其之三 浸水! 怪奇探索部!
十分が経過した。自販機に飲み物を買いに行ったはずの伊藤さんも、その様子を見に行った山崎翔子も、戻ってくる気配はなかった。
「遅いわね……」
世古さんはさっきから、檻の中のライオンみたいに剣呑な雰囲気を撒き散らして、うろうろしている。お陰でこっちまで落ち着かなくなって、僕はスマホをしまったり出したり、その度に時間を確認した。
「ごめんね、ちょっと見てくるわ。あいつ、また変なのに絡まれてるのかも知れないから」
年度初めは色んな勧誘が多いのよ。二人も気をつけてね。世古さんはそう言うと、あっという間に廊下を走って、階下に消えた。全然知らない大学の構内に、僕は真弓と二人で取り残される。
「大丈夫ですかね」
「平気だろ。所詮、同じ大学の中なんだし」
「私が言ってるのは、翔子ちゃんです。痴話げんかに発展したりしたら大変ですし」
僕は顔をしかめた。勘弁して欲しい。
「あんまり関わりたくないな」
「じゃ、その時は私一人でなんとかします。翔子ちゃん、世古さんみたいなタイプとはとことん相性悪いから」
「それは――」
確かに物静かな被服部員と、明るく元気にサークル活動をしている大学生とが喧嘩すれば、分があるのは後者のような気がした。もちろん、“彼女のいる男に言い寄る女”と“男の彼女”で考えても、理は後者にある。たぶん。
「そうかも」
「でしょ。軟着陸出来るならいいんですけど。翔子ちゃんも、結構頑固だから。こじれる時は、めちゃくちゃこじれるんですよ」
真弓はつまらなさそうにそう言って、レシートで爪を磨いた。
「じゃ、山崎さんの味方はしないのか」
「煽るだけですよ、そんなの」
つまらないこと聞かないで下さい、とばかりに会話を打ち切って、真弓は手元に視線を落とす。僕は無理に話題を探すのはやめて、自分のスマホに集中しておくことにした。真弓千聡には、僕の、気まずいのをなんとかしたいだけの努力を見透かしているようなところがある。
それにしても、スマホをいじって時間をつぶす時、世の中の人は何をしているんだろう。僕はトークアプリに登録した友達も少なくて、ゲームをするわけでもないから、スマホを触っているときは本当にスマホを触っているだけになってしまう。音楽は聴けるようにしてあるけど、一応は真弓と一緒にいるわけだし。
横目で、後輩のスマホを盗み見る。思えば、僕はこいつのことをほとんど知らない。部室にいる時は、たいてい僕らは宿題をしているか部誌の話をしているかで、自分のことはほとんど話さない。本当に何もしなくちゃならないことがないとき、真弓千聡は何をしているんだろう。
「……遅いですね」
当の真弓が、いきなりスマホの画面から顔を上げたので、僕はとっさに目をそらした。世古さんが走って行ってから、さらに五分が経っていた。
「忘れられたかな」
「まさか。ワンオペの満員レストランじゃないんですよ」
「お友達に連絡は」
「しました。でも、既読つかないんですよね。ほんとに痴話げんかかも」
つまらなさそうに言って、真弓はスマホをしまった。
「先、続きを始めちゃいますか。この調子だと、いつまでかかるかわかりませんし」
レフ板、先輩が持ってましたよね? 立ち上がる真弓に、僕は座ったまま問いかける。
「いいのか。マジで何かのトラブルかも知れないぜ」
「私達が必要なら、連絡が来ますよ。そうでないなら、成人が二人も行ったんだから大丈夫です。もし、本当に喧嘩になってるなら、私はそこまで面倒見るつもりはないです」
少しうんざりした顔でそう言って、真弓はカメラバッグを肩にかけなおした。真弓がそう言うなら、僕には言うことがない。傍らのレフ板を掴むと、真弓の引いた教室の扉に向けて、歩き始めた。
「あれっ?」
真弓が頓狂な声を上げた。
「どうした?」
「着物がないです」
はあ? と声を出しながら教室に入ってみると、確かに着物がない。着物がないだと?
「教室を間違えたかな」
「ここで合ってますよ」
「誰かが持ってった?」
「私たち、教室の前にいたんですよ」
だよな。
被服研究会が借りているという教室は、撮影用に机や椅子が全部運び出されてがらんとしている。ホワイトボードには今日の日付と撮影の段取りが世古さんと、おそらく山崎翔子の文字で書かれている。僕らがさっきまで撮影していたときのままだ。
ただ、被写体だった着物だけが、煙のように消えてしまっている。教室の中に、黒い、着物を引っ掛けるワクみたいなの……。
「衣桁ですよ、先輩」
衣桁だけが、所在無さげに残されていた。
「これ、私たちが怒られたりしませんよね……?」
真弓が不安げに言う。
「そんなわけないだろ。ずっとここにいたんだから」
「いざって時は、先輩が怒られてくださいね……」
「そんなわけないって言ってるだろ。それに、怒られるのは嫌だ」
この歳で怒られるのはかなり堪える。
「嫌ですよね、怒られるの」
どこかに振袖が落ちてるんじゃないかとでも言うように僕たちは辺りを見回した。教室には視線をさえぎるようなものなんてないから、見つかるはずも無いのに。
「ちょっと、友達にもう一回連絡してみてよ。まだ既読はつかないのか」
「つきませんね。翔子ちゃん、全然見てないです」
困ったな、とはっきり思った時、足元にじわりと嫌な感じがした。雨の夜道で、気づかないまま深い水溜りに足を踏み入れたときの、あの感じだ。僕は反射的に足を引いた。
「うわっ」
「ちょっと、大きな声出さないでくださいってば。どうしたんですか?」
「靴に水が染みたんだ」
僕は、今しがた靴を突っ込んだ床を、まじまじと見つめた。
「水筒でもひっくり返したんですか」
「いや、違う」
なめらかだった教室の床が、なだらかにくぼんでいる。濁った水面に映った自分の顔は、黒いもやに阻まれて見えなかった。僕は靴底を引きずって、一眼レフをマゼンタのトイカメラに持ち替えた真弓のところまでじりじり後ずさった。
「なんに見える? 僕は、池っぽいと思うんだけど」
「池というより、沼ですね。すごい……」
ぱしりとシャッターを切る音と、フィルムを巻く音がする。
「なんの化け物か、わかるか」
「さあ――沼に落とされた人の話とか、沼の主に祟られた人の話はいくつか知ってます。有名なのだと、安積沼のやつとか……でも、沼がこっちにやってくるっていうのは、レアケースですね」
下がった方が良いですよ、そこまで広がってきてますから。真弓の言葉に従って、僕はさらに後ずさった。沼にじゃぶじゃぶ浸かるのがうまいことだとは思えない。沼が広がりきって閉じ込められる前に、部屋から出る必要があった。
「もう写真はいいだろ。移動しようよ」
「え、もうですか?」
「扉まで道が続いてるうちに部屋を出たい。行こう」
拾い上げようとしたレフ板が、沼に飲まれてどぶんと沈む。思ったよりやばそうだ。
「先輩、三脚を!」
ファインダーから顔を上げて、真弓が叫んだ。僕は一瞬迷って、三脚を手に取った。空いた方の手で、まだカメラを構えている真弓の手を掴む。
「あ、ちょっと!」
不満を垂れた真弓の手元で、シャッターが切られる。広がった沼の端で、何か小さなものがわだかまり始めている。僕は後輩を引きずりながら大またに歩いて、教室の扉から飛び出した。
足が乾いた床を踏みしめる感じがして、笑いながら歩く大学生の声が聞こえてきた。
「あああ、靴が湿っちゃいました」
「僕もだよ」
出てきた部屋を振り返る。外から見ると、何の変哲も無い空き教室だ。衣桁が一つ、ぽつんと置かれている。でも、普通なら床に落ちているはずのレフ板は、どこにもなかった。
「先輩の落としたレフ板、私が作ったんですよ」
真弓がじっとりした目で睨み付けてくる。悪いとは思うけれど、どうしようもなかったんだ。
「さっき沼から出てきたやつ、見てたか? 最後に立ち上がったやつな」
「出てきたっていうか、生えてきたやつですね。アシだったと思います」
「スケキヨみたいなやつか」
「それは足でしょ。私の言ってるのは、植物の葦。片葉の葦ってやつです、本所七不思議のあれですよ」
撮りそびれたのは失敗ですね、と真弓は視線を伏せる。
「もう行かないよ」
「えー!? 良いじゃないですか、振ってわいた撮影チャンスですよ! みすみす見逃す手はないじゃないですか!」
「もう十分撮っただろ。なんだっけ、葦のほうは知らないけど」
「片葉の葦、ですよ。知らないんですか? 茎の片側にしか葉をつけないという……」
一目でわかりましたよ! と真弓は目をキラキラさせた。
「ただまあ、ちょっと地味なんですよね」
「みたいだな」
僕は適当に相槌を打って、スマホを引っ張り出した。親父も兄貴も、今日は休みを取っているはずだ。家の方に電話をかければ、どっちかは出る。
『……はい、もしもし』
疲れた感じの、低い声が出た。
「もしもし、親父? 僕だけど。透です」
『おう、どうした? 迎えか?』
「や、違う。M大で、ちょっと変なのに遭遇して。沼なんだけど」
『沼。M大で。他には?』
「うん。あと、片葉の葦? っていうのが出てる。今のところ、教室一つだけなんだけど」
ふんふん、と親父の声が聞こえてくる。先ほどまでの寝起きの声とは違い、今は幾分調子がしっかりしていた。
『沼と、葦な。お前たちは安全なんだな?』
「うん、今は」
『よし、わかった。とりあえず、現場からは離れろ。すぐに行く』
「了解」
待ってます、と言って切りかけたとき、親父が言葉を継いだ。
『いいか、お前は手を出すなよ。下手に動いて気づかれると、ややこし』
ブツッ、と父の声が途切れる。窓の外から聞こえていた生活の喧騒が不意に途切れて、昼だというのに夕焼けが廊下に射した。
「先輩」
真弓が不安げにこうべを巡らせた。
親父、ごめん。もう気づかれたし、ややこしいことになったみたいだ。
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