其之五 梅乃の振袖

 昔、親父はもっと僕に厳しい人だったと記憶している。


 小学一年生に上がったばかりの頃、僕は百点続きだった。そのくらいの歳なら珍しい話でもないけれど、中学生に上がっていた兄貴は喜ぶ僕に辛抱強く付き合ってくれていた。親父はそんな僕を「調子に乗るな」と一喝して、次に向けて勉強するように言った。


 通知表を貰ったときも、運動会でクラス優勝を取ったときも、親父はそんな感じだった。だから、昔の僕は、自分が父に嫌われていると当然のように認識していた。


「調子に乗るな。そう言う時ほど足元を掬われやすい」


 思えば、父はいっぱいいっぱいだったのかも知れない。あの頃は、とにかく大変だったんだから。急に、僕と兄貴の面倒を一人で見なくちゃならなくなって――。


 どうして、そうなったんだっけ?




「……ぁー!」


 除霊ビームを撃つとき特有の感覚が体を抜けるのとほとんど同時に、ジュッという軽い音がして、肉の焼ける匂いが漂ってきた。


「翔子ちゃん、やめて!」


 真弓がバカみたいに叫ぶのが聞こえる。一瞬遅れて「やらかした」と思った。


 発射台が焼け落ちて行き場をなくした除霊ビームが肩から抜ける感じがして、めちゃくちゃに散った。それがかえってよかったらしい。僕のそばの熱の塊がいくつか消えて、その後には山崎翔子からの害意の圧力は消えていた。


「翔子ちゃんってば!」


 真弓の呼びかけに、紫縮緬の和服をセーラー服の上にまとった少女は露骨に顔をしかめて、うっとうしそうに手を振った。突如、虚空に陽炎が立ち上る。


 不可視のカーテンが揺らめく向こうで、少女がゆっくり踵を返した。


「待て!」


「先輩ダメです!」


 飛び出しかけた僕を、真弓千聡が引き止めた。


「離せよ! お前の友達だろ!」


「でかい口は自分の状態を見てから叩いてください! 今すぐ病院に行かないと!」


「それは十分心得てる」


 突き出していた右腕は、真っ赤に変色している。肩から先の袖は完全に燃え尽きて、そこだけ袖なしになっていた。今はじんわり熱を感じる程度だけれど、時間が経って感覚の麻痺がとれてくれば、我慢できないレベルの痛みが襲ってくるだろう。


「大丈夫だよ」


「大丈夫なわけないでしょ! 利き手が利かなくなったら、どうするんですか!?」


「いいから。自分のことくらい、自分で面倒見られる」


 嘘だ。自分の腕なのに、今の僕には直視する勇気が無い。ちくしょう、やっぱり親父は正しかった。調子に乗っているときほど、足を掬われる。


 山崎翔子と、僕の腕については、その親父に期待するしかない。今の僕がまずやらなくちゃならないのは、伊藤さんと真弓を保護して撤退することだ。


「行こう」


 ……本当に?


 どこに? と言いたげに、真弓が僕を見た。一瞬、数学のテスト、終了五秒前に公式を思い出したときみたいに思考が加速した。


 右手は使い物にならないかもしれないけれど、左手は残ってる。それに、山崎翔子はどうする? 好きなタイプの人間じゃないからって、ほったらかしておくわけには行かないんじゃないか。それに、親父が僕の思う通りに仕事をしてくれれば、伊藤さんだってなんとかなるはずだ……。


「先輩は戻って」


 張り詰めた声で、真弓が言った。


「翔子ちゃんは、私が連れ戻します」


「一人で?」


 真弓は力強くうなずいた。


「だって、翔子ちゃんはセーラー服を着てくれたんです。理由はどうあれ、私にはそれで十分なんです」


 だから、それくらいのことはしなくっちゃ。


 真弓はそう言い切って、顔を上げた。それは――ちくしょう、僕の顔には一生浮かびそうに無い、決意に満ちた顔だ。


 最悪なことに、僕は内心、悔しがると同時にほくそ笑んでいる。


「わかったよ。行くのは、山崎さんが消えたほうだ」


「だから、それは――」


「一人じゃ無理だ。……僕も、お前も」


 僕が火を見えてないかわりに、真弓には火を防ぐ術がない。


「でも、二人でならなんとかなる。二人でならアレに勝てる」


 歯の浮くようなセリフを吐きながら、自分を殺したくなる。追うなら僕一人だ、決まっている。「藤堂透は功名心に駆られて暴走した」との評価が下るのを避けるため、僕は真弓千聡を利用したのだ。


 当の真弓は、ガラス玉みたいな目で僕を見た。下種な本心を見透かされているような気がして、思わず目をそらす。


「……いいこと言いますね。たまには」


 まあな、とかなんとか、僕はごにょごにょ言った。最低の気分のはずなのに、足元はもう、浮つき始めていた。


    ◆


「で、心当たりは?」


「なんですか?」


「山崎さんだよ。あの子だって、普段から火を吹いてたわけじゃないだろ」


「あ、そういう話ですか? 心当たりなんか、あるわけないでしょ。私だって、翔子ちゃんのことを何でも知ってるわけじゃないんですから」


 もっともな話だ。でも、今はそれじゃあ困る。


「……あるとすれば、あの着物か」


「着物?」


「着てたろ、さっき。修復したってやつ」


「翔子ちゃんと先輩を見るので、余裕がなかったので。そうでしたか? 翔子ちゃんが?」


「ああ」


 焼けた腕を真弓から隠すように歩きながら、僕は額の汗を拭った。真弓の話では、火はここまでまわってきていない。でも、真夏のような暑さは相変わらずだった。実質ほったらかしの右腕が痛み始めた気がする。


 真弓は、歩きながらあごの下に手を当てた。


「着物と火……翔子ちゃんが……」


 ぶつぶつ言いながら、真弓は歩みを進める。出来れば、前を向いていて欲しい。僕は先回りして、ひっくり返ったベンチをどけた。片手だと、かなり難しい。


 不意に、真弓が顔を上げた。


「明暦の大火って、知ってますか」


「日本史の授業で聞いた気がするな」


「……江戸だった頃の東京は、燃えやすかったんです。家を作るのに、鉄筋もコンクリートも使えない時代ですからね。火の粉が舞って行っただけでも燃える家ばかりで構成された都市は、今なら小火で済むような失火でも大火災になり得る街でした」


「じゃ、この火はそれ? でもなんで、近畿の片田舎に」


「たぶん。明暦の大火は、二日にわたって続いた大火事で、江戸の大半が焼けたといいます。火元は諸説ありますが……振袖がそうだという説があるんです。梅乃という女性が作らせたものなんですけど」


「ほう」


「火元になったという振袖は、梅乃が懸想した寺小僧のそれに似せて作られたものだそうです。梅乃が実らぬ恋に命を落とした後、何人かの女性の手に渡って、その全てを取り殺したといういわくつきの品で」


「その時点ですでに呪いのアイテムじゃないか」


「だから、寺に持ち込んでお炊き上げされることになったんです。その火が、その」


「江戸中に燃え広がったと」


「そうです」


「それが、例の着物だって言うのか」


「はい。梅乃の振袖は、紫縮緬に荒磯と菊を染め抜いて、桔梗の家紋を縫い付けた、大変あでやかなものだったと伝わってます。今考えると、あれがそうだったのかなー、なんて……」


 当たりだ。僕は思わず舌打ちする。


「ちょっと、なんですか今のは!」


「もっと早くに気づいてればな、って思ったんだよ」


「仕方ないじゃないですか! 私だって目にするのは初めてだったんですから。大体、着物の柄の種類なんて一目でわかるわけないでしょ!」


「わかった、わかった。わかったよ。悪かった」


「わかればいいんです。素人に多くを求めないでください」


 素人は勝ち誇った。


「……でも、本当に梅乃の振袖が翔子ちゃんに取り憑いてるんなら、やばいですよ」


「それ、こっちを見てもう一回言うか?」


 僕は体の右側をちらつかせた。


「そうじゃなくて。翔子ちゃんは、伊藤さんのことが好きなんですよ!?」


 緩んだ大学生の顔を思い出して、思わず自分の顔をしかめる。


「知ってるよ。バレバレだったじゃないか」


「ここだけの話、翔子ちゃんは結構ガンガンアプローチしてたみたいなんですよね。世古さんのことも知ってるはずなのに」


「それは、けっこうまずいな」


 今の山崎翔子がどういう状態かは推測するしかないが、とりあえず気に入らない相手を燃やしてしまうことには何の躊躇も無い。僕の腕のことを考えると、伊藤さんが火達磨になっても無傷で済んだのはかなり例外的……というか、情のある事態だったのだろう。


 そういう状態の女の子が、恋敵に対してどういう振る舞いをするか。これはあまり、想像に難くない。


「急いで翔子ちゃんを見つけないと」


 いつになく真剣な様子で、真弓が言った。


「世古さんもな」


「どっちでもいいです。翔子ちゃんがこれ以上、誰かを傷つけないようにしなくちゃ」


 そう言って、後輩は唇を噛んだ。その横顔がまた、僕の罪悪感をちくちく刺激する。


「ああ」


 無事な方の手を握って、もう一度開く。とりあえず、僕の利害は真弓のそれと一致している。山崎翔子も世古さんも、放置できないのは事実だ。一人じゃどうにもできないのも、間違いない。


 今は、自分を嫌っている場合じゃない。必要なのは、単純な除霊の実力だ。左手に集まった除霊ビームのシンプルな感覚を、僕は好ましく思う。


「急ごう」


 誰より良く見える“目”を伴って、廊下を歩き出す。少しだけ、腕の痛みが遠ざかった気がした。

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