比良坂の巨岩 二 事情聴取

「外は寒いですから、中でお話しさせてください」と、問志は玄関の鍵を開錠し、木製の枠に硝子の嵌った引き戸を開け、二人に中へと入る様に促した。

「そうですね、確かにこの寒さは正直堪えます。甘えさせていただきましょう。槐も構わないわね」

「異論ねェよ」


 問志が両親と暮らす家は、二階建ての和洋折衷の構造を持つ木造建築であった。羽鐘が以前暮らしていた場所からまるごと移築したもので、築年数はそこそこ古く百年は下らないのだと問志は母から聞いている。年月の経過によってはりや柱は飴色の艶を持ち、問志や彼女の父親代わりであるミシェルによって、よく手入れがされていた。


 問志は二人を玄関から向かって右手へ伸びる廊下へ先導すると、奥の客間へと案内した。八畳ほどの客間は書斎と兼用になっていて、家具は背の低いテーブルが一台、テーブルを挟んで二人掛けのソファーが二台、それに四面ある壁の内の二面を埋め尽くす大きな本棚しかなかったが、部屋いっぱいに蔵書を詰め込んでいる為にやや窮屈な印象を真朱と槐に与えた。


 問志は客間の照明と暖房をつけると、「今お茶を淹れてきますから、どうぞ掛けていてください」とだけ言って、二人を客間に残して台所へと向かった。

 真朱は客間を離れた問志を見送りソファーに腰かけると、ジャケットの内側から正方形の白い和紙をいくつか取り出すと、万年筆で文字とも図形ともとれるものを書きだし始めた。


 槐は真朱の横に腰かけていたが、彼女の行動へ特別口を挟むこともなく、問志が消えた廊下の先をぼんやりと見つめている。

「見ず知らずの人間らを招くだなんて、随分危なっかしいお嬢さんもいたもんだネェ。まァ、おひいさまとしては都合が良くて万々歳か」

「否定はしないわ。でも、それだけ切羽詰まってるんでしょ」


 口角を上げて話す槐に一瞥もせず、真朱は慣れた手つきで和紙へ筆を滑らせていく。和紙の中に描かれたそれは、人間の眼にも三日月にも見える図形を中心としてその周囲に複数の漢字が記入されている。わざとなのか、それとも真朱自身の書き癖なのか、文字は大きく崩された筆跡で書かれている為に、蚯蚓みみずがのたうち回っている様にも見える。真朱本人でなければ、解読は容易ではないだろう。


 真朱が四、五枚の和紙に同じ図形と漢字を書き終わり、それらを懐へ仕舞い込んだところで、問志が盆に三つの湯飲みを載せて戻ってきた。

 問志は湯飲みを真朱と槐の前に一つずつ置くと、もう一つを彼女たちの向かいの席へ置き、自身もソファーに腰かけて来訪者と向き合った。


「それでは早速ですが、事の経緯をお聞かせいただきましょうか」

 真朱に促された問志は軽く頷くと、彼女が知りうる始まりから今までを話し始めたのだった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「問志、少しミシェルと離れに籠るから先に夕飯食っとけ」

 真朱達が東雲家を訪れた前日の夕刻、一人台所で夕飯の支度を行っていた問志は、廊下に響いた馴染みの声に気づくと葉物を刻んでいた手を止めて、冬の空気で冷え切った狭い廊下に顔を出した。玄関へと続く曲がり角に、厚手の外套が消えていくことに気づいた問志は慌ててその姿を追う。


「今から?もう晩御飯出来上がるから、食べてから籠りなよ」

「悪い急ぎだ」


 問志が玄関に向かうと声の主は既に靴まで履き終え、身支度を整えていた。問志の声に応えて振り向いた拍子に、顎の高さで短く切り揃えられた黒髪が揺れる。青白い肌をしたその女性こそ問志の保護者の一人である東雲羽鐘しののめはがねその人であった。年齢は三十前半。すらりと線の細い体躯と、化粧っ気のない鼻筋の通った端麗な顔立ち、気だるげに煙草を咥える薄い唇、僅かに吊り上がった切れ長の瞳の、灰色の淀みの中に鋭い光を宿した中性的な美形であった。


「どれ位掛かるの?」

「長くて二時間強。それ以上掛かりそうなら晩飯食いに一旦戻ってくる」

「…わかった。ミシェルはもう離れに行ったの?」

嗚呼ああ。何か用でもあったか?」

「うん。”羽鐘がまた食事抜いて完徹しないか見張ってて”って」

「……伝えておくよ」


 羽鐘は不服だと言わんばかりに眉根の皺を深めこそしたが、同時に心当たりもあるようで反論することもなく、一方の問志も、言質げんちを取ったことでひとまずは満足したらしく、それ以上の追及はしなかった。

 羽鐘は問志から背を向けてガラリと引き戸を引く。途端に冷たい空気が室内に入り込んできて、料理の最中で外套を着込んでいなかった問志は思わず身体を縮こまらせた。引き戸の向こうに見える空は重く厚い雲で覆われており、いつ雪の結晶を落としてもおかしくはない。


「雪、今夜にも降ってきそうだよ。ちゃんと暖かくしてね」

「問志こそ」

 羽鐘は、問志を再び一瞥すると唇の端を僅かに引き上げて微笑み、今度こそ離れに向かうべく夕闇の迫る外へと出ていった。


 しかし結局その日、羽鐘が問志の元に戻ってくることはなかった。


 問志が家族の異変に気付いたのは、次の日の早朝のことだった。昨晩、一人で夕飯を済ませた問志は羽鐘とミシェルが離れから戻ってくるのをずっと待っていたが、いつの間にか食卓に突っ伏したまま眠ってしまっていた。


「……あれ、」

 問志は寝起きで覚醒しきっていない頭を上げて周囲を見渡しだが、窓硝子の外が徐々に明るさを取り戻し始めていること以外は、昨夜と全く変化がなかった。二人の茶碗は逆さに伏せられたままで、羽鐘が昨日の昼間から食べたいとぼやいていた魚の煮つけにも少しだって手を付けた様子はなかった。


 問志は、その様子に違和感を覚えた。もし、昨夜離れに籠ると言ったのが羽鐘だけであったのならば、問志は彼女が約束を違えたことにそこまで不信に感じることはなかったかもしれない。しかし羽鐘は確かに、彼女の唯一であるミシェルを同行させていた。

 彼は、問志と同様に羽鐘の不摂生に対して口を酸っぱくして咎めていたから徹夜を黙認したとは考えにくかった。また誠実であることを人一倍己に課す性格の彼が訳もなく二人の帰りを待つ問志を放っておくことも、また稀有な事態であった。


 その違和感によって、急速に夢のあわいから現実へと意識を引き戻された問志はすぐさま食卓を出て家の中を歩き回ったが、何処にも二人は居ない。

 胸騒ぎを覚えた問志は玄関で靴を引っ掛けると、大急ぎで足跡一つない新雪の中、離れの工房へと向かった。この胸騒ぎが自分の杞憂であれと祈りながら。


 しかし、問志が普段むやみに近づくことを禁じられている東雲羽鐘の工房には数多の本と、使い道のわからない仕事道具、そして羽鐘が普段肌身離さず身に着けている筈の懐中時計、それにぞっとするような静けさだけが詰め込まれていた。





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