其之三 水泳部の幽霊
冬柴家の雰囲気は、異様だった。階上からは、女の奇声が聞こえてきていたし、目の前で話す壮年に差しかかった男は憔悴しきって、かなりおっかない目付きになっている。
「失礼しました、名乗るのが先ですな。私、冬柴憲一と申しまして、教師をやっております」
「冬柴さんですね」
僕の相槌は、女の上げた声でかき消される。
「……その、もうお話しないでもわかるかと思いますが、含福寺様の力をお借りしたいのは妻のことでして」
「奥さんですか」
返事だかため息だか分からないものをはあ、と吐き出して、冬柴さんはうなずいた。僕の背後のふすまに視線を上げると、遠くを見据えるように言う。ふすまの向こうの押入れには、冬柴彰の仏壇が入っているはずだった。
「五年前に娘を亡くしまして」
「伺っています」
「そうでしたね。結局娘は見つかりませんでしたが、そちらで式を出していただいてからは、少し整理もつきまして。元通りとは行きませんが、穏やかに過ごしておりました」
今はそうでもないようですね、と言いそうになるのを抑える。
「それが、しばらく――二日ほど前でしょうか、妻が『娘が帰ってきた』と言い出しまして」
「ふむ」
「そんなことはないと言ったんですが、その」
開けてええええええ! と叫ぶ甲高い声が聞こえてきた。木造の家がギシギシと鳴る。
「だいたいわかりました。……病院へは?」
「行っておりません」
なんで。僕の顔色を読んだのか、冬柴さんは苦虫を噛み潰したような顔で続けた。
「妻も教師をやっております。精神科にかかったなどと知れれば、職場復帰は難しいでしょう。同僚もそうですが、何より親や子ども達からの尊敬を失います」
「……僕たちはもちろんですが」
何か言いたげな真弓に、黙っておけと視線を送る。
「医者も秘密を守りますよ」
「それは、そうでしょうが……正直なところ、妻の振る舞いを見ているうちに、私も娘が帰ってきたような気がしてきていて。一度、分かる方に見ていただきたいのです」
「ふうむ」
駆け込み寺とはよく言ったものだ。時代が変われば、寺に駆け込むだけじゃなくて寺のほうに駆け込んで来て欲しいというヤツが出てきたって、何もおかしくない。
「ま、見てみましょう。ああ、冬柴さんは、ここで」
行こう、と言って、怖い目をしている真弓と一緒に席を立つ。なんだか、最初のワクワク感は薄れてきていた。冬柴さんがうちの寺に頼ったのは、半分以上見栄だろう。救急車より、袈裟を着た僧侶が来る方が外面は悪くないし、ただならない感じがする。
「嫌な人ですね」
「でかい声で言うな」
彰さんの部屋に続く階段は、登るたび、やっぱりぎしぎし軋んだ。
「それより、何か感じるか? さっき言ってたやつの気配とか」
「今は、まだ……」
不意に、真弓は口をつぐんだ。曲がった階段の角から、一人の女が現れたのだ。
「あら」
こっちも冬柴さんだ。もやから真弓が翻訳した話によれば、冬柴明子。冬柴彰の母親……だと思う。さっきまで奇声を上げていたのは、この人だろう。「あら」と言った声がかすれている。
「お客さん? 彰のお友達かしら」
思わず返事に詰まる。後ろで、真弓がプールバッグを掲げた。
「はい。今日は、忘れ物を届けに」
「ああ、ありがとうね。でも、彰はちょっと、調子が悪いみたいなの。お話できなかったら、ごめんなさいね」
そう言って笑うと「すぐにお茶を持ってくるわね」と言って、冬柴明子は階段を下っていく。僕は胸を撫で下ろした。
「助かったよ。よくあんなにスラスラ嘘がつけるな」
「慣れですよ」
真弓は鼻を高くした。礼は言ったが誉めてはいないぞ。
「明子さん、顔色悪かったですね」
「そうかな」
家の真ん中を通っているらしい階段は、明かり取りの一つもついていなくて、昼だというのに薄暗い。第一、あの人の顔色を見ている余裕なんて、僕にはなかった。
「やっぱり、普通に病院を薦めた方が良いんじゃないですか?」
「それは――現場を見てから考えよう。部屋は?」
「ドアの部屋です」
なるほど、二階を突っ切る廊下の片側にはふすまが並んでいるが、もう片側には一つだけ、西洋式のドアがついている。シャチをかたどったネームプレートに、綺麗な毛筆で『彰』と書いてあった。
わざわざ真弓に聞くことはなかったかも知れない。ドアのところには、黒いもやがとぐろを巻いていた。家に入ってから姿を見なかったのは、先に二階へ上がっていたかららしい。
「彰さん……」
ごわごわした声が返ってくる。
「大丈夫です、きっと解決してみせますから」
言いながら、真弓はマゼンタの二眼レフを引っ張り出した。
「持ってきてたのか」
「あたり前でしょ。私たちにも目的があるんです。……早く開けてください」
「何かいるのを感じるか」
「見てみなくちゃ、わかりません」
さっきから、背筋が冷えていた。しかし、それが冬柴彰のせいなのか、部屋の中に何かいるせいなのか、それは良くわからなかった。
ままよ!
「うわっ」
一息にドアを開いた瞬間、後者だったとわかった。声を上げながら、真弓がシャッターを切った。
ばん! と手のひらを叩きつけたような音が、立て続けに壁から鳴った。淡い暖色系で統一された、女の子の部屋だ。そのそこいら中でラップ音が鳴り、招かれざる客を拒んでいた。
濃い。
部屋の隅、壁際に設置されたベッドの上に、黒い粒子がわだかまっている。だが、それはE駅の鬼や、冬柴彰を名乗るそれとは比べ物にならないほどに濃い。
「やばいな」
見誤った、と思った。これはもう、なにが悪さをしているか見極めるとか言っていられる段階ではない。今すぐ祓う必要がある。
「なんに見えてる?」
「一応、彰さんに、見えますけど……」
ばしり、とシャッターを切った真弓が後ずさった。いまや、ラップ音は部屋の外でも鳴っている。窓ガラスが吹き飛んで、がしゃんと音を立てた。
「なんだ!」
「彰!」
冬柴夫妻がめいめいに声を上げて、階段を上ってくる。
「どうなってる! 騒ぎを起こすために君たちを呼んだわけではない!」
「冬柴さん、今はちょっと!」
どん、と衝撃が走って、家中が揺れ出した。冬柴明子が半狂乱で叫ぶ。
「彰!」
「あれは娘さんではありません! 冬柴さん、奥さんと一緒に下に!」
「なんだと?」
「いいから早く! 真弓、部屋から離れろ!」
僕は記憶をひっくり返して、なんとかする方法を探した。僕がまともに祓魔の訓練らしいものを受けていたのは、三歳から六歳までの三年間かそこらだったけれど、そこに何か――。
――そう、これが基本の守りのかたち。そのまま、そのまま――。
そこから先が思い出せない。それとも本当に、基本しかやらなかったのか? くそ、また力技だ!
「破ぁーーーーー!」
手のひらを壁に叩きつけて、そのまま除霊ビームを伝わせた。家の揺れが収まって、次いでラップ音が徐々に小さくなる。
「何をしたんですか……?」
「部屋の形に結界もどきを張った。部屋には入るな、写真はここから撮るんだ」
顔から完全に血の気が引いて、震えが来ていた。ぶっつけ本番にしては上手くいったが、ここからどうすればいいかわからない。形を維持するだけで精一杯だ。追加の除霊ビームを撃つ余裕はない。
部屋の中で黒い塊が、不満げに輪郭を揺らした。ファインダーをのぞいていた真弓が、顔を上げる。
「め、めちゃくちゃ怒ってますよ!」
「だろうな。閉じ込められたら僕でも怒る」
「共感してる場合じゃないですってば! こっち来ますよ! 逃げましょう!」
「僕は動けない、一人で逃げろ。大丈夫、僕の結界は完璧だ」
自信はなかった。結界を張るのは十七年生きてきてほとんど初めてだ。今のところ、内側からの抵抗は大したことはないが、これが本気とは限らない。
塊が一歩踏み出した。結界全体が軋む。
真弓が僕を引っ張り上げようとする。結界は完璧だって言ったじゃん、信用しろよ。
塊がもう一歩踏み出した。再び家全体が揺れる。黒い腕を突き出して、ごもりと何か呟いた。
「なんて言ってる」
「わかりません! でも、何か」
何か、くれるみたいです。
「貰いに行くなよ」
「行きません! 逃げますよ! 彰さんも、駄目ですって!」
真弓が僕に肩を貸して、よたよたと立ち上がらせた。黒いもやが、やっぱり腕を伸ばして何かを受け取ろうとしている。
「やめるように……」
言え、と伝える前に、真弓がぶんぶん手を振った。
「駄目ですってば! 彰さん!」
しかし、実態のないものに物理的な静止は効かない。
結界の内側からの干渉はますます強くなってきている。やっぱり、塊は本気を出していなかったのだ。ラップ音が廊下に広がり、階段を下る。家鳴りが広がって、床が揺れ出す。
僕が、なんとかする必要がある。
この瞬間、藤堂透は状況に必要とされていた。少なくとも、藤堂透の除霊能力は必要とされていた。だったら、期待に応えるしかない。
僕は満身の力を結界に送り込むと、塊を中心にして思い切りすぼめた。塊の輪郭がたじろぎに揺らいだが、もう遅い。僕は中身ごと、結界を握りつぶす。
ぼん、と鈍い爆発音がして、塊は消滅した。スイッチを切ったみたいに辺りは静かになって、僕を引っ張ろうとした姿勢のままの真弓と、手を突き出した黒いもやだけが残されていた。
「やったん、ですか?」
「やった、やった。潰してやった。もう大丈夫だ」
緊張から解き放たれて、僕は廊下にへたり込む。
「写真は」
「え?」
「写真は撮れたか?」
「あ、はい! ばっちり撮れました! これで次の『け』もバッチリですよ!」
返事をする元気は、しばらく戻って来そうになかった。僕はへたり込んだまま喘いだ。
「先輩、大丈夫ですか? 水、貰ってきますから!」
真弓が下りていくと同時に、階下でもなにやら騒ぎが起こったらしかった。救急車を呼びます、と後輩が言う声が聞こえた。でも、とりあえず寺生まれが出る幕ではなさそうだ。僕は廊下の壁に背中を預けて、座りなおした。
「とりあえず、もう大丈夫だ」
空中をうろうろしているもやに向かって、顔を上げた。
「ここでおとなしくしてるなら、消えたりはしない。他のお祓い屋にちくったりもしない。残っていられるだけ適当に過ごしたらいい。悪霊になるようなら、その時ちゃんと祓うから」
ごぼごぼ、ともやは何か言って、不意に消えた。礼を言ったのか、あるいは悪態をつかれたのか、それとも何か別の話をしたのかは、わからなかった。
一人にされた僕は、体を引きずって部屋に入った。机の上に、大きな写真が置いてある。遺影は部屋に置くことにしたのだろうか。冬柴彰は髪の長い美人だった。
遠くから、救急車のサイレンが聞こえてくる。なんだか、どっと疲れが押し寄せてきた。
◆
「で、明子さんは運ばれていきました。過労だそうです」
「ああ、そうなんだ。顔色悪かったもんな」
「彰さんも着いていきましたよ」
じゃあ、消えたのは成仏したわけじゃなかったのか。一人でセンチメンタルになってた僕が馬鹿みたいだ。少し恥ずかしくなって、チョコバーをむしゃむしゃやる。
あの後、飛んできた救急車が冬柴明子を連れ出した後、挨拶もそこそこに冬柴憲一は車で病院に向かった。戸締りの関係で家を出なくちゃならなくなって、疲れた僕らはいきなり手持ち無沙汰になって、結局普通に帰ることにした。
僕らは駅前のコンビニによって、今はホームの待合ベンチに座っている。こうしていると、さっきまでの騒ぎが嘘のようだ。
「あれは結局、なんだったんですかね。プールで追ってくる黒い影の正体でしょうか」
「たぶん違う」
チョコバーを水筒のお茶で流し込んで、ゴミ箱に放り込む。電車が行ってしまったばかりのホームは、時間の割に人気が少ない。
「プールで追いかけてくるやつは、昔っからいる“水泳選手”ってばけものだよ。県内あちこちで出てる、現象みたいなやつ。アレがそれなら、僕なんかに祓えたりはしない。さっきのはたぶん、冬柴明子に呼ばれて来たんだ」
「明子さんが?」
「過労って言ったろ。幻覚の方が先にあったんだ。それを埋めるようにして、アレが来た。今となっては、なんで悪さを働いたのかはわからないけど」
「なるほど」
真弓はディズニーキャラの棒つきチョコを口に含んだまま、しばらく考えて、こう言った。
「じゃあ、このネタは没ですね」
「いいのか」
「もったいないですけど、ちょっとゴシップ度が高すぎますから。私は『け』で天下を取るつもりではいますけど、誰かを貶める気はないんです」
写真は個人で楽しむだけにします、と真弓は笑った。駅のロータリーの向こうから、また、救急車のサイレンが聞こえてきた。
でも、この話は結局、没にはならなかった。次の日の朝、文芸部の部長――中本玲二が、部室で溺れて病院に運ばれたと聞いた。
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