其之一 平穏! 怪奇探索部!

 上手いこと大学に行く用事を作れて、家に帰ってきた時の僕はほくほくしていた。貴重な夏休みの一日を潰してまでオープンキャンパスになんか行く気はなかったし、向こうで被服部と仲良くしているっていう大学生の人からそれとなく話を聞けば、十分レポートはでっち上げられるだろう。


 親父と兄貴は神宮に行ったまま、まだ帰ってきてなかったし、藤堂家は僕の城だった。本堂の掃除くらいはしなくちゃならなかったけど、寺のほうには立ち入るなって言われてる部屋も多かったから、それ程の手間にはならない。


 一人の家では何でも出来る。テレビに接続されっぱなしのスイッチを独占できるし、あり得ないほど時間をかけて煮込み料理を作っていても腹を空かせて文句を言うやつはいない。


 だから、家のガレージに車が戻ってきていたときは、いくらか落胆した。家の鍵はもう開いていて、ちょうど帰ってきたらしい親父たちが玄関を上がるのが見えた。


「おう、透。今帰りか」


「うん。父さんも、おかえり」


「ただいま。何か食べるもんあるか?」


 昨日の夜から、朝まで煮込んでいたシチューが、まだ鍋の中に残っているはずだった。


「飯、食ってきてないの」


「I市から走り詰めだったんでな」


 親父はネクタイを外して、疲れた息を吐き出した。染めるのをやめて白くなり始めた髪の毛と相まって、なんだかいつもより老けて見える。今年で五十代の半ばを通り過ぎようとしているわけだからおかしな話じゃないけれど、親のこういうところはあんまり見たくない。


「今回は長かったね」


「ひどかったぞ、延々会議に付き合わされた。疲れたよ」


 台所のテーブルには、やっぱりスーツを着たままの兄貴がついていた。ガス台に置いたままのシチュー鍋が火にかけられている。


「あれ、食っていいんだよな。勝手に暖めたけど」


「そう、今日の晩飯だよ」


 親父が皿を出して、シチューの様子を見ている間に、僕は兄貴に小声で話しかけた。


「今回、そんなにやばかったの?」


「わかるか」


「何年一緒に暮らしてると思ってるんだよ」


 疲れた親父の背中に、隠しきれない苛立ちが見て取れる。いつも以上に声色が穏やかなのは、強いて抑制しているからだ。


「まあ、ひどかった。十日も会議会議で、結局何にも決まらなくてな。仕事は俺たちが全部やって、功績は神宮に帰属するってのは大体合意が取れてたみたいなんだが」


 それも俺たち以外の、ってことだがな。兄貴は小声で返して、親父からシチュー皿を受け取った。


「それより、俺たちが留守にしてた間、神宮から代理の祓魔師が派遣されてたみたいでな。そっちのほうが問題だ」


「その通り。透、私たちがいない間、寺に部外者を入れたりしなかったろうな」


 怒りに強張った親父の声が割り込んだ。僕はふるふると首を振る。


「入って来たらわかるよ。……僕がいる時間帯なら、だけど」


「……確認せにゃならんな」


 親父はレンジで熱燗をつけた日本酒を、お猪口で煽った。


「神宮の祓魔師って、誰?」


「知らん。それすら通達無しだ。もう引き上げたという話だが」


 怪しい話だ。兄貴が自分のお猪口に酒を注いで、うなずいた。


「年々横暴になってるよな。拘束した挙句にどこの馬の骨とも知れないやつを」


 僕はそそくさとシチューをかきこむ。兄貴まで飲み始めたとなると、二人とも今回のことは相当腹に据えかねたらしい。うちの寺は、五年前にも二つ隣の町にある神社との縄張り争いの裁定に関して神宮と揉めていると聞く。


 明日が休みなのもあって、今日はかなり荒れそうだった。僕は空にしたシチュー皿とスプーンを置いて、手を合わせる。


「ごっそさん」


「もういいのか?」


「うん。食器は洗うから、適当にシンクに入れといて」


 僕は自分も食器をシンクに入れると、台所を後にした。勝手にトモカズキとやりあったことを改めて咎められるくらいなら予想していたけれど、酔っ払いの相手はちょっと勘弁して欲しい。




 二人しかいないくせに、酒盛りは十一時を回るまで続いた。ゴールデンウィーク課題と題して出されたいつもより多い宿題をこなしてしまうのに、僕はイヤホンをつけないと集中できなかった。


 静かになった頃、僕はイヤホンを抜いて耳をすませた。そろそろ歯磨きをして眠ってしまいたいところだが、歯ブラシの置いてある洗面所は台所に隣接している。


「……」


 間違いなく静かになっていることを確認すると、僕はしのび足で部屋を出た。脱衣所といっしょくたになった洗面所の扉を開けて、いきなり兄貴と目が合う。空気がむしむししているのは、風呂を使った後だからみたいだった。


「なんだ、お前も風呂か? 入るなら追い炊きしたほうがいいぜ」


「歯磨きだよ。親父は?」


「寝た。俺も飲みすぎたわ」


 もう頭が痛い、と言って、兄貴はこめかみを抑えた。バカだ。「そんなこと言ってるのは今だけだ。お前も必ずこうなるぞ」と不吉な予言を吐いて、大学五年生は脱ぎ散らかしたスーツをハンガーにかける。


「臭いな。おい、ファブリーズ見なかったか」


「台所にあるでしょ。焼肉でも行ったの?」


「帰る途中で火事を見かけてな。ちょっと寄り道してたんだ」


 ボヤだったけどな。兄貴が霧吹きを拭いて、洗面所にファブリーズの飛沫が舞った。


「なんでまた、そんな悪趣味な」


「野次馬じゃねえよ。妙な気配がするって親父が言うんでな」


「へえー」


 親父も、僕と同じであんまり良く見えるほうじゃないけれど、僕と違って、全く探知能力が欠けているわけじゃない。ファジーな第六感だけなら、神宮が擁している連中と比べてもかなり鋭いはずだ。少なくとも、本人はそう言っている。


「まあ、なんともなかったわけだがな。一応、気をつけとけ」

 

 兄貴はスーツの懐を探ると、一つづりになった紙束を引っ張り出した。長方形の和紙に印刷された読めない毛筆は、兄貴が祓魔に使っているお札だ。


「お前も持っとけ。使い方はわかるな」


「……そんなにやばいの?」


「やばいっつーかな。電話したときも言ったが、何かあっても駆けつけられない公算が大きい。お前、まだあの女の子と一緒にウロチョロしてんだろ」


「まあね」


「ゴールデンウィークもどっか行くのか?」


「行くけど……」


「どこへ」


「M大。今度は普通に写真部の活動だよ。危なくないって」


 まだ酔いの残る顔で、兄貴は僕にお札の束を押し付けた。


「まあ、一応持っとけ。大学に何しに行くんだ?」


「うちの被服部が大学生と一緒に着物の修復をやってるんだって。作業の記録写真を撮影してくれって頼まれたんだよ。知らない?」


「大学は広ぇからな……高校生の部活とだろ? 教育学部なら、似たようなことをやってる奴はいくらでもいるし」


 そういや、最近大学行ってねえな。留年生はどうしようもないセリフを吐いた。


「春休みは終わったんだろ。行けよ!」


「そうだなあ、今年こそ卒業しないとまずいよなあ」


 兄貴はどこか上の空でスーツにファブリーズをかけた。また留年しそうなにおいをプンプンさせている兄を置いて、僕は洗面所を出た。


台所の椅子を並べた上に、親父が寝転がって、いびきをたてているのが聞こえた。酒が入って、いつもより数割増しで大きくなったいびきは、階段を上って自室の扉を閉めるまで、かすかになりながらも聞こえ続けていた。


 僕も含めて、それぞれが自分のことで精一杯の家だ。つまり、いつも通りの藤堂家。


 後ろ手に部屋の戸を閉めて、ベッドの上からスマホを取り上げる。珍しくLINEのアイコンにバッジがついて、真弓から明日の待ち合わせについての連絡が来ていた。二時間前の会話に《100%わかった!》のスタンプを返して、僕はスマホを布団に放った。


 こうしていると、なんだか、すごく全うな高校生みたいだった。

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