わすれもの 六 契約の規則

 そこでふと、問志はなんとなく誰にも聞けず仕舞いだった一つの疑問を思い出す。

「あの、橙埼さん。契約すると鬼は怪異が強くなるんですよね。契約した人が死んじゃったら、また怪異は契約する前に戻るんですか?それともそのままなんです?」

「いいや、そもそもあの契約は互いの生死で破棄されないぞ。契った相手が死んだのなら、鬼もそれにならうしかない。その逆は成り立たないがな」


「…ちなみに契約を生前に破棄することは?」

「前例は聞いたことがないな」

 問志の脳内に、彼女にとって想定の外にあった仮説が急激に浮かび上がる。


「それなら、最初から鬼側が複数の人と契約するとか、元々契約していた人が死んじゃう前に他の人と契約すればいい話なんじゃないですか」

 胸から湧き上がる重い不安を払拭しようと菊荷を問いただす問志に応えたのは、彼ではなかった。


「それが出来たらもう少し僕らも生きやすいんだろうけれど、残念ながら人と僕らの契約ってお互いの同意があれば必ず成功する訳じゃあないんだよね。お互いに初めてだったらまあまあの確率で成功するけれど、二回目以降の契約、多重契約って呼ぶらしいけど、かなり成功率が下がるそうだよ。僕自身が誰かと契ったことがある訳じゃあないから、成功率がどの位下がるかまでは見当が付かないけれどね」


 問志の質問に答えたのは店の奥から戻ってきた柳だった。両手で持った盆には三つの湯飲みと急須が乗っている。


 柳は盆を帳場に置くと、急須の中身を湯飲みに注ぎながら話を続ける。

「仮に二度目の契約で成功率が下がる事がなかったとしても、其の鬼にとって契約に値すると思える人間が都合よく複数人存在するかどうかも運が左右するし、その二人目と契約する前に血が尽きたら僕らはお陀仏だぶつだ。事実上、大多数の僕の同朋どうほうが縁を結べる人間は生涯で一人と思っていいだろうね。…僕みたいにずるずる契約しなくても伽藍化しないで生き永らえる鬼もいれば、生まれた直後に伽藍化が始まっちゃう鬼もいるから、人間と寿命を共有することの良し悪しに関しては契約した鬼の心持ち次第って感じかなぁ。僕もそろそろ、”これぞ”という人を見つけたいものだけれど、なかなかねぇ」


 菊荷と柳によってもたらされた事実は、問志の思い描いていた一等悪い仮説を裏付けていく。

(そんな、そんなに重いものだったの。知らなかったじゃあ済まされない。もし、僕が急死でもしようものなら、槐さんを道ずれにするかもしれない、なんて。…どうしようとんでもないことを槐さんにしてしまった)


「…君、顔色が悪いぞ大丈夫か」

 問志の様子がおかしい事に気付いた菊荷が彼女の顔を覗きこむと、先ほどまで寒さで赤らんでいた筈の顔からは血の気が失せ、青い顔をしていた。


「ほんとだ。体が冷えてしまったのかもしれないね。此処に座って。ゆっくりでいいかられをお飲み」

「す、すみません」

 柳に促されるまま、問志は天鵞絨びろうどの張られたスツールに腰掛けると湯飲みに注がれた茉莉花茶まりかちゃを受け取った。陶磁器越しの温度は、かじかんだ問志の指にゆっくりと熱を移し始める。


 れを眉間に皺を寄せながら見ていた菊荷にも、柳は座るよう促す。

「そこの彼もお座り。心配しなくても、お茶は熱くて美味しいだけのお茶だよ。」

(…心配?お茶は?)

 柳の言葉に引っ掛かりを覚えた問志は、思わず未だ立ち姿勢のままでいる菊荷と柳を見上げた。柳は先ほどと変わらない柔和で人好きのする表情を浮かべている。


 一方の菊荷の表情に対して、問志は柳が指摘するようなものだとは思えなかった。どちらかと言えば、柳の今の発言に対して怪訝な顔をしている、という風に見えた。


 そう見えていたが、柳の発言に心当たりがあったらしい菊荷は声を強張らせて、柳へ問いかける。


「…それは、貴方の”怪異”でそう読み取りでもしたのか」

「いやいや、まさか。僕の怪異がもしそうなら、もっとこの店は繁盛しているよ。僕は百年の大半を商人あきんどとして生きてきたんだ。職業柄、多少読心術の心得を嗜んでいた方が都合がいいのさ。もっとも、解るのは単純な感情の動きだけだけどね。兎に角、君が警戒するようなことは何もしてないよ」

 菊荷が責めるような態度を取っても、柳は変わらず穏やかな表情を浮かべている。


 二人(正確には菊荷の)のヒリついた言葉の応酬を聞いていた問志は、いつ二人の会話に割って入ろうかと内心焦りながら柳から渡されたお茶を啜ろうと、湯飲みに口を付けた。茉莉花ジャスミンの甘い香りが鼻を抜けていくが、今の問志にとってはそれどころではない。しかし。


「あちっ」

 冷え切った身体にその熱は少々刺激が強すぎたのも確かで、問志の舌は悲鳴を上げた。その悲鳴は彼女自身が思うよりも大きな音となって店の静かな空気を震わせる。問志は慌てて自身の口を押えたが既に遅く、柳と菊荷の注目は問志へと戻っている。緊迫した空気こそ緩んだが、さりとて朗らかな雰囲気とも言えない微妙な空気が三人を包んだ。


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