其之三 阿用郷の鬼

 動いてない自動改札を素通りしてホームに出て、僕は目をこすった。メガネを外したときみたいに、視界がぼやけている。ホームに設置された駅名板はすぐ見つかったし、要所の柱にも駅名は書いてあるようだったけれど、やっぱり僕には読めなかった。


「……なんて書いてある?」


 仕方ないので、真弓に聞くことにした。真弓は、やっぱり見えてないんじゃないですか、と言う顔をしたけれど、無視はしないで読んでくれた。


「E駅ってことになってますね、これだと」


「マジか? 見覚えないけどな」


「私もです」


 ズボンの尻ポケットからスマホを引っ張り出す。今のところ「本当にやばい」雰囲気はないが、背中がざわざわして、誰かに見られている感覚がある。どの道、死者を祀った祠をいじって到着した駅なんて、尋常のもののはずがない。


 僕は顔を上げた。


「スマホ、持ってない? ガラケーでもいいけど」


「それ、私に言ってます?」


「他に誰がいる? ちょっと、繋がるか確認して欲しいんだ」


 あれ、と真弓が声を上げる。


「圏外ですね」


「僕もだ、くそ」


 こんな駅で電波が通じていると思った僕が甘かった。兄貴も兄貴で、もっと実効的なアドバイスをくれれば良かったのに。“本当にやばい”状況で電話をかけられると思うほうが抜けている。

焦燥が体の芯を登り始めたのを感じたとき、隣で真弓が声を上げた。


「ああ!」


「どうした!」


「いえ、これがデジカメじゃないことを思い出して。こういうカメラって、撮ってすぐ確認できないんですよね」


 そんなこと。肩を落とす僕に、真弓がムッとした顔を見せる。


「あなたにとってどうだか知りませんけど、これは写真部にとっては大切な過程です。学校にほど近い、E駅じゃないE駅の存在。『怪』復活号のネタには最適なんですよ。それを証拠する写真の重要性を甘く見ないでいただけますか?」


「そりゃ、そうかも知れないけど。まずはどうやったら帰れるかを心配したほうがいいんじゃないかな」


「なんだ、びびってるんですか?」


 言葉に詰まった。「びびってるんですか?」と聞かれた男の子は、「びびってなんかないやい!」 と返さなくてはならないと決まっている。


「現実的な話をしてるんだよ」


 僕はもう男の子を卒業するに十分な年齢だったので、オブラートに包んで、同じ意味のことを言った。このセリフはこの場合、広義の「びびってなんかないやい!」だが、うまくいけば自分と相手をどちらも騙して、ごまかすことが出来る。


「帰れますよ、たぶん」


 真弓はごまかされてくれたのか、単にどうでもいいのか、あっさりと言った。


「小さいころ、何度かこういう所に来たことがあります。どうやって帰ったのかは覚えてませんけど」


「一番知りたい情報が抜けてるじゃんか」


 振り向いて駅舎を撮っていた真弓は、じろりと僕をねめつけた。


「じゃあ、ママに電話して聞いたらいいじゃないですか? 駅なんですから、公衆電話くらいありますよ」


「お前……」


 マザコン呼ばわりされて、意識が突沸した。思わず手のひらが肘まで上がって、女の子の顔が歪むのを見る。――待て、これは最低だ。我慢して、頭に上った血をやり過ごせ。


「ごめん。公衆電話だって?」


 何事もなかったかのように、口を動かした。ありがたいことに、真弓もそれに付き合ってくれる。


「……駅なら、どこでも設置してありますよ。駅員さんに聞いてください」


 少女が指差した先に首を振り向けたが、僕には何も見えなかった。


「いや――大丈夫みたいだ」


 ぐるりと辺りを見回して、自動改札の向こう側に、緑色の四角い電話を見つけた。


「じゃあ、ちょっと電話をかけてくるけど。どこにも行くなよ」


「なんですか、それ」


「いいから。誰かに声をかけられても、着いていくんじゃないぞ」


「いきなりなんのつもりか知りませんけど、私を子どもみたいに扱うのはやめてください。こんな人目につくとこで、誘拐なんかあるわけないでしょう」


「……とにかく、ホームにいてよ」


 どうして真弓千聡がこんなに落ち着いていられるのか、少し飲み込めてきた。彼女には、僕とはまるで違うものが見えているらしい。不気味なほどの、文字通り無人駅ではなく、おそらくは全く普通の、日常を送る利用者たちがひしめく駅の姿が。


 見られている感じはそのせいか。


 依然沈黙している自動改札を抜けて、受話器を取る。スマホを片手に兄貴の携帯番号をプッシュする間に、知らないうちに誰かと重なっていたかも知れないと思い至って、体の芯から熱が失せていった。


「……」


 ごう、と列車がホームを通過する。兄貴は出ない。スマホの時計によれば、現在時刻は午後一時二十五分。昼夜逆転大学生はおねむの時間。


 ……使えない人だ!


 せめてもの怒りの表明に、叩きつけるようにして受話器を戻す。電話が通じないなら、あるのかないのかも分からない真弓のあてを信じるしかない。


 戻ってきたテレホンカードを取って、顔を上げた。


「え?」


 純粋な困惑が襲ってきた。素朴な緑色の太い幹が、視界をいくつにも分断している。爽やかな風が吹きすぎて、硬い葉がさらさらと鳴った。いつの間にか、踏みしめた地面も、コンクリートの床から湿った土に変わっている。


 振り向けば、背後にも同じ景色が広がっている。駅舎はホームごとかき消えて、あたり一面にぼやけた竹林が広がっているらしかった。さっきまでの名残は、地面から直接生えた公衆電話ブースと、利用者たちの視線。


 もちろん、真弓も一緒に消えていた。あれほど念を押したのに、と言うのは少し酷だろう。でも、僕は思わないではいられなかった。


 あれほど念を押したのに!


    ◆


 中学の修学旅行で京都に行ったとき、嵐山で竹林の小径に行ったことがあるけれど、この竹林はまるでそれとは違っていた。あそこは太い竹が適当な間隔をあけて並ぶこざっぱりした林だったけれど、ここは細い竹が密集している。足元にも草がぼうぼう生えて、歩きにくいったらない。


 いまや、僕には全方向から視線が突き刺さっていた。一歩踏み出すたび、さざなみのようにひそひそ声が押し寄せてくる。


 電話のところに残るのは、無理だった。ささやき声の群れはささやき声であるはずなのに耳をキンキン言わせ、突き刺さる視線は僕に地面から目をそらさせなかった。僕を泣き出させなかったのは、真弓を見つけたときに泣き腫らしているわけにはいかないという、チャチなプライドだけだった。


「!」


 何十歩目か、何百歩目かを踏み出したとき、浮石に足をとられた。「ぐわぁ」と声が出て、頬が土を舐めた。


 ばしり。


 不意に、無機質なシャッター音が注がれた。


「……何してるんですか」


 この時、僕の顔はあまり決まっていなかったと思う。まともな人がいたことにすっかり安心して、締まりが緩むのを感じた。


「いや、その――探してたんだ、真弓さんを」


「そうですか」


 真弓はちょっと眉を歪めて、僕を値踏みするようにじろじろ見た。僕は顔の土を拭って、立ち上がった。上も下も黒の服を着ていたおかげで、土まみれになったのは目立たない。


「じゃあ、ちょっと静かにしてください。これを撮ったら、今日はおしまいですから」


「これ?」


 真弓は唇の前で指を立てて、子どもに言い聞かせるみたいに「しーっ」と言った。


「本当に静かにしてください」


 服が汚れるのも気にしないで、真弓は地面に身を寝かせた。レンズの示す先に、何かある。


 彼女に倣って、身をかがめる。えんえん茂っているとばかり思っていた竹林が、すぐそこで途切れているのが分かった。竹と草で出来た緑の壁のすぐ向こうに、素朴な畑が広がっている。僕は目を細めて、真弓の視線を追った。


 畑の中に、不自然に光の射さない一角がある。黒い煙だか、もやだか分からないものが、のろのろと動いていた。


「なにが見えてる……?」


「鬼です。目一鬼ですよ。あんなの、初めて見た」


 真弓が興奮してシャッターを切った。目がキラキラしている。


阿用郷あよのさとの鬼、って知ってますか」


「いや。今は――」


 とにかくここを離れよう、と言うより先に、真弓が続きを話し始めた。


「昔、出雲で開拓していた男の前に鬼が現れて、食べ始めたそうです」


「何を」


「その男ですよ」


 僕は顔をしかめた。


「その近くにはここと同じような竹藪があって、男が食べられている間中、竹の葉がゆらゆら動いていたそうです。どうしてだか分かりますか」


「さあ? 正解はあとで聞くから、今はここを」


「藪の中には、男の両親が隠れていたんです。男は見捨てられていることを知って、動動と嘆いたといいます」


 もう、真弓の話を最後まで聞くつもりはなかった。黒いもやは、僕らの存在に半ばまで気づいている。首筋がちりちりして、悪寒が背筋を通り抜けている。真弓を引きずってでも、ここから離れる必要があった。


「行くぞ」


 真弓の手首を掴んだ、と思ったとき、ぬるりとした感触が手のひらから全身に伝った。


「だから、ここは阿用郷と呼ばれているんですよ」


 ごわごわした声が返ってきた。僕の掴んだ茶色い、萎びた小さなものが、はっきり見えた。


「わあああああ!」


 小さな、毛布に包まれた塊はあっさり投げ飛ばされて、どろりとした液体を地面にしみこませた。


 くそ、真弓はどこだ!


 ズボンで手を拭って、影のほうに振り向いた。ぶちんとストラップが切れる音がして、カメラが吹っ飛んだところが見えた。もやが人食いの鬼ならば、そういうことになるだろう。


 どうする。


 そういえば、もう除霊なんて何年もやっていない。たまに関わることがあっても、やばそうな奴がいたことを兄貴に報告するだけだった。小学校に上がるまでは、僕のほうが祓うのは上手かったはずなのに、今では除霊について考えるだけで背中に痛い汗が浮かぶ……。


 僕は怖気づいている。


 親父や兄貴なら、ノータイムで飛び出していくだろう。寺生まれはそうするものだし、二人ともそうすることに躊躇わない人間だ。僕は違う。違うのに――ちくしょう。


 僕は青竹を押しのけて、畑の中に飛び出した。


 思い返せば、僕には「これが一番だ!」と胸を張れるものは何一つない。成績だけはそこそこ良いけれど、それだってトップの連中には敵わない。


 でも、僕は自分のことを“やるときはやる奴”だと思っている。ここでやらないと、明日の自分を許せそうにないのだ。


「破ぁーーーーー!」


 突き出した手のひらから熱が飛び出す感覚があって、黒いもやが爆発した。何年ぶりかの除霊ビームは、記憶の中のそれと遜色ない威力を保っていた。


畑の中にへたり込んでいる真弓に、叫ぶ。


「今のうち、走れ!」


「こ」


 情けない声が返ってきた。


「腰が抜けました……」


「このバカ!」


 短い斜面を滑り降りて、中学生を引っ張り上げる。自分でも思っていなかったくらい力が出た。


「先輩後ろ! 頭狙ってください頭!」


「見えないんだよ! 耳のそばででかい声出すな! 破ぁー!」


「効いてません! 豆とか持ってないんですか!」


 豆?


「鬼退治といえば豆でしょ!」


「そんなもんはない!」


「それでもエクソシストですか!」


 無理を言わないで欲しい、僕は本当に、ただ寺の家系に生まれただけなんだ。


「もっと右です! 今度は左!」


「破ぁー!」


 引きずるようにして真弓に肩を貸しながら、僕はほとんど闇雲に除霊ビームを撃った。もやは散った端から集まって、効いているんだか効いてないんだか、よく分からない。でも、あるタイミングでもやが大きく爆発して、それきり真弓も静かになった。


「やっと当たった……先輩、シューティング下手糞すぎますよ」


「お前ほど良く見えないんだよ」


 慣れない運動をしたせいで息が上がって、ぜえぜえ言った。黒い服だから、と言い訳も出来ないほどに汚れていた。


「先輩、その」


 なに? と言おうとしてえずいた。


「ありがとうございます。来てくれて」


 礼よりも反省しろ、と言いたかった。もっと感謝しろ、とも言いたかった。でも、しばらくゲホゲホやった後、出てきたのはしょうもない言葉だった。


「お前のためだけにやったんじゃない」


 真弓は怪訝な表情になって、何か言いたそうにしたけれど、僕はもう答える余裕はなかった。耕されたやわらかい土の中にへたり込んで、本格的に咳き込み始めた。

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