其之六 全没! 怪奇探索部誌!

 水を排水口に流してしまうと、僕らにできることはほとんどなかった。ほのかに海の匂いがしてはいたけれど、基本的にぶちまけられたのはただの水だ。「あとは自然に乾くのを待てばいいでしょう」という真弓の言葉に同意して、僕らは――少なくとも僕は、こそこそしながら女子トイレを出た。


 でも、その必要はなかったかも知れない。この時間になれば校舎に残っている生徒はほとんどいないし、文化部棟にいるような連中は他人にそんなに興味がない。


「あれ」


 僕が廊下にしゃがみこむのと同時に、真弓は辺りを見回した。


「また救急車ですね」


「かなり近いな」


 サイレンの音は、近いどころか、今も近づいてきていた。窓から校門のほうを眺めていた真弓が、弾んだ声を上げる。


「あ、入ってきましたよ先輩! ほら、ゴミ拾いしてないで、行きましょう!」


「行くって、どこに」


「下ですよ。救急車が来たなら、野次馬しに行かないと!」


「行かないとならないことはないって。あんまりはしゃぐなよな」


 くしゃみを一つして、階段を下る真弓を見送る。だいたい、救急車が誰を迎えに来たのかなら、窓からでも十分見えるのだ。


 校舎の影から、ストレッチャーが走って来る。救急隊員と一緒になって出てきたのは、生徒会の面々だ。そう思って見ると、ストレッチャーの上でのびているのは笹軌先生のようだった。野次馬の生徒たちが遠巻きに見守る中、生徒会の顧問は救急車の中に運び込まれた。


 生徒会の連中が立ち止まったのは、付き添う気がないかららしい。おっとり刀で真弓が野次馬に合流したのが見えた。


 僕はもう一つくしゃみをして、部室に向かって歩き始めた。このまま冷えるに任せていたら、風邪を引きそうだった。かばんにタオルの一つでも持ってきてたっけ? ハンカチで我慢しなきゃならないんだと、かなりキツイんだけどな……。


 真弓にゴミ呼ばわりされた紙片をポケットにしまう。白くて四角い紙切れには、“水”とだけ書かれていた。


    ◆


「お前――」


 そこまで聞いて、僕は受話器をテーブルに置いた。兄貴の説教が終わった頃を見計らって、もう一度取り上げる。家族はスマホにかけてくるからと油断して、寺のほうの電話を取ったら、これだ。どういうわけだか兄貴は、僕が怪異に関わるとわかるようになっているらしい。恐るべきは寺生まれのネットワークである。


「どういうつもりだ、ええ? 俺の心配なんぞはどうでもいいと思ってるのか?」


 終わっていなかった。スピーカーを耳から遠ざけながら、ほとんど脊髄反射で釈明する。


「そんなことないって。仕方なかったんだよ、いきなり標的にされたんだから! 式神使ってるやつがいたんだよ!」


「なんだと」


 受話器の向こうで、兄貴の声が上ずった。


「それマジか?」


「たぶん。“水泳部員”を追っ祓った後、水ってかかれた紙を拾った。たぶん、式神だと思うんだけど」


「今持ってるか? 紙質は?」


「コピー用紙に、ボールペンで書いてある。しょぼいやつだけど」


「ちょっと待ってろ」


 向こうでごそごそ言う音がして、兄貴が誰かと話す声が聞こえてきた。スマホのマイクくらい、手でふさげばいいのに。


「……式を使ったやつの目星はついてるのか?」


「たぶんね。笹軌先生って、兄貴もわかるでしょ」


「わかる。英語の……まだ生徒会の顧問か? なんであの人が式神なんか」


 卒業したのはずいぶん前だけど、兄貴もT高生だった。


「それはわかんないけど。僕が祓った直後に溺れてたから」


「返したのか? 何を使った」


「五芒星のヤツ。式だと思ってなかったから、偶然だけど。返してやった」


 兄貴の返事は、しばらくなかった。電話の向こうで定四郎さん、と兄貴を呼ぶ声が聞こえてくる。


「……わかった。悪いけど、俺も親父も、まだしばらくI市に残らなくちゃならない。この件はあんまり深入りするなよ、マジで死ぬからな」


「了解」


「危なくなっても、すぐには行けないからな。最悪、自力で身を守れ。また標的になったら、容赦するな」


「してないよ」


「……そうだな。とにかく、気をつけろ。あの女の子もちゃんと見とけよ」


 わかったよ、と答えるのと、「今行く!」と兄貴が叫ぶのが同時だった。ほとんど一方的に電話は切れて、僕は一人で取り残される。


 はぐしょ、とくしゃみをして、身震いする。頭を拭いて着替えたはずだったけれど、体はまだ冷え切っていた。


 とりあえず、風呂を沸かして……その前に、風呂を洗わないと。それから、夕飯のことを考えなくては。今日はどっちも、親父と兄貴の当番だったはずなんだけど。


    ◆


「昨日はひどかったんじゃないですか?」


 探したんですよ、と真弓が口を尖らせた。


「急にいなくなって、びっくりしたんですから。帰るなら挨拶くらいしてください」


率先して野次馬しにいったやつにだけは、礼儀を説かれたくない。


「そういうんじゃないんですってば。笹軌先生のことがあったから、心配してたんですよ」


「ああ、それはちょっと、悪かったな」


 生徒議会中に倒れた笹軌先生については、クラスでも話題になっていた。自分の席でスマホをいじりながらでも聞こえてきたんだから、そこそこの広まり具合と言える。


 半分方盗み聞きしたところによれば、笹軌教員が議会で一席ぶっているちょうどその時、生徒会室はものすごい降水に見舞われたのだという。室内で降水と言うのもおかしな話だが、とにかくバケツの水をぶちまけたように水が降り注いだ。


 それだけでもかなり面白い話だけれど、もっと妙なことには、水は笹軌教員の真上にのみ降り注いだ。だから、笹軌教員の周りは本当にバケツ一杯の水をぶちまけたみたいなことになっていた……らしい。


 ただ、不幸なことに男性教員の被害はバケツの水をかけられたなんてものじゃなかった。まるで溺れているみたいにもがいて、笹軌教員は倒れた。生徒会の誰かが、すぐに救急車を呼んだ――。


「昨日、祓い損ねたんでしょうか」


「いや、今度こそ、ちゃんと祓った。笹軌先生をああしたのは、僕だよ」


 「何言ってるんだこいつ?」という顔で、真弓が僕を覗き込む。


「先輩、そんなこともできたんですか?」


「違う。一連の事件は、笹軌先生が起こしてたんだ。こいつを使ってな」


 僕はポケットから、昨日の紙片を取り出した。


「それって……」


「真弓がゴミ呼ばわりした紙切れだよ。つくりは雑だけど、立派な式神、呪術の道具だ」


 触っても大丈夫だ、と言って式をテーブルにのせる。真弓はおそるおそる、といった風で紙片をつまんだ。


「今は、ただのコピー用紙だよ。そいつに“水泳選手”だの、水泳部の幽霊だのの噂が乗っかって、あんなわけのわからないことになってたんだ」


「はあー」


 真弓は丁寧に式神を戻して、座りなおした。


「でも、なんで笹軌先生がそんなことしてたんです?」


「さあ……弱小部をぶっ潰しておきたかった、とか」


「それなら、式神なんか使わなくても出来ますよ。昨日先生が倒れなきゃ、部費の再編は決まってたらしいですし。水泳部は、弱小ってほどじゃないし」


「それは、そうだけど」


 情報が足りませんね、と真弓は腕を組んだ。


「そういえば」


僕は話題を変えることにした。あんまり深入りするなよ、と忠告したところで、そんなことを聞くやつじゃない。


「昨日の星と格子の記号、あれは何のおまじないだったんだ?」


「あれですか? I市の海女さんに伝わるトモカズキ除けです。いちかばちかでしたけど、効いてよかったですね」


「トモカズキ?」


「I市の方言で、共に潜る者。潜く、と書いてかずくと読みます。海の中で海女さんが出会う妖怪ですよ」


 それから、真弓は少し、得意げにトモカズキについて講釈を垂れた。


「溺れるっていうのと、ドッペルゲンガーっていうので、トモカズキに似てるな、とは思ってたんですけど。阿用郷の鬼も、その、赤ちゃんと混じってましたから。ひょっとしたら効くかも知れないと思って、先輩に五芒星を描いてもらったんです」


 私が描いたやつじゃ、効果ありませんでしから。やっぱり寺生まれってすごいですね。そう言って、真弓は笑う。


「ってことは、半分くらいあてずっぽうか」


 今更ながら、背筋が冷えてきた。震え出した肩を自分で抱きしめるようにして押さえる。


「あ、それで笹軌先生があんなことになったんですね」


「どういうことだ?」


「知らないで使ってたんですか? 五芒星を一筆書きすると、始点と終点は同じところになるでしょ。だから、五芒星には“何かを元通りにする”とか“呪いを返す”って意味もあるんです」


 全然、知らなかった。五芒星の効果は聞いたことがあるけど、その由来までは教授された覚えがない。


「こういうのは、興味がないと知りませんものね。もう少し興味のありそうな話をしましょうか」


 真弓は立ち上がると、部屋に張り渡されたタコ糸に洗濯ばさみで吊り下げられていた写真を外し始めた。


「おととい撮ったやつです。昨日は邪魔が入りましたけど、ようやく現像できました」


「おおー」


 どれも、妙な色のにじみがあったり、光の加減がおかしかったりしている。それでも、前回撮ったものよりは格段に上達しているようだった。ピンボケの写真は、前回より格段に少ない。


「けっこう、いいんじゃないの」


「やばそうなのはありますか? 持ってるだけで呪われそうなの」


「……ないんじゃないか」


「そうですか、良かっ――いえ、良くないですね」


 真弓は肩で息をついた。


「私も見てみたんですけど、あんまり使えそうなのがないんですよね。前と違って、ごまかしようがないのばっかりだし」


「この場合、綺麗に撮れてるのがかえってよくないな」


 そう、鬼を撮りに行ったときと比べると、ちゃんとした写真が多い。ちゃんとした写真が多すぎる。心霊写真らしいものは一つもなかったし、心霊写真だと言い張れそうなものもない。


「あれ、そっちの山は? 一昨日のとは違うのか?」


僕は机の反対側に積まれた写真の束を指した。立った今、手に取ったのと同じくらいの写真が積まれている。


「それは、ですね」


「あ、失敗したやつ?」


「そういうわけじゃないんですけど、その」


 一枚手に取って、すぐに妙だと思った。ピントはあっている。色の歪みは、トイカメラで撮ったせいだろう。冬柴家の廊下らしい輪郭が移っている。妙だというのは、画面いっぱいに映った曇り空だ。その真ん中に、見慣れない女性が手を伸ばしている。


「ちょっと、綺麗に写りすぎちゃってて」


 いや、見覚えはあった。冬柴家の二階、冬柴彰の机の上にあった写真と、同じ顔をしている。


「他にもいくつかあるんですけど……彰さんがいたのが五年前だから、顔を覚えてる先生もいるじゃないですか」


 流石にまずいでしょう。真弓はそう言って、写真をまとめた。


 普通に卒業した生徒ならともかく、冬柴彰のような事情でいなくなった生徒なら、記憶にも残りやすいだろう。それを面白半分で(実際はそうでないとしても)記事にしたとなれば、あまり良い気分になる先生はいまい。


「本人はなんて言ってる?」


「昨日から顔を見てないんです。やっぱり、アイツに追いつかれちゃったのかも知れません」


「そうか……」


 落ち込むな、とか、冬柴彰はもう死んでるんだから、とか言うのは簡単だったけれど、僕はそうしなかった。真弓みたいにはっきり見えているなら、そういう割り切り方をするのは難しい。僕のほうが勝手に割り切れば、それでいい話だった。


「はぐしょ」


 僕はもう一度くしゃみをして、鼻をかんだ。


「……風邪ですか?」


「昨日は濡れたままで帰ったからな」


「ちゃんと拭かないからですよ。病院に行ったらどうですか」


 風邪はひき始めが肝心ですよ、と言いながら、真弓はスマホをいじった。こいつは、風邪の類とは無縁そうだな、と思う。


「大抵、外来は五時までですね。今から行けば余裕で間に合いますよ」


「平気だって、熱もないし。行ったところで、精精とんぷくがもらえるだけだろ」


「気づいてないかも知れませんけど、今日はぽかぽか陽気であったかいんですよ。ガタガタ震えてるのは体調悪化のサインです」


    ◆


 真弓の言ったことは、概ね正しかったらしい。今日はダウンを来てちょうどいい寒さだと思っていたが、町を歩いている人たちにそんな厚着をしている人は誰もいない。冬が戻ってきたと思っていたのは僕だけで、昨日と同じ春模様が続いているらしかった。


 病院の待合室はそれなりに混んでいたけれど、アナウンスを聞いていると僕の呼出し番号までさほど間はなかった。聞こえてくる話し声やアナウンスから察するに、ごちゃごちゃしている人の多くは、リハビリの順番待ちや、面会の受付待ちの人だった。


「おや、君は」


 不意の声に顔を上げる。冬柴憲一が立っていた。


「その節は、どうも」


 学校から歩いてくるうちに、体調不良を実感したせいか、かなりだるくなってきていた。僕は座ったまま、頭を下げる。


「今日は、どうしたんだ? 調子が悪いのかな」


「風邪ですよ」


「ああ、それは。診察は今からかな」


 冬柴憲一の声は、なんだか弾んでいた。そわそわしながら僕を見下ろしてくる。仕方ない、適当に満足させなきゃ、こいつはどこかに行ってくれなさそうだ。


「……冬柴さんは、どうなされたんですか」


 期待通り! といった顔で冬柴憲一は歯を見せた。


「ああ! 妻のお見舞いだよ。なに、妻の教え子が見舞いに来てくれたからね、引率さ」


「それはそれは」


 マスクをしてくればよかった、と思いながら僕はくしゃみをした。


「君たちのお陰だよ。こんなことなら、あいつも早く入院させておくんだった」


「なによりです」


 まだ何か言いたそうな冬柴憲一に、僕はエントランスを示して見せた。


「あれが生徒さんたちじゃないですか? 引率に行ってあげたほうがいいんじゃ?」


「そうだね。じゃあ、私はこれで。君もお大事に」


 ぞんざいに手を振って、僕はソファに身を預けた。エントランスに、花束を抱えた学生服の一団がいるのが見える。


 ピロンとスマホが鳴って、マナーモードにしてなかったことを思い出す。“不明なアカウント”から、「昨日はありがとうございました」という短文が送られてきていた。それから、トークに“ちさと”が参加してきて、立て続けに文が送られてくる。


「彰さんに会いました!」


「全部解決したと思って、水泳部と一緒に泳いできたそうです」


 スポンと音を立てて上がった画像には、左隣に大きな空間を空けて、ピースサインの真弓が一人で写っている。僕はため息をついて、


「写ってないぞ」


 とだけ送った。既読がつくより先にスマホの電源を切って、ポケットにしまう。花束を持った学生たちが、冬柴先生と一緒に階上に消えるのを見送るうちに、僕の名前が呼ばれた。


 まあ、こんなもんだろう。


 僕は重い体とかばんを引きずって、診察室を目指して歩き始めた。また、すぐに新しいネタを探しに行かなくちゃならなくなる。真弓がまた、何か言い出す前に、体を治しておきたかった。


 また、いざって時に蚊帳の外にいるのは、やっぱり自分を許せそうにない。

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