星巡りの結末 十八 星巡りの結末

 問志は答えられずに沈黙を貫くが、気長に待ってくれるほど鬼が甘くはないことも、緩く自身の身体に巻き付き始めた髪の束が物語っている。

 彼女自身も忘れてしまった名を、いっそでっち上げてしまおうか。問志の頭にそんな案がよぎる。


 自分では彼女の本当の名を答えることは出来ない。しかし、このまま沈黙し続けるのにも限界がある。


 間違った名だと鬼が気づくことだって十分ありえるが、どの道正解を導きだせない問志にとってこれ以上の策は思いつかなかった。


 沈黙をとがめる様に、少女の手の甲を蓮の花がかすめた。柔らかそうな見た目にそぐわず、その花弁は陶器の破片めいた鋭さで問志の皮膚をく。そこからにじんだ赤色がぽたりと地面に落ちて、すぐに吸い込まれていく。


「……さあ、私の名を」


 でっち上げるとして、彼女をなんと呼ぼう。問志が逡巡しゅんじゅんを巡らせている最中さなか、再び下方から声がした。それは赤い鬼の滲んだような声ではなく、低い、男の声だった。


「その子じゃあ貴方の渇きは潤わないさ。そうだろ?


 聞き馴染みのない言の葉が、聞き覚えのある声によって紡がれ問志の耳を掠めていく。


「こんな小娘と俺を間違われるのは悲しいが、なに、貴方の元に二十年近く辿り着けなかった罰だと思って甘んじようじゃないか」

 三根岸の声だ。

 彼の目覚めがどうやら間に合ったらしいことに問志は安堵するが、自身の身体やその周囲にまとわりつく髪の毛が邪魔をして、三根岸の姿を確認することはできなかった。


 天井を見上げれば星の庭と呼ばれた鬼の眼はもう少女を見つめてはおらず、明後日の方向を向いている。姿こそ見えないが、視線の先にはきっと三根岸がいるのだろう。


「……きみ、なのかなぁ。ごめんね、もう誰かに会いたかったことしか思い出せない」

 名前もわからないんだ、と嘆く彼女の声は今までより一層幼く弱々しかった。


「構うもんか。”会いたかった”と貴方が言ってくれただけで、俺が今どんなに救われているか」

「私はもう、君会いたかった私ではなくなってしまっているかもしれないのに?」

「いいや、貴方は貴方のままだったよ。身体が起きちゃあくれなかったんだけどね、頭はずっと起きていたんだ」

 可笑おかしな頭の打ち方をしたものだと、三根岸は笑う。


 失われた二十年を手探りで埋めるような三根岸と星の庭のやり取りを、一人 固唾かたずを呑んで見守っていた問志の腕を不意に誰かが掴んだ。


 いつの間にか少女に纏わりついていた鬼の髪はほどかれていて、問志はなんの苦労もなく導かれるまま髪の束の中から抜け出した。

 問志の腕を掴んでいたのは、槐だった。


「お嬢さん、怪我は……あー、まだ前回よりはマシかぁ?」

「僕はなんともないですけど、それより三根岸さん大丈夫ですかね。いくら起きたといったって、ついさっきまで気絶してたんですよ」


 問志が三根岸の声がした方へ眼を向ければ、地べたに胡坐あぐらをかいて座る男が、自身の真上で輝く星の海を愛おしそうに見つめていた。彼の周囲に垂れ落ちる髪はまるで牢の様にも見える。


 問志の視線に気づいたのか、ふと男が此方こちらを向いて笑った。憑き物の落ちた、くもり一つない笑顔だった。

「君達には本当に感謝している。ありがたく二十年ぶりの逢瀬おうせを甘受させてもらうから、無粋な真似しないでおくれよ?」

 それだけ言って、再び彼はへと向き直る。もうこれ以上は一瞬も彼女以外には使いたくないという、意思表示のようだった。


「言われなくてもさっさと帰るっテの。馬に蹴られて死ぬなんざゴメンだ。じゃあな」

 槐はそう吐き捨てると、問志の腕を掴んでなかば引き摺るように髪の森の出口へと進んでいく。

「……あのっ、お元気でっ」

 問志が首を捻ってなんとか言葉を紡ぐと、三根岸は此方こちらに背を向けたまま軽く右手を挙げた。


 それを合図にでもしたかのように、髪の森は深さを増し、やがてすっかり二人の姿は見えなくなってしまった。


 もう、僅かな囁き声さえも聞こえない。


 帰路を急ぐ二人が踏みしめる道は所々にひびが入り、その隙間に溶けた汚泥が流れ込んでいく。皮肉にも、そのお陰で往路よりずっと歩きやすかった。

 そうして進んでいくと、星の庭が話していた通りの場所にそれはあった。彼女はそれを自身の指だと云っていたが、問志の眼には入り口のない塔に見えた。


 極光オーロラが揺らぐ銀で出来た鏡面に、槐と問志の姿が映り込む。それに、槐が触れた。


 途端、直接銀の塔に触れていなかった筈の問志の視界がぐらりと歪み、足元が抜けたような浮遊感が少女に襲い掛かった。数刻前に体感したものと、同じものだ。


 視界は眼を開けていても黒く塗りつぶされていく。前回と違うのは、握りしめたままの調整器の冷たさと、自身の腕を掴んでいる槐の掌の感触だけだった。


  ◆ ◆ ◆ ◆


「……あれ、さっきの道じゃ、ない?」


 いつの間にか閉じていた目を開いた問志の眼の前に在ったのは、黒い色をした水溜ではなく、夕日によって赤く染まる見慣れない小池だった。



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