Case2:水泳部の幽霊

其之一 来客! 怪奇探索部!

 僕の中には、絶対こういう死に方はしたくないランキングというのがあって、溺れるというのはかなり上位にランクインしている。そもそもどんな死に方だって嫌なのは誰だってそうだけれど、寺なんかに生まれると、死はどうしたって意識せざるを得ない。


 うちの寺は、裏の渡り廊下で母屋と繋がっている。寺の裏には墓地があるというのは世の習いだから、本当に庭みたいなところに墓場が見えているわけだ。


 小さい頃の僕はその墓場を遊び場代わりにしていたらしいけれど、物心ついてからは死ぬことがおっかなくて仕方なくなって、墓場からは遠ざかった。なのに、かえって死ぬことについて考えるようになったのは、嫌なものほど気にかかるという心理なのかも知れない。


 ともかく、考察の結果、僕は溺れるのだけはごめんだ、と思うに至ったのである。だから、今回真弓が持ってきたのは、僕にとってはかなり勘弁して欲しい話だった。


「なんだって?」


「ですから、溺れてたそうです。通学路で」


「……田んぼにでも飛び込んだのか?」


 四月に入って田植えの始まった通学路沿いの田んぼには、なみなみ水がたたえられている。でも、そんなことってちょっと“ない”よな――。


「違いますよ」


 真弓は口を尖らせた。


「T高の生徒が道の上で倒れたのを見た人がいるんです。お医者さんの話だと、耳とか鼻に水がいっぱい入ってて、溺れたんだろうって」


「へえー」


「でも、晴天の通学路を歩いてて溺れることなんてあり得なくないですか? 服も髪も乾いてたし、直前までそんな素振りは無かったんですよ」


「もうわかった。それを次の『け』のネタにしようって言うんだな」


 『け』は、僕たちT高写真部が出している部誌だ。ロゴは漢字の『怪』で、中身は近所で撮影した心霊写真とその解説という、普通高校で配るには色々と攻めた作りになっている。


「そうです!」


 後輩は力強くうなずいた。


「今、文芸部の『晴嵐』と一緒に置かせてもらっている分は、ほとんど減ってません。思うに、モチーフ選びが良くなかったのかと」


「そうかな」


 『晴嵐』は、正面玄関口に設置された机の上にいい加減に積まれている文芸部の部誌だ。『け』と同じ、ホッチキスでコピー用紙を綴じただけのものだけれど、意外に需要はあるらしい。その威光を受けてのことなのか、一緒に並べた『け』も第一号にしてはそれなりの数が捌けている。


「それは私が持って行ったんです! ごっそり」


「なんでそんなことするんだよ!」


「『晴嵐』が減ってるのに『け』だけ残ってたら、私たちが負けてるみたいじゃないですか! だからちょっと……ちょっとだけ減らしました」


 サクラじゃん!


「私の心を守るためです!」


 こいつ……。


「『写真部の部誌は人気が無いな』と思われるならともかく、『写真部の部誌は出来が悪いんだな』と思われるのは我慢ならないんです。わかるでしょ!」


 わからなくもないが、どう考えたってそこまでするような話じゃない。僕らが部誌を置くところを探している、と聞いて先に声をかけてくれたのは文芸部だったわけだし。


「……話を戻しましょう。思うに、『け』が捌けてないのはネタが悪かったからです。E駅は確かにT高生には身近ですが、中身がちょっと重過ぎました。出雲風土記の話なんて、誰も分からないですよ。もっと、スナック感覚で手に取れる話題じゃないと」


 真弓は教科書の入った大きな手提げの中から手帳を引っ張り出した。


「溺れたのは坂本ひかるさん。うちの三年で、水泳部に所属してます。昨日、学校から帰る途中に倒れて、そのままM大病院に救急搬送されました。もちろん、今日は学校に来てません。目撃者情報によれば――」


「ちょっと待て」


 僕は手を振って、真弓の話をさえぎる。


「その話、誰から聞いたんだ? 昨日の今日で病院まで調べたの?」


「ああ、だから、その目撃者っていうのは私なんですよ。救急車を呼んで、一緒に病院まで乗っていきました」


 真弓はちょっと得意そうな顔をした。


「なかなかの危機対応力だったと思います」


 それには異存ないけど。


「だったら、ネタにしないほうがいいんじゃないかな。助けた相手をわざわざオモチャにすることもないよ」


「別に、おもちゃにするつもりはありませんけど……」


「みんながどう感じるかって話。こないだのでさえ、先生たちの反応は芳しくなかったろ」


「まあ、それは」


 世代のことを考えれば、コインロッカーベイビーの話題に懐かしさを感じる先生も多いはずだったけれど、そのノスタルジーが歓迎されるかどうかとなれば話は違う。ましてや、生徒から出てきた話題となれば尚更だ。もちろん概ねおおらかなT高のこと、発禁になったりはしないけれど、部の存続を第一に考えるのなら先生たちの機嫌は取っておいて損は無い。


「でも、今回はちょっと事情が違うんです」


 真弓はちょっと息を吸った。


「先輩は、水泳部の幽霊って聞いたことあります?」


「ない」


 でしょうね、と言って、真弓は続けた。


「五年……あ、もう六年前になったんですか。水泳部がインター杯に出ることになったんです」


「うちの?」


「はい。団体の成績は振るわなかったんですけど、個人だとかなり速い人がいて。冬柴彰ふゆしばあきらさんって、女の先輩なんですけど。当時の記録だと、全国でも指折りだったらしくて」


「知らなかったな、そんなの。五年前だと、兄貴が在籍してた頃なんだけど」


「亡くなったそうです、本番直前に」


「なんで?」


「その辺は、私もあんまり突っ込んで聞けなくて。あ、正確に言えば、手続き上は行方不明になってるそうですけど」


「ふーん」


「問題はその後なんですよ。水泳部に変なうわさが流れ出して……。部員が泳いでると、並走してくるそうです」


「黒い影が?」


 真弓はちょっと目を丸くした。


「なんだ、知ってるじゃないですか。そうです。彰さんのベストタイムを更新しそうな部員がみんな、隣のレーンに黒い影を見た、って言うようになって。最近は収まってたんですけど」


 だんだん話が読めてきた。


「坂本先輩は、そんなに速かったのか?」


「かなり。去年は、ぎりぎりで全国行きそびれたらしいです。影の話はしてなかったらしいんですけど、こんなことになっちゃって……今になってうわさが再燃してるんです。彰さんの祟りだ、って」


 真弓が顔を歪めた。不意に、部屋の気温が何度か下がったようだった。背中の毛が逆立って、体の芯を悪寒が這い上がる。


「でも、その……それは本人が否定してるんですよ」


「本人?」


 ざらざらした耳障りな雑音が聴覚を刺激した。床から黒いもやがうっそりと吹き出して、空中に留まる。


「本人、です」


 ごわり、ともやがうごめいて、一緒に発されたノイズは、どうやら挨拶だったらしい。遅れて懐のスマホが震えて、“不明なアカウント”から「こんにちは」とLINEが来た。びびった手のひらからスマホが滑り落ちて、大きな音を立てた。


「冬柴彰さんです、こちら」


 真弓の声が、ひどく小さく聞こえた。「こんにちは」の通知がもう一度スマホを震わせた。


 「あっ」と真弓の声が聞こえるのと、僕が「破ぁー!」と叫ぶのが同時だった。向かいの真弓が机を叩きつけて、僕は背もたれのない椅子から放り出される。


「何するんですか!」


「それはこっちのセリフだ!」


「待って、落ち着いてください。彰さんは悪霊じゃないんです。無害なんですよ」


 無害な霊なんかいるものか。放置すれば必ず禍根を残す! 僕は再び右手を上げた。手のひらに血が集まり、暖かくなる。


「破ぁー!」


 今度は突き出した腕に真弓が飛びついて、除霊ビームはあらぬ方向に飛んだ。ひっくり返ったまま暴れたせいで、床のほこりが舞い上がって、僕らは一緒にごほごほ言った。


「ああっ、彰さん逃げないで! 先輩、大丈夫ですから。落ち着いてください!」


 真弓の全体重が僕の腕に乗っている。後輩の女の子が、左手を突き出した僕の目を覗き込んだ。


「先輩、先輩! いいですか? 話、出来ますよね?」


 びびっているのが体に伝わって、左手はガタガタ震えていた。真弓に見えないように左手を背中に押し込んで、僕は何度もうなずいた。


「大丈夫。……大丈夫になった」


 ゆっくり真弓が離れて、僕は服についたほこりを払った。ひっくり返った椅子を拾い上げて、座りなおす。空中に点々と残るもやの痕跡を追って、空中を見据える。


「失礼、取り乱しました」


「先輩、彰さんはこっちです」


「……」


 一つ咳払いして、真弓が指したほうに向き直った。ひとまず体の震えは収まったが、背中の毛はちっとも落ち着く様子がない。ピロンとスマホが鳴って、「ごめんなさい」とLINEが来た。


「それじゃあ――直接話を聞こうか? その方が話が早そうだし」


 少し間を空けて、真弓が口を開く。


「そうしてほしいそうです」


 またスマホが鳴って、通知に「よろしくお願いします」と表示される。


 妙なことになった、と僕は思った。

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