其之二 訪問! 怪奇探索部!
親父や兄貴が昔言っていたことには、死んだやつというのは死んでいて、彼岸と此岸には明確な境界線が引かれているらしい。幽霊の存在は、よく言われる死者の霊魂がさまよっている状態とはまた違った現象だそうだ。
「わたし、いつの間にかプールにいたの」
しかし、真弓が翻訳する黒いもやの話は、まるきり生きた人間がするそれと、ほとんど遜色ないように僕には思われた。
「最初は、練習の後に寝ちゃったんだと思って。よく考えたら、夜になるまで誰も起こしてくれないわけがないんだけど、そう思って。一度、家に帰ろうと思ったんです」
「なるほど」
よくある話だ。少なくとも、よくある話らしい。幽霊はしばしば、まるで自分が死を経験していないかのように振舞うと聞く。
「帰ってみたら、なんだか雰囲気が変わってて。間取りもそうなんですけど、見たことない家具があったり、あったと思ったものがなくなってたりして。パパもママも、全然反応がないし……おかしいな、と思っていたら、夜が明けたんです」
それで、朝ご飯のときに――。後を、真弓が引き取った。
「家族の方が押入れを開けたら、彰さんの仏壇があったそうです。それで、自分が死んでいることを思い出した、と」
「ありそうな話だ。それで? どんな未練を叶えて欲しいってわけ?」
「未練というか……まだ続きがあるんです」
真弓はもやに向かって何度かうなずくと、再び口を開いた。
「それでわたしは、自分が……死んでいることに気づいたんですけど。おかしなことがあって。なんだか、わたしは死んでないみたいなんです」
「は?」
「パパはお線香を上げたり、ご飯を供えてくれたりするんですけど、ママのほうが。わたしの部屋に上がって、わたしを朝ご飯に呼んだり、学校に行くようにせっついたり……まるで、わたしが生きてたときみたいに」
「それは、まあ……」
僕はちょっと、言葉を探した。うちで葬式を出すときは、そういう陰気な連中と顔を合わせるのが嫌で、家のほうにこもったり、出かけたりしていた。残念なことに、気の利いたセリフは出てきそうにない。
「そういうこともあるんじゃないの。お父さんは、分かってるんだろうし」
「わたしも、そう思って。部屋に上がってみたんですけど」
いつもより淡々とした真弓の声が、冬柴彰の言葉を紡ぐ。
「部屋には、わたしがいたんです」
「なんで」
「わかりません。向こうもびっくりしたみたいで、窓から飛んで行ったから。幽霊仲間なのかな、と思ったけど、わたしはもういるし」
「それ、本当に自分だった?」
もやがごわごわと返事をして、真弓が口を動かした。
「彰さんは、そうだと」
「でも、すぐに出て行ったんだろう」
「それがですね――あ、彰さんが話します? ……ちょっと待ってもらえますか」
真弓はかばんの中から水筒を取り出して、水だかお茶だかを口に含んだ。僕は二人と話しているような気になってきていたけれど、二人の声帯は真弓が持っている一つぶんしかない。
真弓がごくん、とのどを鳴らして、冬柴彰がまた、話し始めた。
「それからしばらく、学校を歩いてて。ママが誰もいない部屋に話しかけてるのは、見てられなかったし。行く当てもなくて。知ってる先生もほとんどいなくて、見てて楽しいのは水泳部くらいだったけど」
「佐々木先生だっけ? 水泳部の顧問は、長くいるもんな」
「それに、すごく速い子もいたから。坂本さん」
坂本ひかりの話をした途端、もやがしゅうっと縮んだ。
「なのに、この前。もう一人のわたしが、あの子に声をかけてて。そうしたら、昨日――」
あんなことになって、と言ったきり、もやは静かになった。
「彰さんとは、坂本先輩に付き添っていく途中で会ったんです。私たちなら、助けになれるかも知れないって」
「死人の手助けか」
「どうしたって次の『け』向けのネタは必要ですよ。幽霊のドッペルゲンガーなんて聞いたことないし、面白そうじゃないですか! 人助けにもなって一石二鳥ですよ、ね?」
E駅でえらい目にあってから、まだ半月も経っていない。最近は親父も兄貴も、“神宮”の関連でなんだか忙しそうにしているし、あまり手を煩わせたくはなかった。
しかし、すでに状況は放置していい段階ではない。面識がないとは言え、同じ学校の先輩に被害が出てしまっている。どの程度の相手が悪さをしているのかを把握しておくのは、必要なことだった。
そのことを考えると、よく見える真弓と一緒に行動するのは、全然“ない”選択じゃないのだ。動機はともかく、びびらない霊視者というのは、かなり貴重である。
「そうだね」
僕は人差し指でメガネを押し上げた。真弓の顔がぱっと輝く。
「やる気になりましたか?」
「ちょっとね。なにがいるのかくらいは、確かめておいてもいい」
黒いもやがごもり、と身を起こした。
「もちろん、やばそうだったら逃げるからな。その時は、また兄貴に力を借りることになる」
「さすが先輩、話がわかるじゃないですか」
「その時は、覚悟しといてよ。特にあんた」
僕はもやに向き直った。僕らは兄貴を呼んでも、せいぜい大目玉を食うだけで済むけれど、幽霊ならそうはいかない。
「他のやつなら、野良幽霊なんか放っておかない。兄貴が来れば、確実にあんたを祓う。結果として、あんたも消えることになるかも知れない。いいね」
もやは何度かもぞもぞと動いて、何かささやいた。「大丈夫だそうです」と真弓が補足してくれる。
「じゃ、早速行くか」
「どこに行きます? 坂本先輩のお見舞い? それともプール?」
「いや。まずは、冬柴家に行ってみよう。案外、もう一人の冬柴サンってのが戻ってきてるかも知れない」
立ち上がって椅子を机の下に引いたとき、ある種の期待に少しだけ胸が高鳴った。鬼と対峙したときに感じた、ヒリヒリした感覚。嫌なものの傍で感じる悪寒とは違う、あの高揚感を、また味わえるかも知れない。
今、僕は、ちょっとワクワクしている。
◆
「あれ、透じゃん。デートかよ」
下駄箱の前で、中本玲二に声をかけられた。『け』にスペースを割いてくれた、文芸部の部長だ。今も『晴嵐』をいっぱいに抱えている。
「違う」
「違います」
声をそろえた僕らを見て、玲二は笑った。そもそも、デートは二人でするものだ。こいつには見えてないだけで、僕の後ろには三人目がじっとりついてきている。
「……そっちは、部誌の補充? 場所取っちゃって、悪いな」
「いいよ。弱小のよしみだ。たくさん置いても、全部売れるわけじゃないし……それより、うちに入ってくれそうな新入生、知らない? このままだと部室を追われるみたいなんだよね」
「私ですか? うーん……」
「まあ、考えといてよ。これも弱小のよしみだ」
マジで頼むぜ、と言って、玲二は僕に部誌を渡した。それから、きびすを返して去っていく。三年生が卒業した今は、文芸部も部員一人で持っている部活の一つだ。
「文芸部も、大変そうですね」
「そうだなあ」
靴を土間に投げるぱこん、という音を二つ続けた後、僕らは外に出た。
「水泳部では、そんなことないですよね」
黒いもやが、ごぼごぼと答える。
「やっぱりそうですよね。実績がある人が一人いると」
ごぼごぼ、ごぼ。
「それは嫌ですね」
ひどい疎外感を覚える。仲の悪い誰かと一緒にいるのと、自分だけ仲良しの輪に入れないのとでは、別種の居心地の悪さがあるものだ。もちろん、客観的には空中に向かって話してるやつと一緒に歩いていることもひっくるめて。
「ちょっと、僕を先頭にするのはやめてくれ。道を知らないんだから。このまま駅まで行っちゃっていいのか?」
「あ、すいません。ここでもう、曲がってください」
僕は歩く速度を緩めて、真弓を先に行かせた。プールバッグの紐をしゃくって、肩にかけなおす。
冬柴家を訪問する口実に、水泳部のロッカーから拝借してきたものだ。真弓の言うと おりなら、冬柴彰は今のところ、一応行方不明扱いになっていて、彼女が戻ってきた時のために荷物は学校に置きっぱなしにしてあったらしい。少なくとも、彼女の親はそうすることを望んで、学校側もそれを受け容れた。
女子更衣室から戻って来た真弓は、僕にプールバッグを渡して、こう言った。
「あとは、適当に言えばいいんですよ。ロッカールームが改修されることになったので届けに来ました、とか。この前、耐震工事をやった話と絡めればいいんです」
そんな工事の予定はない。詐欺だ。
「先輩、こっちですよ!」
真弓に手招きされて、丁字路を左に曲がる。ほんの数メートルも行かないうちに、真弓は立ち止まった。
「ここです」
「めちゃくちゃ近いな。一等地じゃん」
「学校からはそうですけど、駅からはそうでもないですよ……」
冬柴家は、大きな木造の日本家屋だった。地域の名士……昔の地主といったところだろう。それでも、この規模の土地を維持しているのだから、現代にしてはそこそこの家格だと言えるな、と思う。
準備はいいですね? と確かめるが早いか、僕の返事を待たずに真弓はチャイムを鳴らしていた。ちょっと待て。
僕は詐欺師になるつもりはなかった。上着の内ポケットから輪袈裟を取り出して、首にかける。
「はい、どちら様?」
男の声が出た。真弓に割り込んで、インターホンに話しかける。
「私、含福寺の透覚と申しますが」
話が違うぞ、とばかりに真弓が僕の袖を引いた。うるさいな、どうせ嘘をつくなら、僕のやりやすいようにやらせて欲しい。
「娘さんのことで」
と言いかけた時、勢いよく引き戸が開いた。中年の男が、石畳を歩いてくる。冬柴彰の父らしい。
「来ていただけたんですね」
低いが良く通る声だった。
「予定を前倒していただいてありがとうございます。この度は――」
だが、何かおかしい。来ていただけたとは、どういうことだ? 思わず真弓と顔を見合わせる。真弓も首をかしげた。冬柴彰が何か言う気配もない。
「不躾ですが、早速お祓いの方をお願いしたいのですが」
「おはら――ごほん」
僕はへその下に力を入れた。話が見えないが、まずは落ち着け。
「まず、詳しいお話を聞かせてもらえますか。電話だけでは分からないことも多いので」
男が怪訝な表情になる。
「連絡はメールのほうで差し上げたはずですが――?」
「……とにかく、現地でなくては分からないことも多くありますから」
男はじろじろと僕を眺めた。ぞんざいな私服に、教科書の詰まった大きなかばん。いかにも、学校帰りのT高生だ。
「何か?」
「いえ。そちらの方は?」
「助手です」
真弓が自称したことで、疑念はますます深まったらしい。男は再び僕をじろじろ眺め回したが、首もとに目を留めたようだ。
「そうですか。では、どうぞ」
輪袈裟の威光や恐るべし。僕らはあっという間に居間に通されて、お茶をご馳走になっていた。
「今回お呼びしたのは他でもありません、その、おかしなことを言っていると思われるかも知れませんが」
その時、頭の上から、女の大きな声が聞こえた。男は少し言いよどんで、続けた。
「……娘が、帰ってきたようなのです」
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