を広げたのですから」


「僕の腕はどう説明するつもりだ?」


「不幸な事故とでも言いましょうか。忌血の系譜を前にして、我を失くしてしまいましたの」


 口に手を立てて、山崎翔子の顔が笑う。ひとしきり毒を垂れ流した後、怪は僕が背中に押し込めた少女に目を留めた。


「あら、あなたは……この子のお友達ですね、ここまで追いかけてきたのですか?」


「翔子ちゃんじゃ、ない、ですよね」


 確かめるようにそう言って、真弓は一歩踏み出した。


「あなた誰ですか! 翔子ちゃんを返してください!」


 断固とした声が響いて、また化生が笑う。


「なんと勇敢な。久しく、梅乃にそんな口を利く者はいませんでした。現世にも出てくるものですねえ」


 じり、と真弓が後ろに下がった。こちらを一瞥した視線が、僕のそれと交錯する。確かに目の前の少女は梅乃と名乗った。狂言でやっているのでなければ、真弓の推測が当たっていたことになる。


「でも、的外れですわ。わたくしはそもそも、この子に呼ばれてきたんですもの。これは全て、合意の上で行っているのです。何人たりとも口出しは許しません」


 ですが、と山崎翔子の口が動いた。


「危害を加える気がないと言うのは本当です。この子を追ってきたというのなら、お戻りなさい。引き止めはいたしませんよ」


「戻るわけないでしょ、引っ叩きますよ! 先輩、やっちゃってください! 翔子ちゃんが危なくない程度に!」


「心得てる」


 梅乃の表情が、再び歪んだ。周囲の炎が、一段と強く燃え上がる。


「聞き入れていただけないのであれば、仕方ありません。あなた方から、先に焼けてしまいなさい」


 部屋中の空気が僕らを中心に渦を巻いた。「もう少し寄れ」と真弓にささやいて、結界をすぼめる。内部の空間がかなり狭くなるけれど、これでもう少し強度を上げられるはずだ。


「正面、火の海です。道を開いて……」


 頬に汗を垂らして、真弓が息をつく。直火であぶられないでも、結界の中はひどく蒸していた。


「正面な。任せろ」


 背中をひりひりした感覚が走って、生きてる感じがする。僕は左手を空間に叩きつけた。


「破ぁーーーーー!」


 力の塊がまっすぐ飛び出して、結界を越えた。


「抜けました! もう一発!」


「破ぁーーー!」


 梅乃が目を見張って、着物の裾を翻した。真弓が息を継いで、再び声を上げた。


「もう一発!」


「破ぁーー!」


「……もう一発!」


「破ぁー!」


 もう一発です、と真弓が言って、僕はもう一度除霊ビームを放った。真弓の表情が、少しずつ険しくなっていく。最後に後輩は、小さな声で言った。


「効いてません。ううん、それどころか、元気になってるかも知れないです」


「ええ、おっしゃる通り」


 絶望的な分析を後輩が告げると同時に、周囲の温度がぐっと上がった。


「どうやら、あなたの力とわたくし、随分相性がよろしいようですわね」


 梅乃が笑う。少し見くびったか。


 僕は世古さんに向けてあごをしゃくる。


「ちょっとひとっ走り、あの人を引っ張って来れないか」


「……」


「おい、真面目に考えんな。無茶言ってるんだから」


「ちょっと、真面目にやってもらっていいですか」


「これ以上真面目にやると、パニくりそうなんだよ」


 実際、抑えが効いてるのは隣に真弓が居るおかげだった。僕が一人きりで来ていたのなら、まともな状態でここに立っているなんてあり得ない。狼狽しきって、焼けるのは腕だけじゃ済まなかったはずだ。


「耐えて、次の手を打ちましょう。何かないんですか」


「あるさ。僕を誰だと思ってる」


 突き出した左手の指を弾いて、除霊のエネルギーを撃ち出す。梅乃の炎を散らしながら、力の塊は世古さんのところまで飛んだ……僕には見えていないけれど、少なくとも、そうなるように撃った。


「今更、このような――」


 笑みを浮かべた梅乃を迂回して、除霊球は世古さんのところに到着する。ぱちん、と力が弾けて、広がる感覚。


「これは」


 梅乃が顔をしかめる。


「……うまくいったかな」


「世古さんのところに結界を張ったのがそうなら、うまくいきました。もし梅乃を倒すのがそうなら、全然うまくいってないです」


「なら、うまくいってる」


 倍になった負担に汗を拭って、ひとまず息をつく。即席の遠隔結界。やり方はなんとなくわかっていたけれど、まともに維持できるかどうかは未知数だった。


 そして、実際どれだけ維持できるかについては、これから人の命を使って確かめることになる。


「小癪な真似をなさいますね。火葬を待つだけの死人の癖に」


「どうかな。あんたが除霊ビームと本当に相性が良いなら、さっさと僕らを焼き殺せてるはずだ。結界が効くなら、除霊ビームでだってあんたを詰める」


 ……はずだ!


 梅乃はものすごい目で僕を睨み付けると、陽炎の向こうに身を引いた。


 聞いた話では、除霊はとにかく出力を上げればうまくいく、というものではないらしい。重要なのは、不本意ながら梅乃の言うとおり、相性だ。吸血鬼にはお札をぶつけるより十字架と杭で対抗する方がいいとか、そういう話。


「その話、今関係ありますか?」


「大有りさ。祓魔師と怪異にも、それぞれ相性があるんだ。僕はモノに憑依してる相手は苦手だったのかも知れない」


「分析してる場合じゃないですよ。また、火力が上がってます」


 内部の気温を人間が我慢できるレベルに保つため、結界をすぼめる。二つ広げてなければともかく、今は、二人が快適に過ごせるだけの広さは保てない。


「先輩、世古さんと合流しませんか。このままじゃ、体温で蒸し焼きになりますよ」


「我慢してくれ。今動いたらパチンと行きそうだ」


「マジですか」


 僕には陽炎にしか見えない温度の壁は、真弓には荒れ狂う炎の檻に見えているはずだ。普段通りみたいな顔をしている瞳に、不安の色が濃くなる。


「心配するな。僕にはまだこれがある」


 僕は落ち着き払って、懐から紙の束を引っ張り出した。昨晩兄貴に渡されたものだ。


「なんですかそれ?」


「寺生まれ謹製の退魔札。一応持っといた甲斐があったよ。一枚でいいから、両手の使えるやつが切ってくれると助かるな」


 陽炎が荒れ狂って、気温が上がる。僕はさらに結界を縮めた。


「これでいいですか?」


「どれでもいいんじゃないかな。たぶん……」


 努めて、ゆっくり話す。放課後の部室で、先生とか宿題について話すみたいに。本当にやばいときこそ、そう振舞う必要があった。


 やがて、自信なさげな手つきで札が一枚切り取られる。ポケットに入れっぱなしだった札は、あちこちヨレてへたっていた。


「梅乃は――」


「真っ向です! 見えてないんですか?」


「見えてない。かなりまずいな」


 これは、思わず口が滑った。真弓の顔が歪む。


「翔子ちゃんは」


「存在がかなり怪異側に寄り始めてる。……でも、まだ大丈夫。十分連れ戻せる」


 たぶんだけど。


 真弓の手から受け取った札に念をこめる。ぐったりしていた紙の札に活が入って、ぴんと張った。札を使うのは初めてだけれど、これならなんとかなりそうだ。今回は……いや、今回も。


「行け!」


 振り向きざまに放った札が、空中を一直線に飛んだ。和紙の札は勇ましく駆け……あっさりと空中で燃え尽きた。


 少し遅れて、梅乃の嘲笑が響き渡る。


「ホホホ……やはりわたくしが正解のようですわね。あなたとわたくしは、相性が“良い”。思えばあの方も一応は寺に属する者。その力がわたくしを害せぬのも道理……」


 真弓が「今日は注射を打ちます」って言われた子どもみたいな顔になった。僕は彼女の視線を背中で遮るように、一歩踏み出した。


「聞くな。あれは山崎翔子じゃない。札を、どれでもいいから一枚。僕に貼ってくれ」


「……わかりました」


 不安を隠そうともしないで、真弓は思い切り僕に札を叩きつける。札の輪郭が滲んで、僕の服に溶け込んだ。これで、もう少し結界を持たせられるはずだ。多少負担がかかるし、兄貴も親父も嫌な顔をするだろうけど、死ぬよりはいい。


「先輩」


「どうした」


「世古さんのところまで、行けますか。……思いついたことがあるんです」


「動くとパチンだって言ったろ。その思いつき、どのくらい期待できるんだ」


「私の中では、八割いけます」


「マジかよ」


 梅乃の高笑いが大きくなって、さらに気温が上がる。僕はさらに結界を縮小した。同時に、世古さんのほうの結界も縮めざるを得ない。


「……わかった。その八割に賭けよう」


 結界は、札のブースト込みでも五分は持たない。移動に力を使えば三分も持たなくなるだろうけれど、維持するのが一つで済むなら、もう少し生き延びられるかも知れない。


 僕は奥歯を食いしばって、結界を持ち上げた。


「ゆっくり行くから、はみ出さないように気をつけろ」


 わかってますよ、と口を尖らせた真弓と歩調を合わせながら、にじるように結界を動かす。


「もう少し、早くなりませんか」


「これで精一杯なんだ。これ、思ったよりきっつい……!」


 どんどん上がる気温と、中の僕らの移動。結界自体の形は維持して、壊れないように細心の注意を払いつつ、限界が来る前に。わずかに五メートルの距離が、無限に遠い。


「少し詰めて」


「もう限界ですってば! ほら、もうちょっとですから頑張ってください! 早く!」


 僕らの結界と、倒れたままの世古さんに張った結界とが接合して、少し楽になった。握り締めていた拳を解いて、多少広めに安全地帯を確保する。


「思いつきを試すなら、急いでくれ。気を抜いたら潰れそうだ」


「わかってますよ! たぶん、この辺に――あれ、こっちかな……」


「おい!」


「急かさないでください! あったあった、ありましたから!」


 ひとしきり世古さんの体を探って、真弓は銀色の小さな箱を取り出した。それから、白い紙箱。ジッポのライターと、紙巻煙草だった。


「思いつきってのは、それか……?」


「そうです!」


 真弓はおぼつかない手つきでライターの蓋を開けて、何度か火花を上げた。煙草に火をつけて、煙を口に含む。


「げえっほ!」


 当然のようにむせて、彼女は煙を吐き出した。結界の中に紫煙が広がって、天井に上っていく。


「どうやら、賭ける相手を間違ったようですね」


 思わず絶句した僕の代わりに、梅乃の声が割り込む。


「戯れるにも飽きました。いよいよもって焼けておしまいなさい。心配なさらずとも、すぐにあなた方以外の全てをも焼き払って差し上げます。今度は江戸だけでなく、地上の全てを――ホホホ! ホホホホーッ!」


 周囲からの圧力が高まり、結界が軋んだ。僕の足元で、真弓はまだ咳き込んでいる。


「――ホ?」


 梅乃の声が、頓狂な響きを奏でた。断続的に震えていた真弓の背中が静かになって、小さな、確信に満ちた声が聞こえた。


「……うぶ」


「なんだって?」


「大丈夫、ですよ。……先輩は、心配しなくても」


 その瞬間、サッと音を立てて、幾筋もの水流が降り注いだ。


「室内に、雨? これだけの屋根に守られていながら、まだ――」


 訝しげな声が途切れて、周囲の熱が急速に引いていく。陽炎が薄れて、降り注ぐ水でけぶる教室の真ん中に、再び梅乃の姿が現れた。


 紫縮緬の振袖は、中のセーラー服ごとじっとりと湿る。驚愕に顔を歪め、梅乃は天を振り仰いだ。


「まさか……この程度の雨で!」


「雨なんかじゃないですよ」


 真弓が天井を指差した。


「江戸時代と違って、現代にはいくらでも火への備えがあるんです。天井についてるのはスプリンクラー……あなたみたいな火事を未然に消し止めるための放水装置なんですよ」


 勝ち誇る真弓の声を、しかし梅乃は聞いちゃいなかった。炎にまかれたように空中をのたうって苦しんでは、髪を振り乱す。その度、僕らには全く無害な液体が飛沫になって辺りに飛び散った。


「消える……消える! 炎が、わたくしが消えてしまう……!」


 もはや結界は必要なかった。部屋の中は、すでに「四月にしては蒸し暑い」程度の熱しか残っていない。やけどした左手に、冷たい消火水が心地よかった。


「……平成も終わるってのに、いまさら明暦もないでしょう。あなたの居場所なんか、現世からはとっくに消えてるんです」


 翔子ちゃんを返せ! 


 真弓千聡が吼えた。燃える瞳が梅乃を射抜く。


「よせ」


 垂れ下がった髪の下から、梅乃が僕らを睨め付ける。ヤバイ、と思ったのは言語化できない速さの直感だったけれど、行動は梅乃が戦意を残していることを理解してからじゃないと出来なかった。


 僕は真弓の腕を捕まえた。なんです、と幼い表情が振り返るのと、低い声が聞こえるのが同時だった。


「かくなる上は」


 ぱっ、と山崎翔子の身体が燃え上がって、薄暗い教室は真昼のように明るくなった。猛烈な勢いで進む時間の中で、僕の捕まえた女の子の腕を引くのだけが、妙に遅い。


 ああ、失敗した。


 深くて暗い感覚の広がりと、どこか平穏な諦めが同時に押し寄せてくる。




 真弓千聡は、僕の目の前で明暦の炎に飲み込まれた。

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