其之四 水泳部の幽霊 あるいは

 二人も倒れたとなれば、学校の雰囲気も少しは変わるかと思っていたけれど、何ほどのこともなかった。朝のホームルームで、体調不良があれば無理しないように、とついでのように連絡されただけだ。


 それも当然かも知れない。風邪なりなんなり、いつだって一人や二人は学校を休んでいるものだし。仲良しが休んでいれば、昼休みに誰と弁当を食べるか考えなくちゃならなくなるかも知れないけれど、それだって別に大した問題じゃない。


 坂本先輩は学年が違うし、玲二はクラスが違う。二人が休んでいることは知っているだけなのに、僕がこんなに落ち着かないのは、彼らが地上で溺れたことを知っているからだけじゃなかった。


 絶対に祓ったはずだ。


 結界を張るのに自信はないけれど、除霊することにかけて、僕は絶対の自信がある。押しつぶすのは初めてのやり方だったとはいえ、あれは完全に消滅したときの手ごたえだったはずだ。


 僕は文化部棟の廊下をずかずか進んだ。だいたい――。


「あれ?」


 部室の戸を引いて、思わず声を上げた。知らない生徒が、何人も部室のテーブルについている。


「えーっと、写真部ですよね、ここ……」


 頭を廊下に戻して確認しても、やっぱり戸の上には“写真部”の札がついている。おまけに、部屋の前の廊下には、なんだかわからない器具がごろごろ積まれているのだ。


「そうじゃない、って聞いてきたんですけど」


 生徒の一人が答えた。上履きの色を見るに、一年生らしい。


「いえ、写真部は存続してます。先輩も、もうちょっと断固とした態度を取って下さい」


 背後から真弓が割り込んで来て、一番上座の席についた。


「今、生徒会から人を呼びました。向こうの言い分を聞いてから、色々決めましょう」


 真弓が座ったお陰で、席がなくなった。部室に入ったはいいけれど、身の持って行きようがない。


「あー……」


 座った生徒たちがのそりと僕を見上げる。ざっと見たところ、二年生と一年生が半々で混じっているようだ。


「皆さんは、なんなの?」


「あ、おれらはジャグ部です」


「ジャグ?」


「ジャグリング部」


 合点がいった。この前までは同好会だったのが、年度替わりと同時に部に昇格したらしい。


「この人達がいきなりやって来て、部室を明け渡せって言うんですよ」


「え、そうなの?」


「や、それが……」


 ジャグリング部の部員たちは、互いに顔を見合わせた。


「笹軌先生が、ここは空いてるから使っていいって言ったんで。出来ればもう、荷物を運び込んじゃいたいんだけど」


「なんだそりゃ」


「なんだそりゃはこっちだって。まだ使ってるなんて聞いてないぜ」


 口調と視線にとげがある。僕が来る前に、真弓が何かやらかしたのかも知れない。僕は視線をはずした。


「まあ、もう担当者が来るんでしょ。それから話をつけましょうや」


不満げな雰囲気は変わらなかったけれど、とりあえず部屋の中は静かになった。真弓が首をそらして、さかさまに僕を見る。


「先輩、部活動継続届、ちゃんと出しましたよね?」


「出したよ。一緒に出しに行っただろ」


「不備があったとか」


「そしたら出したときに言われるって」


 真弓はどうも、僕の事務処理能力を信用していない節がある。僕は前科があるからともかくとして、自分の記憶にくらいは自信を持って欲しい。


 時間つぶしに、何人かがスマホを取り出した頃、ぱたぱたと廊下を歩く足音がして、戸が開いた。


「遅くなってごめんなさい。失礼しますね」


 狛田史が顔を出した。


「えー、もう話は聞きました。で、今確認してきましたが、写真部の部活継続届はちゃんと出ています。それに伴って、この部室は写真部が使うことになってます」


 ええ、という抗議の声がジャグリング部員から上がった。


「というか、部室の使用許可は別に取る必要がありますから。部長さんが申請してるんじゃなかったの? 誰がここを使っていいなんて言ったんですか?」


「おう、すまんすまん。うっかり良いって言っちゃったんだわ」


 開いた戸から、笹軌先生が顔を出した。


「悪いな、もう使ってないと思ったんだ。とっくに予算も再配分しちゃったし、廃部になったもんだと」


「なってません」


「なってませんよ」


 真弓と狛田さんがほとんど同時に、同じくらい低い声で言った。狛田のほうはこう続けた。


「部室の使用許可はジャグリング部部長の鈴木さんが申請中です。もう何度も言いましたが、生徒会の頭ごしにこういうことをするのは止めてください」


「ごめん、ごめんって。遅かれ早かれなら、早い方がいいと思ったんだよ。写真部なんかが流行ってるとも思えなかったしさ……」


 真弓の額に青筋が浮かぶのを、僕はドキドキしながら見ていた。


「じゃ、ま、そういうことだ。お前ら、部室はもうちょっと待っとけな」


 笹軌先生はそう言うと、僕らに笑いかけて去って行った。


「……ごめんなさい。生徒会の不手際です。ジャグ部の皆さんは、今日は荷物を持って帰ってください」


 はーい、という返事とため息の混じった声を上げて、ジャグリング部の連中は席を立った。


「僕らも手伝いましょうか」


 必要ないですよ、と部屋の中から真弓が言った。


「いえ、大丈夫です。私物なので、持って帰るだけですから」


 やんわりと、でも明確に拒絶を示して、ジャグリング部はあっというまに片づけを済ませた。部屋に戻ってみると、腕を組んだ真弓が、眉間にしわを寄せて座っていた。最後のあれはないんじゃないか、と言うより先に、真弓が立ち上がった。


「失礼な人達ですよね」


 それから、隣の文芸部室の戸を開ける。


「なにしてるんですか、先輩も来て、手伝ってください」


 文芸部室に入ってみると、机の上にいくつも機材が置いてあった。写真部の戸棚で見たことがあるものばかりだ。


「これ、どうしたんだ」


「……あの人達」


 真弓の声が震えた。


「いきなり来たと思ったら、『今日からジャグ部が使うから出て行って欲しい』って。私が部屋に残ってたら、無視して戸棚の荷物を外に出し始めたんです。わけわからなくて。全然話も聞いてくれないし」


「うん」


「勝手に使ってるわけじゃないのに。戸棚に戻そうとしたら、めちゃくちゃ怒られて……とにかく機材とかばんだけ、緊急避難させたんです」


「そうか」


「……すみません。ちょっと抜けます」


「じゃ、こいつら部屋に戻しとくわ」


「はい」


 ぷい、とそっぽを向いて、真弓は小走りに廊下を抜けた。もうちょっと早めに来れば良かったな、と思う。あるいは玲二が今日も学校に来てれば良かったのに。


 カメラを一つずつ、大事に戸棚に戻す。特にマゼンタ色の二眼レフは気を使う。最後に、クリーム色のトートバッグが残った。真弓が通学に使っているやつだ。


「……っと!」


 抱え上げようとして、つんのめる。中からノートが何冊か落ちた。上から覗くと、分厚い辞書が入っているのが見えた。学校指定の英和辞典だ。持ち帰って自習に使うよう指導されてるけれど、みんな学校に置いて帰っているやつ。真弓は思ったより、真面目に勉強しに学校に来ているらしい。


 いや、それよりさっさと片付けないと。中身が教科書ばかりとはいえ、あんまり他人のかばんの中身をじろじろ見るのはマナー違反だ。ノートを拾ってかばんにしまう。それから、青い表紙の小冊子……『晴嵐』だ。散々文芸部を敵視しておきながら、部誌はちゃんと持って行っていたらしい。


「ちゃんと読んでるんじゃん」


 思わずちょっと笑って、ページをめくる。昨日の今日でかなり読み込んだのか、ページは歪んで、ごわごわしていた。


 いや、違う。このごわごわは、水に一度ぬれて乾いた紙のごわごわだ。写真部の部室に戻って、昨日玲二から受け取った部誌と比べてみる。真弓のものに比べるとそれほどでもないが、僕のも水にぬれて乾いたあとがあった。


 玲二は部室で倒れていたという話だ。先生たちは、お茶をがぶ飲みして失敗したんだろう、なんて言っていたけれど、僕たちはそうじゃないことを知っている。


 地上で溺れる、というのは、どういう感じなんだろう? 僕は真弓から聞いただけだけれど、息が詰まるだけなら、溺れるなんて表現は使わない。窒息じゃなくて溺れると言うなら、水が必要になる。


「ただいま戻りました……あ!」


 真弓がからりと戸を開いて、声を上げた。


「先輩、私のかばんの中身見たんですか?」


「ああ、いや。事故なんだ、ひっくり返しちゃって」


「マナー違反ですよ、そういうの!」


「……ごめん」


 トートバッグと『晴嵐』を返して、床にかがむ。あたり前だけど、一日も経ったあとの床には水のこぼれた痕跡なんて一つも残っていなかった。


「あのさ」


「なんですか?」


「坂本先輩の話なんだけど。倒れたときは、どんな感じだった? 急に息が出来なくなって、倒れたのか」


「ええと、そうですね。倒れたときはそうです」


「溺れたって言ったよな。なんでそう言った? 水が湧いてきてたのか?」


「そんな感じです。体の中から水が出てきて、溺れてる、って救急車の人が」


 玲二の場合もそうだったとすれば、ここでお茶を盛大にこぼしたとかでない限り、『晴嵐』を湿らせたのは玲二が溺れたのと同じ水だ。ここに『晴嵐』があった時……つまり、『晴嵐』を下駄箱に持って行くより前に、玲二は溺れていたことになる。


「じゃあ――」


 僕らが昨日会った、あの玲二は誰なんだ?


 ズボンの尻ポケットの中で、スマホがけたたましい音を立てた。“不明なアカウント”から、音声通話が来ている。冬柴彰?


「はい、もしもし」


 スピーカーからごわ、と声がしたように思った瞬間、スマホがもぎ取られた。振り返った僕の前で、真弓千聡が通話を切る。


「なにすんだよ」


「いいじゃないですか、別に。私が通訳した方が早いでしょ」


 そりゃ、そうだけど。


「スマホは返してあげますから」


 真弓はぞんざいに、僕の黒いスマホを突き出した。釈然としない気分で、手を伸ばす。


 ――何か、くれるみたいです。


 昨日、貰いに行くなよ、と僕は返したはずだ。それに、目の前の相手は僕にも見えている。なのに、思わず手が止まった。


「いらないんですか?」


 焦れたように、真弓が言った。ほとんど同時に、パン、と手を打ったような音が聞こえた。窓から差し込む放課後の夕日が、急に病的な色を帯びた。口の中に嫌な味がする。


「……スマホはそこに置けよ」


「受け取ってください」


「嫌だよ。トイレの後、手ェ洗ってないんだろ」


 精一杯の挑発は、“ト”の後から震え声になって、なんだか分からなかった。


 ばたばたばたばた、と部屋中に湿った音が響いた。真弓千聡の形をしていたものが、どろりと輪郭を崩す。その口から黒い泡が盛り上がって、ごぼんと音を立てた。


 暖めていた腕を、不意打ちで突き出す。


「破ぁーーーーー!」


 除霊ビームは、目くらまし程度にしか役に立たなかった。スマホが硬質な音を立てて床に落ちる。僕は黒い塊の横をすり抜けた。


 真弓は一人になる場所に、どこを選んだんだろう。去年の僕みたいに、トイレだったらいいんだけど。そうじゃなかったら――頭を振って、最悪の想像を追い払う。人気の失せた文化部棟の廊下を、僕はまっすぐ駆け出した。

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