其之四 炎上! 怪奇探索部!
異界の夕焼けが、大学の構内を照らす。親父の声が途切れた電話からは、断続的な合成音が聞こえてきていた。
「先輩」
真弓の声が弾む。
「今日のはきっと、江戸期の怪ですよ。片葉の葦が出てきてるんだから、間違いありません! こいつはちょいとばかり、張り切っていかないと!」
「お前はいつでも張り切ってるだろ。それに、葉の偏った葦なんて珍しくもないじゃないか」
「その通りです。風の強い地域に生えた葦は、風下に葉を集中させますから。でも、あちこちで片葉の葦についての伝説が残ってるのが実際なんですよ。遠州七不思議とか、越後七不思議とか」
中でも、もっともポピュラーなものが本所七不思議のそれです。真弓は人差し指を立てた。
「聞かせてあげましょうか?」
「いや、いい」
「仕方ないですね。いいですか、現在の東京、墨田区は江戸期には本所と呼ばれていたんですが、そこにお駒という女性が居たんです」
僕の言った「いい」は「話していい」の意味じゃないぞ。
「お駒は大変な美人で――まあ、こういうお話の中の女性は大抵、極端な美人か不器量に分類されるんですが――とにかく、大変な美人だったそうです。当然、言い寄る男も後を絶たず。うっとうしい話ですよね」
「それは言い寄ってくる奴次第だけどね」
そう言いながら、僕は辺りを見回した。夕焼けの光は、いつもの毒々しいそれだ。しかし、今のところ、何か差し迫った危険は感じられない。僕の感覚で捉えられないレベルの相手なら、頼れそうなのは真弓だけだったけれど……。
「その言い寄ってくる奴がろくでもないんです。男たちの中に、近所に住む留蔵というのがいてですね」
学校のあるときみたいにセーラー服を着た後輩は、まるでいつもの部室で噂話をするときみたいに声を潜めた。
「お前な」
僕は手をひらひら振って、真弓の話を打ち切る。
「なんですか? まだ話の最中ですよ」
「今の状況、わかってないのか。下手すりゃ、二人まとめてお陀仏なんだぞ。ちょっとは危機感を持て」
「え?」
話を邪魔されて露骨に嫌そうな顔をしていたたった一人の後輩は、鳩が豆鉄砲を食ったように目を丸くした。
「え、じゃないよ」
「大丈夫ですよ。見たところ、何もいませんし。それに、今日は先輩と一緒じゃないですか。何か出てきても、『破ぁー!』で一発ですよ」
そこは信頼してるんです、と真弓は微笑む。
「あれ、毎回結構ギリギリなんだぞ」
思いもよらない反応に、僕はいきなり毒気を抜かれた。状況は何も変わらないのに、悪い気はしないというだけで、少し気合が入る。
「留蔵は――」
「その話は続くのか」
「当たり前じゃないですか。お駒に恋した留蔵は、何度もお駒に迫るわけですよ。何しろ近所に住んでる美人ですから」
「それ、関係あるのか?」
「大有りです。テレビの向こうのアイドルと結婚できるとは思えないですけど、それがお隣に引っ越してきたとしたら話は変わってくるでしょ。わかりませんか」
「わからない」
「変わってくるんです。とにかく、留蔵は何度もお駒に迫るわけです。でも、お駒は相手にしない。留蔵が何度迫っても、袖にされるわけです」
「ふむ」
「まあ、向こうからすれば男は選ぶものですからね。でも、留蔵にとってお駒は一人きり。ある日、彼は大爆発したわけです」
「爆発というと?」
「留蔵はある日、お駒が出かけたところを追いかけました。お駒は隅田川の入り堀に差し掛かります。これは、今の両国橋のそばです」
僕はサークル棟の扉に手をかけた。ガラス張りの扉は、鍵もかかってないのに引っかかって、開かない。
くそ、やっぱり駄目か。
「留蔵は物陰から飛び出して、お駒に襲い掛かりました。猛然一撃、留蔵はお駒の片手片足を切り落として、おまけに堀に投げ込んでしまったということです」
「ひどいな」
真弓は神妙な顔でうなずいた。
「最低ですよ。もちろんお駒は絶命です。それから後、隅田川のお堀のところに生える葦は、片葉の葦になったとか」
「留蔵は?」
「さあ、捕まったんじゃないですか。何しろこんな話が伝わってるくらいなんだから」
その辺はよくわかりません。だいたい、これも伝説ですし。そっけなく言って、真弓は自分も扉を引っ張った。
「開かないじゃないですか!」
「そうなんだ」
ガラスの扉は、ぶち破るには厚すぎる。それに、割れたガラスの修理代を払うのは親父の財布からだ。うちの家計がそんなに素敵な状況じゃないのは、僕も良く知っている。
「じゃあ、他の出口を探しましょうよ。それとも、招待状でも待ってるんですか?」
「違う。……心当たりがないんだ」
「裏口くらいありますよ、このくらい大きな建物なら」
「それが見つかればいいんだけど」
今のところ、僕の目には先ほどとなんら変わらない尋常の風景が見えている。ただ、M大学の構内については、そもそも僕には全く土地勘が無い。
「真弓は――」
「ちょっと待ってください」
口を開きかけた僕を、真弓がさえぎった。人差し指を口元に当てて、耳を澄ますよう促す。
「先輩、聞こえますか? もし、私だけなら……」
「いや、たぶん聞こえてる」
入り口からすぐ近くにあるのぼり階段の向こう、階上の廊下から、誰かが走ってくるばたばたとした足音が聞こえる。足音の主が上げていると思しき、断続的な叫び声も。
「僕ら以外に誰かいるのか」
「片葉の葦の関連なら、留蔵かも知れないです」
「だったら、今すぐ逃げたほうがいいな」
歩いてきた廊下を引き返すことになるが、仕方ない。幽霊の類ならなんとかなるかも知れないが、日本刀を持った大人と対決すれば、確実に死ぬ。
「行くぞ」
「あ、ちょっと待ってください。声に聞き覚えが――」
その時、階段の上に一人の男が現れた。少し丸いシルエットに、僕も見覚えがある。
などと思ううちに、男は階段を転がり落ちた。はじき出されたパチンコ玉みたいに踊り場で方向を変えて、こっちに落ちてくる。苦悶に顔をゆがめているのは、やっぱり。
「伊藤さん!」
「先輩、駄目です!」
駆け寄ろうとした僕の腕を、ものすごい力で真弓が捕まえた。
「なんだよ!」
「見えてないんですか? この人は燃えてるんですよ! まずは火を消さなくちゃ!」
「火ィ?」
真弓は辺りを見回すと、廊下の隅に置かれた消火器を引きずり出した。静止する間もなく、のた打ち回る男に向けて白い消火剤がぶちまけられる。
「消えました!」
消火器を構えたまま、真弓が声を張り上げる。僕はまだうめいている大学生に駆け寄った。
「伊藤さん!」
伊藤さんは「ああ」とか「うう」とか、返事にもならない声を上げた。体のあちこちに、太い蛇が這ったような火傷ができている。
「生きてる……」
「当たり前だろ。火傷は大したことなさそうだ。落ちたとき、どこもぶつけてないといいんだけど」
「なら、なんでこんな」
そんなの、わかるわけがなかった。そもそも、僕は「大したことなさそう」以上の診断を怪我人に下せるような医学知識は持ってない。
「か……」
伊藤さんが口を開いた。先ほどとは違って、目の焦点があっている。
「なんですか?」
「一葉が」
「かずは?」
「行ってしまった……一葉が……」
僕は真弓のほうに顔を上げた。
「一葉って誰だ?」
「世古さんの名前じゃないですか! 伊藤さんの彼女ですよ!」
「ああ、そうだっけ。まあいいや」
そうだっけじゃないですよ、と言いたげな真弓を一瞥して、廊下の上を見上げる。
「行きますか」
僕は行くけどな。
「真弓はここに残れ」
「ええ! そんなのないですよ!」
「さっきも毎回ギリギリだって言ったろ。着いて来られても困るんだよ。毎回、僕が割を食ってたじゃないか」
「それは、否定しませんけど……今回はやばいですよ。先輩、全然見えてないんでしょう」
「見えてるよ」
「嘘。ほんとに死にますよ」
「死なないさ」
僕は本当にそう思った。無根拠な自信だけがあった。真弓をむやみやたらと危険にさらすわけには行かない。それはそうだ。怪我人の伊藤さんを放置は出来ない。それも間違いない。でも本当は、僕の頭の中は新しい除霊相手のことでいっぱいだった。阿用郷の鬼もトモカズキも、ギリギリではあったけれど祓うべくして祓ってきた。
今度も、きっと勝てる。
「ちゃんとけが人を見てろよ」と真弓に言い捨てて、僕は階段を駆け上る。熱気が高まって、心拍数が上がる。階段の上から差し込む夕焼けの光が、視界を真っ赤に染めた。
上りきった階段の先で、僕は熱風に見舞われた。真夏の都内、コンクリートジャングルというのは、きっとこんな感じに違いない。視界が歪んで、思わず袖で口元を覆う。遅れて、汗が噴き出してきた。
「あっつ……」
呟いた口元が、すぐに乾燥し始める。そういえば、ここは葦の生えてきた廊下だったか。いつの間にか、果ての見えないほどの遠大さを備えている。
陽炎の向こうで、大きな影が立ち上がった。紫色の生地に、波と菊の模様。見覚えのある大きな着物は、被服研究会が修復していたそれだろう。着物に身を包んでいるのは、黒いセーラー服の少女。日本人形を想起させる白い肌と黒い髪。
「君は――」
山崎翔子、という名前が脳裏に浮かんだとき、ものすごい熱気が周囲から立ち上った。
「先輩!」
暑さでのぼせたのか、真弓の声がひどく遠くに聞こえる。あいつは、また人の話を聞かなかったのか。伊藤さんについてるように言ったのに。
「先輩ってば!」
夢うつつで山崎翔子が片手を挙げる。ごう、と空気が渦を巻く。初対面のときから、僕はこの子が苦手だった。彼女には、少し自分に酔っているような所がある。
「しっかりしろーっ! 寺生まれ!」
ばこん、と頭の後ろに重いものがぶつかった。痛え、と思うまもなく、僕は自分がとんでもない危険にさらされていることに気づいた。山崎翔子の様子は明らかにおかしい。彼我の距離は十メートルちょっと、それにこの気温――。
「破」
右手を突き出すのと、山崎翔子が腕を振り下ろしたのが同時だった。豪風が吹く。真夏のコンクリートジャングルなんかはおそらく比にならない熱の塊が押し寄せる。
僕こと藤堂透は、真弓千聡の見たところの“火”に飲みこまれた。
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