其之五 水泳部の幽霊 あるいはトモカズキ

 僕は立ち止まった。古い廊下はこんなに長くなかったはずなのに、終わりが見えない。文化部棟の中はスピーカーをオフにした時みたいに静かだった。


 窓の外では外の部活が練習を始めていて、さっきまで野球部の声出しが聞こえていたはずが、今はすっかり静まり返っている。代わりに、窓から差し込むのはものすごい夕焼け。E駅で鬼と出会ったときと同じだった。


 あの時は、兄貴に電話をして助けてもらった……というところまで思い出して、スマホを部室に落としてきたことに気づいた。


「くそ」


 つぶやいた口から、気泡が空中に漏れた。ぎょっとして開いた口から、小さな気泡が立て続けにこぼれ出す。水の中に入ったときみたいな、特有の圧迫感はない。体重を支えるのに、浮力の補助は感じられない。でも、おそらくこれが陸上で溺れることの始まりだ。


 今のところちゃんと息を吸えているのは、スマホを受け取らなかったからなのか、僕が寺生まれだからなのかはよくわからない。後者なら、真弓は僕よりもっとやばい状況にいる。


「くそ!」


 飛び出したはずの写真部室が目の前に現れて、僕はもう一度大きな気泡を吐き出した。どっちに行けばいい。


 廊下に敷かれたリノリウムの継ぎ目から、黒いもやが噴き出した。思わず腰が引ける。


「……」


 まとまらないままのもやと僕は、つかの間にらみ合った。不意に思い当たって、口を動かす。


「冬柴さんか?」


 もやはぐるりと空中を巡って、ごわごわとした囁き声を返した。


「肯定……でいいんだよね。真弓はどこにいる?」


 もやは空中を泳いで、僕の背後に回った。写真で顔を知ったからか、以前、真弓に引き合わされたよりも僕の心は落ち着いている。


「こっちだな」


 上履きをパタパタと鳴らして、僕は廊下を走り出す。ほとんど同時に部室の扉が弾け飛んだのを背中で感じる。


 視界の端に、黒い影が見えた。首を振り向けた瞬間、髪の長い人の形が、バタ足で空中を泳いでくる姿が見えた。


 “水泳選手”だ……。




 かつて、親父と兄貴が教えてくれた手を出しちゃいけないものリストの中には、T上野から乗ってくる一本足の“客”や、42号線の怪物と並んで、“水泳選手”が挙げられている。


 こいつは水泳、中でも競泳をする者が、全力で泳ぐときに現れる。すなわち大会や記録会。狙いを定めた相手の隣のレーンを泳ぎ、追い越そうとする。それだけの怪異だ。追いつかれた例は確認されていない。“水泳選手”に追われた者の中には、普段以上の実力を出せたという者もいる。


「だがな、こいつは絶対に善いもんじゃない」


 酒を片手に、少し酔っ払った親父は続けた。


「こいつに見初められたヤツはな、それほど経たないうちに水泳を止めてるんだ。少なくとも、競泳からは遠ざかってる」


「なんで? 怪我したとか?」


「目が合うそうだ。泳ぎ距離が長くなれば、プールの端についてもレースは終わらない。その瞬間に、“水泳選手”は目をつけたヤツに何かするんだ。……おれ達は追いつかれたって話を知らないだけで、追いつかれたらどうなるかはわからないんだよ」


「へえー」


「おれも含めて、少しは出来るヤツが集まってこいつを祓おうとしたことがある。何度もな。だが、どんなに完璧に祓ったと思っても、一月もするとまた目撃情報が挙がってくるんだ」


 だから、お前は下手に手を出すな。やぶへびになりかねん。


 親父はそう言って、新しく熱燗を作りにテーブルを立った。テレビを見ていた兄貴が自分のお猪口を空けて、今度は“42号線の怪物”の話を始めた。




 その時は、ほとんど何も感じなかった。僕は競泳なんかやるつもりはないし、泳ぎも全然達者な方じゃない。だから、関係ないはずだったのに。


 “水泳選手”は音もないバタ足で、全速力の僕を追いかけてきている。走る相手を狙うなら、陸上部にでも行けよ!


 僕は背後に向けて、いい加減に除霊ビームを放った。当たるわけがなかった。足を止めて振り向くか、追い抜かせて背後を狙う必要がある。


 この状況じゃ、足を止めるのも追い抜かせるのも同じことだった。思わず泣きそうになる。どっちにしたって、親父の話じゃろくなことにならないじゃないか!


 もやがゆらりと僕に寄り添った。


「気にすんな! 離れてろ!」


 僕は走りながら手を振って、冬柴彰を追い払う。幽霊の類が除霊ビームの射線に入れば、どんな相手でも無事ではすまない。それに、僕には幽霊を消すのと、幽霊が自然に消えるのとでは、同じ消え方なのかわからないのだ。


 もやが僕の周りをぐるりととぐろを巻いた。人の話を聞け、余計なことすんな!


 二秒数えて腹をくくると、僕はかかとを支点にくるりと回った。幽霊に救われるより、“水泳選手”に追いつかれたり目を合わせる方がましだ。背後に向けて、手のひらを突き出す。


「破ぁーーーーー!」


 渾身の除霊ビームをすり抜けて、廊下いっぱいに広がった“水泳選手”の黒い影が僕を飲み込んだ。質量のない身体が僕をすり抜けて、廊下を過ぎ去る。


 ぞっとするような感覚と、賢者タイムみたいな脱力感が同時に来た。体力、やる気、勇気、ポジティブなエネルギーが全て奪われて、一気に全身がげっそりする。無限に続く廊下の先で、“水泳選手”が黒いもやを追っていくのが見えた。“水泳選手”は伝承に正しく冬柴彰に照準を定めなおしたらしい。


 肩が壁にぶつかった。この先に広がる廊下はまやかしだ。走ってきた方の廊下は、すでに尋常の長さを取り戻している。


 僕はいつのまにか、文化部棟の端、トイレの前に立っていた。


 気泡を吐き出して、一瞬考える。冬柴彰が案内したかったのがここなら、真弓がいるのは当然女子トイレだろう。今更言うまでもないけれど、僕は男だ。


「……」


 毒々しい夕焼けは、まだ異界のそれだ。だからセーフ!


「真弓!」


 女子トイレに飛び込んですぐ、タイル張りの床に倒れた真弓千聡を見つけた。僕を見て後輩は何か言いかけたけれど、空中に気泡が上がっただけだった。真弓の口から、もう一つ大きな気泡が上がった。


 くそ、どうすればいい? この水中に水面はない。地面についた手のひらから壁伝いに結界もどきを張ったけれど、水が引く気配はなかった。


「……」


 もう一度、真弓は僕を見ながら気泡を吐き出した。


「なんだ? なにが言いたい?」


 真弓の口元に耳を持って行く。結界もどきが効いているのか、真弓の息は驚くほど続いているけれど、僕よりも“水”の影響を強く受けているのは間違いない。僕は感じていない浮力を受けて、彼女の前髪は空中を泳いでいる。


 どむん、と結界全体が揺れた。ドアのついていないトイレの入り口に、黒い影が立っている。“水泳選手”だ。冬柴彰はどうした。もう追いつかれたのか。


「どうすればいい……どうすれば……」


 背中に痛い汗が浮いた。頭が上手く回らない。外側からの干渉に耐えるのは、内側からのそれより遥かに難しい。


状況を打開できる冴えたやり方は、一つも思い浮かばなかった。ゆっくりと溺れていく真弓を前に、何も出来ることがない。


 軽い音を立てて、真弓が気泡を吐き出した。小さくかぶりを振って、僕の手を取る。


(せんぱい)


 真弓の口が大きく動いた。


(ほし、を――)


 その人差し指が空中に星を描く。


(ほしをかいて)


 なんで? 


(はやく!)


 真弓が大きな気泡を僕の顔にぶつけて、威嚇した。手の甲に爪が立てられて、鋭い痛みが走る。半ば強引に、僕の手は持ち上がった。


 促されるまま人差し指を立てて、僕らの指先は五芒星を描いた。それから、四本の縦線と交差する、五本の横線。星と格子の描かれた虚空が、急に、少しだけ暖かくなった。


 パン! と小気味良い音が鳴って、結界もどきが内側から破裂した。廊下の気配が爆発し、トイレの狭い空間いっぱいの水が重力にしたがって床に叩きつけられた。


「げほっ」


 窓の外の夕焼けが穏やかさを取り戻し、放課後の雑音が戻ってきた。床も、壁も、もちろん僕と真弓もびしょびしょになっていた。


「だい……じょうぶか」


 ワカメのように垂れ下がってきた前髪をかきあげて、真弓の肩を叩いた。後輩はまだ壁に寄りかかったまま、湿っぽいせきをしていた。


「まだ……です」


 せきこみながら、真弓は僕の背後を指差した。冬柴彰と同じくらい崩れた“水泳選手”が、よたよたと歩いてきていた。一歩踏み出すたびに身体がちぎれて、空中に消えていく。


 僕は手のひらに意識を集中させた。


「破ぁー!」


 着弾した、と思った除霊ビームはしかし、影に何の効果ももたらさなかった。よたよた歩いてくる影を避けて、僕らはのそのそ移動した。


「効いてないですよ」


「外れたのか」


「当たってはいます」


 ぜえぜえ言いながら、トイレの壁に背中を押し付ける。


「……星です、もう一度」


「なんのおまじないなんだ、それ」


「いいから!」


 自分の体じゃないみたいになっている腕を引っ張り上げて、再び空中に五芒星を描く。朦朧としながら、影に向かって星を投げつけた。


 今度は、そんなに愉快な音はしなかった。ぼそぼそと囁くような音を立てて、影は真っ二つに裂けた。半ばまで崩れた人の形は、煙を上げながらタイルの床に沈んでいく。


「……やったか?」


「今ので生き返ったかもしれません」


「そうかよ」


 僕は全身の息を吐き出して、床にへたり込んだ。冷えたタイルで尻が冷たくなっても、全身濡れていれば関係ない。水滴まみれのメガネを袖で拭った。


「すいません」


 青い顔で、真弓が振り返った。


「吐きます」


「なんだって?」


 個室の鍵がガチャンとかかって、ばしゃんと水音が聞こえてきた。崩れる人型が、どんな姿で消えていったのかは、見えない僕にはわからない。でも今日ばかりは、なにが起こったのか、見えなくて良かったと思った。




 息が整って来た頃、「えっ」という声がした。首だけめぐらせて後ろを振り向くと、メガネをかけた女子が一人、困惑しきった顔で立っているのが見えた。上履きの色を見るに、三年生らしい。


「何してるの……?」


 いや、それが。僕は空中を見上げながら、口からでまかせを搾り出した。


「後輩の調子が悪くて。保健室まで連れて行くところだったんですけど、我慢できなくなっちゃったみたいで」


 ちょうど真弓がトイレから出てきて、僕の嘘は信憑性を増した。話を聞いていたらしい真弓が、小さく頭を下げた。


「すいません。掃除は私たちでやっておくので、他のトイレに行ってもらえませんか?」


 メガネの先輩は、まだいぶかしむ様な表情でいたけれど、とにかく他所に行ってくれた。真弓はそれを見届けると、スカートの裾を絞った。


「掃除、僕らでするのか?」


「……別に、それも嘘にしてもいいですけど」


 ここは、多少正直に生きておいてもいいんじゃないですか。そう言って真弓は、かたわらのロッカーからモップを二本、取り出した。

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